社会人二年目、冬。
第85話 今年は、サンタさんにお任せします
十二月も半ばを過ぎれば、夜になると気温はぐっと落ち込んで、いよいよ冬の訪れを肌で感じる。
金曜の、夜。
ソファの上でブランケットにくるまりつつ、加湿器に水を入れている結衣さんを視線だけで追う。暖房が必要な季節になると、どうも空気が乾燥する。この時期は風邪をひきやすいから、責任ある立場の結衣さんは常に体調管理に気を使っていた。
そんな彼女と一緒に過ごす時間が長い私も、学生の頃よりは数倍気を付けるようにしている。
季節が変わり、いつの間にか結衣さんの部屋着もシンプルなTシャツからパーカーへと変わっていた。
今朝のニュースで、今年は南岸低気圧が発生する見込みだと、気象予報士のお兄さんが言っていた。
いくら暖房を付けているとは言え、私もショートパンツにブランケット一枚だけじゃ、今年の寒冬を乗り越えられる気がしない。
「ねえ、結衣さん。暖房の温度、上げてもいいですか?」
加湿器に水を入れ終えた後で、キッチンで私のためにホットミルクを作ってくれていた結衣さんにそう声をかける。
「あ、寒かった? もちろんいいよ。気付かなくてごめんね」
申し訳なさそうに眉尻を下げて、結衣さんがそんなことを言った。ううん、と私は首を横に振って、暖房の設定温度を一度だけ上げる。
結衣さんは優しいから、こういう時真っ先に「ごめんね」と言ってくれるけど、謝る必要なんてない。私が薄着しているのが悪いだけだ。
ピッ、という音と共に、エアコンの吹き出し口からごうっと温かい風が吹いて、部屋を満たしていく。
はい、と手渡されたマグカップを受け取って、「ありがとうございます」とお礼を言うと、結衣さんが私の後ろに滑り込む。そしてぎゅっと私の身体を温めるように優しく抱きしめた。
背中に温もりを感じながら、マグカップに口をつける。ほんのりと甘い、はちみつの味。
「冬の部屋着も用意しないとね。私のスウェットじゃちょっと大きいし」
冬でもエアコンをつければじゅうぶんに温かいと思ったから、部屋着を買い替える必要性を感じていなかったけれど、さすがにちょっと寒くなってきた。
結衣さんと私じゃ足の長さが違うから、上着は借りることができたとしても、たぶん下は無理だ。裾を踏んでしまいかねない。
私もそろそろ、部屋着を新調しないと。風邪を引いてしまったら、迷惑をかけてしまうから。
「冬のボーナスもあることですし、新しい部屋着、買おうかなあ。結衣さんがきっと高評価を付けてくれてるはずなので、二十五日が楽しみです」
「ふふ、そうだね。冬のボーナスも、期待して良いよ」
冗談で言ったつもりだったのに、本当に高評価をつけてくれたらしい結衣さんに、内心、少しだけ驚いた。
夏のボーナスも明細を見てぎょっとしたほどだったけれど……業績が好調なだけあって、今年の冬も懐が暖かくなりそうだ。
「そういえば、結衣さんのボーナスも、冬なんですか?」
「ううん、私は春。業績連動賞与が一回だけ。だから、来年は期待できそうだね。せっかくだから旅行に行って、思いっきり使っちゃおう。まだ先の話になるけど、楽しみにしてて」
そう言って、結衣さんが笑った。
それなら、春はお言葉に甘えてしまうとして、クリスマスはボーナスがある私の出番だ。
もしかしなくても結衣さんの月収は私の賞与よりもはるかに多いのかもしれないけれど、それとこれとは別の話。
結衣さんの誕生日は説得して、私がお金を出すことを了承してくれたけれど、普段彼女は私がお財布を出すことを嫌がるから、イベントがあればそこが私の頑張りどころになる。
それに結衣さんは、私があげたプレゼントを本当にずっと大切に使ってくれるから、あげる側としても選び甲斐がある。
学生時代に、サンタさんこと私があげた青いチェック柄のマフラーを、結衣さんは今もしている。肌寒い季節になってそのことに気が付いた時、胸の内がくすぐられたような気持ちになった。
だから今年も、私はまた、結衣さんのサンタさんにならないと。
欲を言えばせめてイヴぐらいは、休日だったらよかった。
クリスマスから年末年始にかけては、収益の柱でもあるレストラン事業も宿泊事業も書き入れどきだから、結衣さんは打ち合わせや会議に引っ張りだこで、猫の手も借りたいくらいに忙しい。
次から次へと、これでもかというくらいアポイントの依頼が飛んでくるから、予定表をテトリスみたいに組み立てるのに、私もとても苦労をした。
オフィス全体に人が行き交う慌ただしい雰囲気を、私もひしひしと感じ取っている。
そんな状況下では仕事を休むわけにはいかないし、仕事終わりにデートができれば万々歳だと思う。責任ある立場の彼女に、わがままは言えない。
去年も、一昨年も、その前も。ひとりで過ごしたクリスマスに比べれば、一緒に過ごすことができるだけで私はじゅうぶんに幸せだと思えた。
コーヒーテーブルにマグカップを置いた後、リモコンを手に取って背中に体重を預ける。
するとブランケットの中に忍び込んだ悪戯な手のひらが、冷えた内腿の際どいところを優しく撫でた。
驚いて、思わずその手をぺしんと叩いて振り向く。
「結衣さん、もう! 変なところ、触らないでくださいよ」
「ごめんごめん。足、寒いかなーと思って」
結衣さんにとっては軽いスキンシップのつもりなんだろうけど、あんまり際どい部分に不用意にその手で触れられると変な気持ちになるから、私はいつも気が気じゃない。
叱られたその手がそろそろとブランケットから這い出て、代わりに私の身体をぎゅっと抱きしめ直した。
気を取り直して、今日観る映画を選ぶ。こんな週末を何度も繰り返して、もうこれが日常になりつつある。
頬に、首筋に、何度も触れる唇にくすぐったいと笑いながら、他愛もない話をしつつ映画を観る週末のリビングには、たくさんの幸せが詰まっていた。
「イヴは定時で上がってデートしよ」
やっぱり、結衣さんも同じことを考えてくれていたらしい。うん、と頷いて、お腹に回った彼女の手をぎゅっと繋いだ。
「イルミネーション見に行きたいです」
「いいよ、見にいこっか。プレゼントは何が欲しい?」
「何がいいかなあ」
「なんでもいいよ? アクセサリーでも、バッグでも」
アクセサリーはもう貰ったし、バッグは今あるものでじゅうぶんだ。結衣さんって貢ぎ癖があるから、こういう時は気を付けて発言しないと、とんでもないことになるということは今までの経験則でわかっていた。
「あ、じゃあ……部屋着、とか」
「部屋着?」
聞き返してくる結衣さんに、うん、と頷く。すると後ろから、「えー」と不満そうな声が聞こえてきた。
「そんなの、別にクリスマスじゃなくたって買ってあげるよ。もっと他にないの? 欲しいもの」
部屋着だって決して安いものじゃないのに。結衣さんは、気に入ったものは金額の大小に関わらず躊躇いなく買うけれど、無駄遣いをするタイプではない。
お金の使い方が上手だなと思うけれど、私に関してはちょっと見境がないような気がする。そんなにポンポン色んなものを買ってくれると、申し訳なくて。
「うーん……なんだろう」
私も結衣さんも、物欲はあまり強い方ではない。どちらかと言わなくてもそこに込められた想いを大事にするタイプで……結衣さんに至っては、それがすごく顕著だと思う。
大学時代から北上さんに贈られ続けているプレゼントの紙袋は、彼女のクローゼットの中に今も未開封で積み重なっていた。
北上さんが結衣さんにいつも贈るあのブランドのアクセサリーは、どれを取っても可愛いものだ。
それでも結衣さんがかたくなにそのプレゼントを身に着けようとしないのは、結衣さんにとって価値を感じるのはモノではないのだろう。
その気持ちは、すごくわかる。私だって、結衣さんから貰ったものならなんだって、心から嬉しいと思うから。
「それじゃあ……今年は、サンタさんにお任せします」
彼女の長い指に自分の指を絡めつつ振り返ると、結衣さんがふっと優しく微笑んだ。
「そう? わかった。じゃあ、サンタさんに伝えておくね。今年一年いい子にしてたかなたにぴったりのプレゼント、用意しておくようにって」
「ふふ、お願いします」
キスしてほしくて、顔を寄せる。結衣さんはそれに応えるように優しくキスをくれるから、嬉しくなってその首筋にすり寄った。
寒かったはずの身体は、いつの間にか、すっかりと温かくなっていた。
クリスマスを過ぎたら、年末なんてあっという間にやってくる。今年はロンドンに帰省するから、仕事納めをしたらすぐ、少し長めの休みを貰う予定だ。
結衣さんとも、一週間くらい会えなくなる。寂しいけれど、行かなくちゃ。家族に、私は伝えないといけないことがある。
私が女性と一緒になりたいと思っていることを両親に打ち明けようとしていると、まだ結衣さんには秘密にしている。
でも、出発前には言おうと思っていた。
きっと結衣さんは、私には必ずしも両親に言う必要はない、無理しなくていい、と言うだろう。
でも、伝えることに不思議と不安はなかった。
いつか日本の法律が変わるまで、結婚はできない。私の子供は抱かせてあげられない。
それでも私は幸せだと言うことを、自分の言葉でしっかりと、家族に伝えたい。
女性に、恋をした。じゃあ本当は同性愛者だったのかと言われればたぶん違う。
それなら両性愛者なのかと言われたら、それもちょっと違うような気がする。
いまだに私は、自分がどんなふうにカテゴライズされるのか、いまいちよくわかっていない。
たぶん、これから先も、きっとずっとわからない。でも、それでいいと思っていた。別に、名前を付けなくても。
誰が決めることでもない。私が決めることだから。
結衣さんを心から愛しているという事実だけが、私の中にあるただ一つの答えなのだから。
***
月曜日。しんと冷え切った冬の空気を頬に感じながら、葉っぱ一つ残っていない街路樹が続く道のりを歩く。
道中で、ばったりと三ツ矢さんに鉢合わせた。黒いコートの襟を寄せて、両手を擦りながら寒そうに白い息を吐いている。
「おはようございます、三ツ矢さん」
「青澤ちゃん、おはよー。今日も寒いね」
にかっと笑う三ツ矢さんの鼻の先は少し赤くなっている。そういえば、あれから、三ツ矢さんの恋に進展はあったのだろうか。
聞いてみよう。そう思ってそっと肩が触れるくらいの距離に近づくと、どこかで嗅いだことのあるような、フローラルな香りがした。これは女性用の香水の匂いだ。
三ツ矢さんは、私と同じく香水はつけない派だと思っていたけれど、もしかして心境の変化があったのだろうか。
「あれ、三ツ矢さん。もしかして今日、香水つけてます?」
「えっ?」
びっくりしたようにのけぞった三ツ矢さんが視線を泳がせたから、不思議に思って首を傾げた。
「あー、えっと、ごめん、そんなに匂いする?」
「どうして謝るんですか? すごくいい匂いですよ。どこの香水なんです?」
何気ない会話のつもりで聞いたのに、三ツ矢さんは、「さあ……なんだったかな」と誤魔化すように笑った。
秋の終わりごろから、予算管理課にやっと私の後任が配属されたと聞いている。
そのことについても聞きたかったけど、三ツ矢さんは会社に着くなり逃げるように私に手を振って、慌てて行ってしまった。
彼女の恋の行く末も聞きそびれてしまったけど……まあいいか、また機会もあるだろう。
忙しかったのかもしれないし、仕方なく私も社長室へと向かう。
結衣さんは終日、役員向けのマネジメント研修に参加することになっていて、ホールディングスの本社ビルに直行して直帰する予定だから、社長室には誰もいなかった。
結衣さんがいない間に、簡単なタスクを潰しておこう。昨日結衣さんから、先日執り行った取締役会の議事録を製本しておいてほしいと言われていた。
取締役会事務局から受け取った議事録に、結衣さんは事前に目を通してくれているから、あとは製本して、雪哉さん含む各取締役に押印をもらわないといけないのだけど……明日雪哉さんの会社に行く予定があってついでに持っていくから、事前に準備してほしいとのことだった。
PCの電源を入れると、メールが何通か届いていた。まずはメールチェックからこなしていこう。そう思って受信ボックスに視線を滑らせた瞬間、ドクリ、と心臓が掴まれたように跳ね上がった。
「……なんで……」
唇が震えて、思わず声に出てしまった。しんと静まり返った社長室に、私の呼吸の音だけが響く。
受信ボックスの一番上に、今まで受信したことのない送り主のメールが入っている。受信時間は今日の朝。
送り主の名は――北上、慎二。
名刺も交換していないのになぜ、と思ったけれど、簡単なことだった。
グループ共通イントラの社員検索機能を使えば、メールアドレスなんて簡単に調べることができる。
震える手で、受信したメールをクリックする。
――お疲れ様。話したいことがあるから、今日の十九時、このホテルのバーラウンジで待ってる。仕事の話だから、絶対に来てほしい。結衣には内緒で。よろしく。
メールには、ホテルのURLが添付されていた。指定されたのは、うちのホテルじゃない――ということは、仕事の話だというくせに、誰かに聞かれたくない話をする、ということだ。
こんなの、明らかに私信だ。ビジネスのメールには、とてもじゃないけれど見えなかった。
どうしよう。結衣さんに言うべきか、否か。迷う。ふう、とため息をついて、思わず、額を押さえた。
やっぱりだ。あの時、何となく察してはいたけれど――十中八九、北上さんは私たちの関係に、気付いてる。
ぎゅっと、胸元のネックレスを握る。だいじょうぶ。怖がらなくていい。逃げちゃいけない。しっかりしないと。
こんな日がくることだって、最初から覚悟の上だった。
春までのたった数ヶ月が、どうしても待てなかった。
今はまだ許されない関係だとわかった上で、それでも私は彼女の愛が、今すぐにでも、欲しかった。
あの時私は、罪も罰も、すべて受け入れると決めたんだ。
今更――怖気づいたりは、しない。
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