秋の番外編 世界の果てまで

 人は生まれてから死ぬまでに、いったいどれだけの人を愛することができるのだろう。


 夜を共にしたことのある女性の数は、正直に言うと覚えていない。


 今まで私が恋した人は、二人いる。

 でも、心の底から愛した人は、生涯でたった一人になりそうだ。


 恋をした最初の一人のおかげで――自分は同性愛者なんだと正しく認識できたような気がしている。


 十八歳の私にとって、初めての彼女との別れはひどくつらい出来事だったけれど、数年後に経験することになるかなたとの別れに比べれば、取るに足らないほどの痛みだったと今なら思う。


 もしも元カノと別れずに、大学までずるずると関係を続けていたとしたら、私はかなたとの同居の話を、理由を付けて断っていたかもしれない。そうだとしたら、私は愛しいこの子に、出会うこともなかった。


 人生は巡り合わせだと言うけれど、本当だなぁとしみじみ思う。こんなにも大切に思える存在に巡り会える日が来るなんて、十八の夜、何もかもに絶望して、すべてを諦めていた私が聞いたら、心底驚くに違いない。



 疲れ果てて、隣でぐっすりと眠るかなたの長い睫に唇を寄せて、目を覚まさないように気をつけながら柔らかな頬を優しく撫でた。

 白くて丸い肩をそっと抱き寄せれば、少しだけひんやりと冷えていて、布団を肩まですっぽり覆うようにかけ直した後にぎゅっとその細い身体を抱きしめた。


 性急に剥ぎ取って放り投げてしまったかなたの部屋着は、きっとベッドの下にでも落ちてしまっていると思うけれど、拾って着せてあげる間もなく、いつの間にかかなたは私の腕の中で眠ってしまっていたから、私も服を着ることを諦めて、今日はこのまま眠ることにした。


 秋の夜は、長い。


 明日かなたとパンケーキを食べに行くと約束しているのに、眠るのがもったいなくて、金曜の夜はいつもこうして夜更かししてしまう。

 私よりも先に起きたかなたがむっと頬を膨らませながら私の肩を揺り起こすのが、土曜の朝のいつもの流れだった。


 でも、仕方ない。


 かなたは知らないかもしれないけれど、こうしてかなたを抱きしめて眠るだけで、胸が締め付けられてどうしようもないほどに、愛おしさがまるで雪のように降り積もっていく。


 積もるだけ積もって一生溶けないその雪は、私の心の痛みも苦しみもすべてを取り除いてくれる。


 早く一緒に暮らしたい。毎日抱き合って眠りたい。朝目が覚めた時に、隣にあなたがいてくれるなら、私は他に何もいらない。


 そんなことを言ったらもしかしてかなたは笑うかもしれないけれど、私はいつもまじめにそんなことばかり、考えている。



 早く、春になればいいのに、と思う。



 慎二と鉢合わせた時――気づいてしまった。かなたがこの関係に、罪悪感を抱いているということに。

 繋いだ手がかすかに震えていて、ひどく胸が締め付けられたのを覚えている。


 もう二度と傷付けたりしないと誓ったのに、私は、大好きなこの子に、またつらい思いをさせてしまっている。

 考えてもみれば、当たり前の話だった。かなたは私と違ってまじめで誠実で、物事を深く考えてから行動をするタイプだ。


 とてもじゃないけれど、かなたは不貞を許容できるような性格はしていない。


 いくら私と慎二との間に一切の愛がないとは言え、婚約者がいる状態の私との関係に対して、葛藤がないわけがなかった。


 それなのに私の想いを受け入れてくれたのは――愛情ゆえだとわかっている。


 我慢なんて、できなかった。私の秘書になりたいと、他の子には譲りたくないと、かなたが言ってくれたとき、気持ちがまだ私に向いていると確信してしまったから。

 それからというもの、胸がいっぱいで夜も眠れなくなるほどに、かなたが愛しくて愛しくてたまらなかった。春までなんて、もう、待てなかった。



 三年前、私が父に「絶対に結果を出す」と約束したことは、私の中でのけじめであり、同時にわがままでもある。

 社会人になってからの最初の一年間は、ホールディングスの経営企画室で、血の滲むような努力をした。

 平日はがむしゃらに働いて、家に帰ってからは寝る間を惜しんで勉強して、土日は雪にぃの家に転がり込んで、頭を下げて教えを請うた。


 社長の娘だから。次期社長だから。そういう好奇の目にさらされもしたし、陰口を叩かれたことがあったのも知っている。でも、そんなことどうでもよかった。


 生まれながらに与えられた立ち位置が、煩わしいと思ったこともある。でも、今になって思えばそれは幸運なことだったのかもしれない。


 私がかなたに与えてあげられるものは、決して多くない。


 でも、今の私には社会的地位があって、金銭的な余裕がある。それらはずっと私を縛り続けていると思っていたものではあったけれど、裏を返せば強みでもあった。もしこれから先、私に何かがあったとしても――私にはかなたに、残せるものがある。


 もちろん、年老いるまで二人寄り添って生きていきたいと思うけれど、人のいのちは儚いものだ。別れは唐突に訪れる。それは誰に対しても平等に。


 愛する者を置いて遠く手の届かない場所に行くことがどれほど辛いことか。愛する夫や、幼い我が子を置いていった母の無念が、今なら苦しいほどに想像できた。


 大切な人ができたからこそ、幸福な気持ちのすぐ側に、失うことの恐怖が常に寄り添っている。これは、かなたに出会って恋をして、初めて知った感情だった。



 かなたに再会するまでは、いつだって、焦っていた。どんなときも最適解を選び続けられたわけじゃない。それでも、何もせずにはいられなかった。


 早く、迎えに行きたい。今度こそ、まっさらな身体で。その一心が、私の原動力だった。


 かなたにもう恋人がいたらどうしよう。結婚してしまっていたらどうしよう。


 考えるだけで、胸の奥がギリギリと締め付けられるような夜もあった。苦しくて辛くてたまらなくて、何度も律がいる大阪に通って泣きごとを言っては、そのたびにまるで競走馬に鞭打つように背中を叩かれた。その背中の痛みに、私はどれほど救われただろう。


 そうして日々を重ねていくうちに、いつしか決意は固まっていった。


 すべて清算した後にかなたに会いに行って、もしその時、かなたの隣に誰がいたとしても――例え、結婚していたとしても。どんな手を使ったとしても絶対に、奪い返してみせる。そう決めた。


 誰に何を言われても知ったことではない。残念ながら私は、かなたと違って良識人ではなかったらしい。


 それが例え社会的に間違っていることだったとしても、そんなもの関係ないと簡単に飛び越えてしまうほどに、私は彼女を愛してしまった。



 そんな野心に燃えていた三年目の春、かなたは、あの頃と変わらないままの笑顔で私の前に現れた。


 神様って本当にいるのかも、って。柄にもないことを考えた。


 春を過ぎ、夏を超え、秋になり、そして今、かなたが私の腕の中にいる。こんなに幸せなことがあるだろうか。この体温を手放してあげることなんて、とてもじゃないけどもうできそうにない。



 本当は、早く父親に私が同性愛者であることを明かして、慎二との婚約を破談にしてもらえばそれで済む話なのかもしれない。

 きっと驚くだろうし、本心では落胆するだろうけれど、無理に慎二と結婚しろとは言わないと思っている。よく知る私の父は、不器用だけれど、そういう人だった。


 でも、すぐにそうせずに、かなたを待たせてしまっているのは――ちゃんと結果を出すことで、私が生半可な気持ちではないと、本気なのだと、父にも納得してほしいと私が強く思っているからだ。


 学生の頃から、私が会社経営に乗り気ではなかったということを、恐らく父は気付いていた。ことあるごとに、父はいつも私に謝った。「責任を押しつけて、申し訳ない」と。


 だから、慎二を私にあてがった。慎二の社会的地位への貪欲さは、無欲だった私にはきっとぴったりだったんだと思う。もしもかなたに出会わなかったら、私はきっと文句も言わずに慎二と結婚することを選んだだろう。

 彼は、私に「愛」を強要しない。だから都合がよかった。恋愛関係を求められるよりは、ずっと。


 でも、私はかなたに出会ってしまった。


 だからもう慎二とは結婚できないし、「子供を持たなければいけない」という思いも自分の中ではきれいさっぱりとなくなった。


 たった一人で私を育ててくれた父に返してあげられるものは、仕事で成果を出す以外何もない。


 せめて、父を安心させてあげたいという私の気持ちを、かなたはわかっている。


 だからこそ、かなたは私に何も言わない。宙ぶらりんのままのこの関係に文句一つ言わずに、ただ私を信じて隣にいてくれる。


 だから私は、かなたのそんな優しさと気持ちに、しっかりと応えたい。


 春になれば――もう誰にも隠すことなく、あなたを心から愛していると、胸を張って言うことができる。


「んん……」


 無意識に、抱きしめる腕に力がこもってしまっていたのか、胸元でかなたが小さく唸った。細い腕が私の背をきゅっと抱き寄せて、さらさらの栗色の長い髪が私の鎖骨を擽る。



 かなたの目が覚めてしまわぬよう、もう一度寝かしつけるようにとんとんと背中を優しく叩くと、すぐにまた、規則正しい寝息が聞こえてきた。


 ごめんね、かなた。でも、もう離さないから。一生、大事にするから。かなたが、私の側にいてくれるなら、この心臓が止まるまで、ずっと……ずっと。


 ふわふわの髪に頬ずりをして、目を瞑る。「幸せ」というものがこの世界にかたちを持って存在するのなら、間違いなく今、この腕の中にある。確かに今、そう思った。




 翌朝、例に漏れず寝坊してしまった私の肩を、かなたは不満そうに唇を尖らせて揺り起こした。もう慣れて気にも留めなくなった肩の噛み痕にかなたの指先が触れて、少しだけ、痛む。

 今の、絶対わざとだなぁと思いながらも、指摘はせずにぱちぱちと何度か瞬きをして脳を再起動する。


「ねえ結衣さん、起きて。もう九時ですよ。早く行かないと、限定のパンケーキ売り切れちゃいます……」


「ん……うん、今起きる。おはよ、かなた……」


 アラームは八時にセットしていたはずなのに、たぶん、この感じだとかなたが止めてくれたんだろう。かなたを抱き寄せようと、寝起きでまだ力が入らない腕を伸ばしたのにするりと逃げられてしまう。あっけなく、手のひらがぽすんと、ぬくもりを残した真っ白のシーツの上に落ちた。


「あれ、おはようの、ハグは……?」


 不満に思ってそう言うと、かなたはベッドから出て、昨晩私が放り投げた服を拾い集めながら、ふいとそっぽを向いた。


「そんな時間、ないです。いいから早く起きて準備してください」


 背中に手を回して、もたもたとブラのホックを留めようとしているかなたに薄く笑って、手を伸ばしてそれを手伝ってあげる。相変わらず不器用でかわいい。


 後ろから抱きしめれば、ぎゅっと腕をつねられる。「痛い」って抗議をすれば、それよりも強く私をにらみつける彼女に思わず笑った。


「もし売り切れてたら、結衣さんのせいですからね。お店、並びますよって、言ったじゃないですか。連れてってくれるって、約束したのに……」


 昨日、ふわふわで厚みのある生地に、たっぷりのシロップとホイップが乗ったパンケーキの画像を、かなたがきらきらした目で眺めていたことを思い出して、寝坊してしまったことを心から反省する。


「ん、大丈夫、すぐに準備するから」


 ちょっと寝坊はしちゃったけれど……たぶん、大丈夫。


 八時にきっとかなたは起きていたはずなのに、私をぎりぎりまで起こさずにいてくれたことは、かなたの優しさだ。


 その優しさに報いるために、全速力で準備をしようと今、決めた。


 愛しい彼女のご要望とあらば、どこにだって連れて行ってあげる覚悟はできている。 



 例えそれが、世界の果てまでだとしても。



 かなたが望むなら私は、きっと空だって飛べると思う。


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