第88話 結衣さんって、なんでそんなにすけべなんですか?


 慌ただしい一週間を乗り切ったあと、肌を寄せ合って迎える土曜日の朝は、いつも決まって結衣さんよりも先に目が覚める。


 カーテンの向こうから微かに漏れる日の光を感じて、ゆっくりと瞼を押し上げた。


 十二月は、一年の中のどの月よりもずっと早く過ぎていくような気がする。

 一週間なんて風のように過ぎ去っていくし、二人で過ごせる貴重な週末がやってきたと思えば、月曜になってまた離れて暮らす一週間が始まる。


 朝が苦手な彼女は、私が目を覚ましてもいつもまだ夢の中にいる。


 隣で寝息を立てている彼女を見つめる。


 頬にかかるサラサラの黒髪を優しく払って、シミ一つない滑らかな白い頬を、撫でてみる。


 彼女が目覚めるまでのこの時間が、私はたまらなく好きだった。

 整ったその寝顔を見つめているだけで、あっという間に時間が溶けていく。

 固く閉じられた瞼の向こうの瞳の色が恋しいとは思うけれど――深い眠りの中にいるあなたの呼吸にすら私は、胸を締め付けられるような程の愛おしさを感じる。


 結衣さん、どんな夢を見ているのかな。幸せな夢だといいけれど。



 北上さんとの、約束の月曜日が、迫っている。


 このことについては、もう一度彼に会って話をつけた後、結衣さんに伝えるつもりでいた。


 北上さんのこと、怖くないわけじゃない。


 彼にとっておそらく最大の譲歩だったのであろう提案を断って、事実上の宣戦布告をするつもりの私に対して彼がどんな行動を仕掛けてくるかはわからない。


 でも、私にだって譲れないものがある。


 目の前の彼女がそうだ。この恋が、例えどんなに泥にまみれて傷だらけになるような恋だとしても、こんなことで諦めるなんてできない。

 例え誰かに後ろ指さされる日が来たとしても、私は彼女と生きていく。そう決めたのだから。



 北上さんは、きっと結衣さんを愛してはいないのに、一緒になりたいなんてどんな気持ちなんだろう。それで……虚しくならないのかな。


 もしかして、人を好きになったこと、ないのかな。


 地位とか名誉ってそんなに重要なことなんだろうか。彼が欲しいものって、なんなんだろう。


 有り余るほどのお金があったとして、それだけで本当に人は、幸せになれるんだろうか。


 北上さんが何をそんなに欲しがってるんだか、私には全然わかんないや。


 そんなものさえあればいいと言うのなら、それこそ絶対に結衣さんは渡せない。

 彼女は、そんな薄っぺらい欲望を満たすためだけに消費されていい人じゃない。


 とても繊細で、愛情深い人だと言うことをきっと彼は知らない。



 形のいい唇の輪郭を、そっと親指で撫でてみる。


 私はもう、結衣さんじゃないとだめだと思う。心も、身体も、あなた以外ではもう満足できない。

 優しさと愛情で甘やかされて、そういう風にされてしまった。


 優しいのに意地悪で、逃げたくなるのにもっとして欲しくて、彼女に触れられる度に知らない私がどんどん引きずり出されていくようで、怖くなる。


 結衣さんと一緒にいると、初めて知ることばかりだ。


 暗がりの中で私を見下ろす、射抜くような熱っぽい視線を思い出す。

 少し汗ばんだ熱い肌が触れ合う感触も、あの長い指が身体の奥深くまで届いた瞬間の、言葉にできないほどの甘い快感も……全部、結衣さんが教えてくれた。


 たくさんの女性たちがこの人の虜になっていた理由がよくわかる。

 過去のことに嫉妬したって仕方ないけど、もしももっと早く出会えていたら、あなたの熱を、誰にも触れさせずにいることができたのかな。


 私がこんなにもあなたに夢中になっているってこと、悔しいから本人には絶対に教えてあげないけど。


 額に唇を寄せると、長いまつ毛が震えた。起こすつもりはなかったのだけど、瞼の向こうの恋焦がれた黒い瞳が、私を映す。


「ん……おはよ、かなた……」


 その、寝起きの柔らかい声も好き。こんな朝の結衣さんを見ることができるのは、今は私だけの特権だ。


「……おはようございます、結衣さん」


 私を抱き寄せようと、その手が伸びる。だから私も遠慮なく、その胸に擦り寄った。




「やっぱり、広いベッドっていいですね。落ちる心配しなくてよくて」


 私のアパートのベッドはシングルサイズだから、二人で寝るには少し狭い。この間結衣さんが来てくれた時も、寝返りを打ったら落ちるんじゃないかと気が気じゃなかった。


 結衣さんのベッドがダブルでよかった。やっぱり、二人で寝るならこれぐらいがちょうどいいと思う。


「んー、そう? 私はかなたのベッドで一緒に寝るのも好きだけどなぁ」


「でも、シングルはさすがに狭くないですか?」


「そうだけどさぁ。いつもかなたが寝てるベッドも、特別感があって好きなんだよね……」


 その気持ちはわかる、と思った。私だって、自分のベッドで眠るよりも結衣さんのベッドで眠る方が好きだしぐっすり眠れるから。


 彼女の腕の中で微睡んでいると、安心するせいか眠気に誘われそうになってくる。

 でも、このまま二度寝しちゃいけない。今日は悠里と出かける約束をしているから、起きないと。


「……ねえ結衣さん、寒くてお布団から出たくないです。私の部屋着、どこですか」


「あー、ごめん、その辺に放り投げちゃったかも」


 結衣さんに買ってもらったばかりの、手触りのいいモコモコの部屋着は、昨夜、下着と共にあっさりと彼女の手で脱がされてしまった。


 多分、ベッドの下に落ちちゃってるんだろうけど、途中で結衣さんが暑いって暖房を切ってしまった挙句にエアコンのリモコンまでどこかに放り投げてしまったから、暖房を入れるにもこのベッドから出ないといけないのがどうしても辛い。


「……結衣さんが脱がしたんだから、責任持って探してくださいよ。寒いからベッドから出たくないです」


「えー、もう服着ちゃうの? 悠里ちゃんとの約束、お昼でしょ? もうちょっと一緒に寝てようよ」


「……だって、服着ないと寒いもん」


 拗ねるように言うと、結衣さんが笑った。


「寒い? そっか。じゃあ、暖めてあげる」


「え? ちょ……っと結衣さん?」


 のそりと私の上に覆い被さった結衣さんがにっこりと笑って、私の首筋に唇を寄せる。

 お布団の中で悪戯な左手が私の無防備な太ももをなぞるから、思わず、まだ少し赤く腫れた噛み痕が残るその肩を慌てて手のひらで押し返した。


「かなた、痛い。傷に触るのはなし」


 結衣さんがむっと不機嫌そうに言う。確かに、傷に触れたのは申し訳なかったと思う。

 でも、この状況で迫られるのは少しまずい。

 だって服を着ていないから、今の私には身を守る術がなにもない。


「だって、結衣さんが変なことしようとするから……」


「かなたが寒いって言うから、暖めてあげようと思って」


 寒いとは言ったけど、暖めてほしいなんて言ってない。「服を探して」とお願いしただけだ。


「だめ?」


 肌を撫でながら徐々に上がって来るその手を内腿で挟んで止めると、結衣さんが薄く微笑んだ。


「……結衣さんって、なんでそんなにすけべなんですか? 最近本当に、狼みたいです……」


 結衣さんがすけべなのは今に始まったことじゃないけど、朝からしたがるなんて、想定外だ。一緒に暮らしたら本当に、どうなっちゃうんだろう。

 こんなにも求められると、どうしたらいいのかわからなくなる。……それが嫌ではないと、思ってしまう私も私なんだけど。


「かなたが裸で隣で寝てて、その気にならない方が無理だよ。ね、お願い。一回だけで我慢するから」


「そう言って、一回で終わったこと、ないじゃないですか……」


「ちゃんと約束するから。お願い」


 耳朶に唇を寄せられて、ぶるりと背が震える。反応してしまった私に気をよくした結衣さんが、右手でギュッと私を抱きしめた。


「……結衣さんって、昔から女の子とセックスするの、大好きですもんね」


 せめてもの抵抗として唇を尖らせてそう言えば、結衣さんが笑う。


「それは否定はしないけど……女の子とじゃなくて、かなたとしたいの」


「本当に……一回だけ、って、約束してくれますか……?」


「うん、もちろん。約束するよ」


 柔らかな舌が私の首筋を撫でて、鎖骨を緩く噛む。昨日付けられた赤い印がそこにあるはずで、愛おしそうに私に触れる唇に息が上がる。


 何度か唇を触れ合わせただけで、お腹の奥に熱が灯って、身体の力が抜けてしまう。

 それをいいことに、太ももをなぞりあげていた手が脚の間にたどり着いた。

 あっ、と小さく声が漏れて、腰が震える。


 心の準備もできていないままに敏感な場所に触れた指の感触に身ぶるいすると、結衣さんが私を見下ろしながら意地悪く微笑んだ。


「ふふ、すごいね……」


「……そう、いうこと、言わないで……」


 キュッと唇を噛んで抗議する。指先が触れた瞬間の滑りの良さから、そこがどうなっているのか自分でもわかってしまって、恥ずかしい。


 ごめんごめん、って謝りながらも結衣さんは容赦なく私の脚の間に身体を滑り込ませて来るから、もうどうしようもなくなって、ギュッとその背を抱き締めた。

 持ち上がった布団の隙間から、冷たい空気が流れ込む。


「結衣さん、さむい……」


「……すぐに暑くなるから、大丈夫」


 耳元で優しく名前を呼ばれるだけで、眩暈がしそう。触れた指先の感触が、私の理性をどろどろに溶かしていく。


 今が朝だってこともすっかり忘れて、私もその首筋に唇を寄せて、甘えるように歯を立てた。




***




 こうなるってわかってたのに、なんで私は結衣さんのお願いを受け入れてしまったんだろう。


 まだ少し気怠さが残る身体に鞭を打って、出発予定時間前にはやっとの思いで準備は終わらせたけれど、私はまだちょっと、拗ねていた。


「かなた、今日の服、かわいいね。いいなぁ、私もかなたとデートしたかったな」


 ソファでミルクティーを飲みながら呑気にそういう結衣さんをじろりとにらみつける。


 明日のデートで着るはずだったおろし立ての白いハイネックのトップスを今日選ばざるを得なくなったのは、私の首筋にこれでもかというくらいにキスマークを残した結衣さんのせいなのに。


 首筋だけじゃない。お腹とか、太腿とか、至る所に彼女の証が残されている。最近の彼女は本当に遠慮がない。


 そういう私だって人のこと、言えないかもしれないけど。

 部屋着の白いスウェットから覗く首筋には新しい噛み痕がひとつ増えていた。それは今朝私が彼女に噛みついたときにできた、真新しいものだ。


 私が噛みついても、結衣さんは怒らない。歯を立てると一瞬かなり痛そうにうめくけど、それだけだ。


 昔、結衣さんが別の女の子に噛みつかれた傷を指摘した時は――「すっごく痛かったから次はないかも」って言っていたのを私は少し気にしていたのだけど、今のところ何度でも「次」はやってくるから、多分、許してもらえているんだと思う。


 どうしても我慢できなくて、悪い癖だと思っているけどやめられない。


 でも、いつもは、この悪癖を毎回謝っていたけれど、今回限りは謝る気なんて毛頭なかった。


 確かに、結衣さんは「一回だけ」という約束自体は守ってくれた。でも、その約束のせいで散々な目にあった。

 だって――まさかその「一回」を、あんなに焦らされるとは、思っていなかったから。


 もう無理だからこれ以上焦らさないでと何度懇願しても、まだやめたくないと駄々をこねる結衣さんがなかなか離してくれなくて、途中からもう半泣きだった。


「……結衣さんとは、明日デートするじゃないですか。今日は悠里とデートする日なので」


 ふいと視線を逸らしてぶっきらぼうにそういえば、結衣さんがきょとんと目を丸めて私の顔を覗き込んだ。


「あれ? かなた、もしかしてまだ拗ねてる?」


「別に……拗ねてません」


「ごめんってば。機嫌直してよ。ちゃんと約束、守ったでしょ?」


「……遅れちゃうんで、もう行きますね」


 一回だけ、なんてもう二度と言わない。そう胸に誓って、バッグを掴んで玄関へと向かう。すると後ろからぎゅっと引き留めるように抱きしめられて、足を止めた。


「かなた。待ち合わせ場所まで送っていくよ」


「いいです、電車の時間、もう調べてますから」


「じゃあ、帰りはお迎え行くから」


「……今日は遅くならないので、電車で帰れます」


「そう? じゃあ、夕飯作って待ってるね」


「えっ……いいんですか?」


 相変わらず結衣さんは私の機嫌を取るのが上手いと思う。拗ねてるはずなのに、簡単に食べ物に釣られてしまう私自身もどうかと思うけど……。


「いいよー。夕飯はシチューにしよっか。昨日食べたいって言ってたでしょ?」


 ぼーっとテレビを見ているときの私の何気ない言葉も、結衣さんは簡単に拾い上げてくれる。

 それが嬉しい。私のこと、本当に愛してくれてるんだなって思えるから。


 うん、と頷くと、結衣さんの唇が頬に触れた。


「気を付けてね。いってらっしゃい」


 優しい声色でそう言われて、拗ねていた自分がばかばかしくなってくる。

 なんだかうまく丸め込まれた気がするけど……もういいや。


「……じゃあ行ってきます」


 しぶしぶ手を振って言うと、結衣さんも笑って私に手を振った。



***



 今日悠里を誘ったのは、結衣さんへのクリスマスプレゼントを選ぶのに付き合って欲しかったからだった。


 一日中連れ回しても、優柔不断な私に文句も言わず付き合ってくれる友達なんて、多分悠里以外にいないと思う。


 悩みに悩んで、プレゼントはワンポイントのロゴが可愛いレザーの手袋に決めた。

 今年の冬は特に寒いとニュースでも言っていたから、結衣さんが少しでも暖かく過ごせるように、出張でも使えるような黒を選んだ。

 試着してみると、私の手では指先が余ってしまったけれど……彼女の長い指なら、きっとぴったりだと思う。


 それと結衣さん愛用の香水と同じブランドのハンドクリームを添えて、プレゼントしよう。


 ささくれひとつない整った指先を思い出す。風邪を引かないようにと手洗いが増える季節だから、ハンドクリームはいくつあってもいいと思う。


 あーでもないこーでもないって真剣にプレゼントを選ぶ私を悠里は時折揶揄うように、でもどこか嬉しそうに笑っていた。



 付き合ってくれたお礼にと自社ホテルの自慢のアフタヌーンティーをご馳走した後、悠里とは夕飯前には解散した。


 帰りの電車の中で結衣さんに「今から帰ります」と連絡する。


 すると珍しく、すぐに返事が返ってきた。「できたよー」ってメッセージと共に、クリームシチューが入った鍋の写真が添付されていて、自然と笑顔になる。


 白い息を吐きながら、シチューに思いを馳せつつ、結衣さんの家までの道のりを足早に歩いた。



 少しずつ、憂鬱な月曜が、近付いてくる。


 でも、それさえ乗り越えれば、四年越しのクリスマスは、すぐそこだった。

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