第86話 返事は今すぐじゃなくていい

 仕事を終え、出退勤端末に社員証を翳して、ビルを出る。外はすっかり暗くなっていて、きんと冷え込むような寒さを感じてコートの襟を寄せた。


 会いたくない人に会いに行くからか、指定されたホテルへと向かう足取りはいつになく重い。


 北上さんが何を考えているのかはわからない。

 前に会った時も思ったけれど、私はあの人が苦手だ。あの焦げ茶色の瞳に見つめられるだけで、肺をぎゅっと搾り取られるような、例えようもない息苦しさを感じる。


 彼は私を呼び出した理由を「仕事の話」だというけれど、あの文面からはどうしてもそう捉えることができなくて、まるで先の見えない霧の中を行くように心細い。


 本音を言えば、逃げ出したい気持ちで、いっぱいだった。


 あれこれ深く考えすぎる私の性格が、邪魔をする。考えないようにしようとしても、どうしても最悪のシナリオを思い浮かべずにはいられなかった。


 悪い方に悪い方にと考えてしまう。もしかして本当に仕事の話だったりするかもしれないのに。


 でも、じゃあどうして結衣さんには秘密なの? どうして自社のホテルではだめで、違う系列のホテルなの?


 一人で考えたところで答えなんて出るはずもないのに、ぐるぐると悪い思考の渦に囚われてしまって抜け出せないままに、あっという間に指定された場所までついてしまった。


 ため息をついて、ホテルを見上げる。てっぺんは、黒い空に吸い込まれて行きそうなほど、高い。

 普段なら、絶対に来ることもない場所だ。指定されたバーラウンジは、名の知れた、競合他社が運営するラグジュアリーホテルにあった。


 ギュッと、バッグの取っ手を握りしめる。うじうじ考えていたって仕方ない。もう、ここまで来てしまった。今更引き返すことなんて、できないのだから。



 結局私は、北上さんに呼び出されたことを結衣さんには言わなかった。


 ただでさえ忙しい彼女に、これ以上心配をかけたくなかったというのもあるし、北上さんの真意がわからないままに告げ口をしてしまったら、それこそ私と結衣さんの関係が「社長」と「秘書」の枠を超えてしまっているということを、彼に知られてしまうきっかけにもなりかねない。


 だから、相談するのは、北上さんの話を聞いてからでいい。


 そうは思ったけれど、この期に及んで足がすくんでいる。なんて、情けない――。自嘲するように、笑うしかなかった。




***




 約束の、十九時。


 薄暗いバーラウンジの、奥。カウンター席に、彼は座って待っていた。

 濃紺のスーツに身を包んだ広い背中。清潔感のある髪型をしたビジネスマンの装い。

 まだ数回しか会ったことがないのに、私はすぐに彼だと気が付いた。


 声を掛けるまでもなく、私の足音に気が付いたらしい北上さんが、ゆっくりと振り返った。その独特な焦げ茶色の瞳に、オレンジ色の照明がぎらりと反射する。


 普段、誰かにこんなにも刺すように見つめられることなんてない。だから、わかってしまう。彼がその胸の内に抱く、私に向けた敵対心を。


 まるで足元から絡みついてくるかのような、気持ち悪さを感じる。私を見つめる彼の瞳は、いつだって、まるで獲物を狙う蛇のように鋭い。


「……よかった。来てくれないんじゃないかと、少し不安だったよ」


 時間には、遅れていないはずだけど。

 言い返しはしないけれど、不満に思う私を見透かすように、北上さんはウイスキーグラスを片手に、にやりと笑った。


 そう思うなら、最初から呼び出したりなんてしなければいいのに。なんと言えばいいのか迷って、結局無難に「遅くなって、すみません」とだけ返した。

 声が、震えてしまわないように。動揺を、悟られないように。深く深く、お腹からめいっぱい息を吸い込んだ。


「隣、どうぞ」


 促されるまま、隣の椅子に腰を下ろす。


「何、飲む?」


「……お酒はあまり得意じゃないので、結構です」


「つれないこと言わないでさ。せっかくなんだから」


 そう言うなり、彼はカウンターの向こうのバーテンダーさんに向かってさっと手を上げた。


「彼女にもこれと同じものを」


 北上さんはウイスキーグラスを軽く持ち上げて薄く笑う。


 ちょっと待って。お酒、得意じゃないって言ってるのに……。

 反論する隙も与えないままに、彼はじろりと私を見る。そしてその瞳が、私の胸元でぴたりと止まった。


 そこには、結衣さんから譲り受けたネックレスが輝いている。それを確認してから彼は、ふっと不敵に微笑んだ。


 バーテンダーさんから差し出されたグラスを、断ることもできずに渋々受け取る。

 グラスの中に揺れるのは、おそらくウイスキーだ。ストレートでなんて、飲んだことないのに……。

 私が眉を顰めたのに気付いたのか、気を利かせたバーテンダーさんが、少し遅れてチェイサーも差し出してくれた。


 乾杯、と差し出されたグラスを無視することもできずに、仕方なく私もグラスを差し出す。どうも調子が狂う。やっぱりこの人は苦手だ。


 北上さんは、誰が相手であったとしても瞬時に自分のペースに引き込んでしまうような、そんな強引さを持っている。ビジネスマンとしては優秀なのだろうけれど、一緒にいると息が詰まる。ものすごく居心地が悪い。


「結衣と飲むより先に君とお酒を飲むことになるとは思わなかったな。今まで飲みに誘ってもついて来てくれたことないんだよ。ほら、結衣って酒弱いだろ」


 お酒に、弱い? 誰が? 結衣さんが?


 は? と口に出そうになる。この人、何を言っているんだろう。


 結衣さんってめちゃくちゃお酒強いはずですけど……。そう言いかけたけれど、黙っておく。たぶんそれは、結衣さんが彼をのらりくらりと躱すためについた嘘に違いなかった。


 気付かれないように小さくため息をついて、そっとグラスに口をつけてみる。独特の香りと舌に乗る苦味に、思わず眉を寄せた。


 結衣さんがいつも飲んでいるハイボールとは違う。


 お酒を飲んだ後の彼女の舌はいつもほんの少しだけ苦いけど、その中にも微かに甘さがある。

 ウイスキーって、そういう味なんだと思ってた。


 でも、丁度いいや。どうせ、彼と飲むお酒なんて何を飲んでも美味しくないに決まっている。


「早速ですが……ご用件を伺ってもよろしいでしょうか」


「まあ、そう焦らないで。君にとって悪い話をしようってんじゃないんだ」


 悪い話じゃないとは、とてもじゃないけど思えない。


 私も彼が嫌いだけど、彼も私のことが嫌いみたい。言葉の端に棘が隠されていて、隙を見せたら容赦なくこの心臓を抉り取られそうな、そんな緊張感があった。


「実は……ホールディングスの秘書室に、君を推薦しようと思っているんだ」


「えっ?」


 突然のことに、素っ頓狂な声を上げてしまっていた。言葉の意味をすぐには理解できなくて、世間一般からしてみれば整っているのであろうその顔を、伺うようにじっと見る。


「簡単に言うと、親会社への逆出向だね。上手くいけば、そのまま社籍を移すこともできる。うちの平均年収知ってる? 今よりずっと、環境も給料も良くなるよ」


「いや、でも、私は秘書になったばかりで……。推薦されるような実績を上げた覚えなんてありません」


「そんなことないだろ。その若さで秘書を務めるなんて大したものだよ。あぁ、もしかして君の後任を心配してるの? それならこちらで用意するから心配しなくていいよ」


 間髪入れさせず一息でそう言い切った彼に、苦笑する。

 さっきまで、考えすぎは悪い癖だと思っていたけれど……思い直す。

 最悪のシナリオを想定していて良かった。やっぱり彼は、私と結衣さんの関係に気付いている。気付いていて、彼女から私を引き離そうとしているんだ。


「こんな好条件の話、断る理由なんてないだろ? それとも、そこまで結衣の秘書にこだわらないといけない理由がある?」


 私がその理由を言うことができないことを、彼はわかって聞いてきている。そう直感した。本当に……意地の悪い人だ。


 どうすべきか――思案する。即答はできない。下手なことを言って言葉尻を捕らえられては困るから。

 この人は、頭がいい。結衣さんだったら容易に太刀打ちできる相手かもしれないけれど、正直、何の準備もしてきていない今の私には少し、手に余る。


「……この話、結衣さんには内緒だと仰っていましたよね。でも、申し訳ありませんが会社を通していただけませんか。私の一存では決められません」


 答えを濁すしかない。相手の腹の内がわからないままに感情だけで反論してしまうことは避けたかった。


 すると北上さんは、ふっと私を笑った。


「君の意志だけで、大丈夫だよ。結衣が断るわけないだろう? 君の将来を考えても、とびきりの良い話なのに嫌がる理由がどこにある? 仕事は遊びじゃないんだ。結衣だってわきまえてるさ」


 静かで、感情をおくびにもださない平坦な声色。


 それが逆に恐ろしい。ずっと喉元に刃を突き付けられているようだ。

 下手に少しでも動いたら、一瞬で皮膚を突き破って喉を掻き切られてしまうのではと錯覚するほどに。


 暑くもないのに自然と汗が噴き出る。何度もごくりと息を飲んでは、動揺を悟られないよう、ウイスキーで口を湿らせた。


 嫌な味。この香りも、舌にまとわりつくようなざらつく苦味も、このひとも、大嫌い。


 そこまで強引に押し進めようと言うなら――今ここで、はっきりと断ろう。ウイスキーグラスの中で揺れる琥珀色から視線を上げて、彼を見る。

 大丈夫、直接指摘された訳ではない。証拠を掴まれているわけじゃないのだとしたら、まだ、しらを切り通す余地がある。


「ありがたいお話、感謝いたします。でも北上さん、申し訳ないですが私は……」


「社員を家に寝泊まりさせるなんて、従業員と経営者の範疇を超えていると思うんだけど。仲が良いのはいいことだけど、他の社員に知れたらまずいと思うよ。君が良くても、結衣の素質が疑われる。会社経営に私情を挟むなんて、結局は道楽娘のお遊びだって思わせたくないだろ」


 研ぎ澄まされた言葉の刃が、胸を抉る。道楽だなんて、言って欲しくなかった。一体今まで彼は、彼女の何を見てきたんだろう。


 他の社員に知られたらまずいのはわかる。でも、そんなことで結衣さんがこの会社で積み上げて来た三年間が揺らぐとは、私にはどうしても思えなかった。


 この人は、結衣さんのことをまるで何も知らない。


 結衣さんは、凪いだ夜の海のような人だ。


 彼は、結衣さんの本質を知らない。どこまでも遠く果てしない水平線ばかりを目で追うだけで彼女を知った気でいて、その向こうに深い深い海があることを、そしてそこに本当の彼女がいることを、きっと彼は今まで知ろうともしてこなかった。


「ご忠告どうもありがとうございます。でも、ご心配には及びません。以後、注意いたしますので。ですから、逆出向の話については――」


「返事は今すぐじゃなくていい。そうだな、一週間後に聞かせてくれ」


 私の言葉を先読みした北上さんに、ばっさりと言い切られて口を噤む。にこりとその薄い唇をしならせて、彼は笑った。

 でも、私を見るその瞳は、少しも笑っていない。悪寒が走るほど、彼は暗く冷たい瞳をしていた。


「俺はね、揉め事は嫌いなんだ。できれば穏便に事を済ませたい。結衣のサポートなら俺一人で充分だ。雪哉も、君も、必要ない。もう少しよく考えてみて。今後の身の振り方も含めてね」


 がたりと音を立てて、北上さんが立ち上がる。言い返そうと口を開いたところで、ぽんと肩に、節ばった大きな手を置かれる。その強く肩を掴む手の感触に、背筋が凍る思いだった。


「そうそう……君のお父さん、一ノ瀬社長のご友人なんだってね。今はイギリスに駐在しているんだろう? うちのグループと引けを取らないような大きな会社に勤めていて、すごいよね。日本に戻って来たらいずれ取締役は間違いないなんて、社内はそんな噂で持ちきりだとか。だから君も、その血を継いで優秀なのかな」


 はっと、その顔を見上げる。なぜ、そんなことを。まさか調べたのだろうか。私のことを。


 動揺を、悟られてはいけない。この人は弱みにつけ込むタイプに違いない。なんでもいい、何か言葉を。早く言い返さなければ――そう思ったのに、一瞬、脳裏にお父さんの笑顔がよぎった。


 喉の奥がぎゅっと狭まったように、苦しくなって声が出ない。


「じゃあ、また。一週間後にここで」


 北上さんが去って、残された私はただ茫然としていた。手のひらの痛みで、深く爪が食い込むほどにずっと拳を握りしめていたということにようやく気付く。


 震える指先をほぐすように、そっと開く。手のひらは、爪の形にくっきりと、赤くなっていた。




***




 電車のドアに寄りかかって、揺れる窓から、ただぼうっと街の灯りを見ていた。


――言い返せなかった。言いたいことは山ほどあったのに。……情けない。


 窓にごつんと、頭をぶつける。


 正直、父親を出されるとは、思わなかった。あれはやっぱり、私を脅しているんだろうか。

 


 年末、帰省した時に家族には話すつもりでいるとはいえ、相手が結衣さんであることや、私たちの関係が今は許されるものではないと言うことについては、まだ告げられないと思っていた。


 娘の不貞、しかも同性間での――。


 それをもし、お父さんの会社にバラされたりでもしたら……お父さんにまで、迷惑をかけることになるかもしれない。


 北上さんは本気だ。本気で私を脅威に感じていて、徹底的に排除しようとしている。


 ずいぶんと鼻が利く人だ。私はどうやら彼を、甘く見すぎていたのかもしれない。


 アパートの最寄駅で降りて、家までの道のりをひとり歩く。どうしよう。どうしたらいいんだろう。

 

 コートのポケットからスマホを取り出して、冷えた指先で着信履歴の一番上をタップしようとして――やめた。


 代わりに、そのひとつ下。慣れ親しんだ友人の名前を、タップする。

 数コールの後に、「もしもし」という安心する声が聞こえてきて、ずっと強張っていた身体の力が、やっと抜けたような気がした。


「突然ごめんね。悠里、今忙しい? あのね――ちょっとだけ愚痴、聞いて欲しくて」


 舌に残る、ほろ苦いウイスキーの味が、どうしても消えてくれない。


 遠い夜空を見上げる。


 まるでこのまま空へ落ちていきそうだと思うほど、果てのない深い闇が、そこにただ広がっていた。



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