第84話 ちゃんと言葉にしてくれないとわからないよ

 当然だけれども、私は女性同士でするセックスは結衣さんとしか知らない。

 もちろん、今後の人生で彼女以外にこの身体を差し出すことはないと思っているけれど、だからこそ、思うところもあったりもして。


 例えばこんなふうに、強く強く彼女に求められている時なんかは。



 バスルームに私を押し込んだと思ったら、かろうじて腕に引っかかっていた私のブラを剝ぎ取って、結衣さんは強引に私の腕を掴んで引いた。

 

 抵抗するように後ずさってとっさに距離を取ろうとしたけれど、当然ながらその先は行き止まりで、逃げ場なんてどこにもあるはずない。

 私が一歩引いたところで、彼女も一歩距離を詰めるだけ。結局すっぽりと抱きすくめられて、優しく首筋に唇を押し当てられた。


 「結衣さん」って、震える声で名前を呼んでみる。でも、もう待つ気なんてさらさらないらしい彼女は私を壁際まで追いつめて、許可も得ずにあっという間に私の下着を太ももまで下ろしてしまった。

 せめてもの抵抗で、私の身体が見えないように抱きついてその背に爪を立てれば、彼女が耳元で笑う声がした。


「かなた、そんなにくっ付いてたら脱がせられないよ」


「だって……」


 浴室を照らすオレンジ色の照明は、脱衣所と比べれば幾分かは光量が抑えられてはいるけれど、それでも彼女とベッドの中にいる時だってさすがにこんなに明るくはない。

 目を凝らさなくても十分に身体が見えるような明るさに、羞恥心がこみあげてくる。


「せっかくかわいい下着なのに、伸びちゃってもいいの?」


 からかうようにそう言うけど、脱がせたのはあなたなのに。こんなに明るいところで、身に何も纏わないでいるのは、心許なくてそわそわする。


「……やだ」


「じゃあ、足あげてよ。脱がせてあげるから。ね?」


 聞き分けのない子供を宥めるような口調で、耳元に唇を押し付けながらそんなことを言う。さっきまであんなに怒っていたくせに、突然手のひらを返したように優しく言うから、そんな彼女に私はいつも翻弄されてしまっている。


 抱き寄せていた腕の力を緩めて、少しだけ距離を取る。結衣さんは、どうしてバスルームに私を連れてきたんだろう。私を脱がせて、どうするつもりなんだろう。

 不安そうな私の様子に気付いたのか、結衣さんは安心させるように私の頬に優しく唇を寄せた。


 左手が私の太ももをそっと撫でて、下着をするすると足元まで下ろしていく。

 初めは鎖骨。それからお腹に、腰に、太ももに、身体の輪郭を辿るように順に唇を寄せられて、思わずキュッと目を瞑った。


 そうしてつま先から下着を抜くと、バスルームからぽいっと脱衣所に放り投げてしまう。

 脱衣所とバスルームを隔てるドアが、ばたんと閉ざされてしまうと、いよいよ逃げ場なんてどこにもなくなった。まるで袋の鼠だ。


 その黒い瞳がただ、私を見つめている。裸を見られて恥ずかしがるなんて、今更だってわかってる。だけどやっぱり、その熱の籠もった視線にはどうしたって慣れない。


「……綺麗だね」


 結衣さんは、いつも私を「かわいい」っていう。でも、私が裸になったときだけは決まってこんな風に「綺麗だ」と褒めてくれる。

 そう言われると、胸の内を擽られたようにむずむずして、居てもたってもいられなくなる。


 正直に言うと、私は自分のスタイルに、自信がない。結衣さんみたいにすらりと手足が長いわけじゃないし、決してメリハリのある身体でもない。彼女がどういう女性を好むのかは知らない。聞いたこともないし、聞くのも怖かった。

 でも、いつも私を愛しむように見つめるその瞳が、そんなふうに欲を乗せて見つめてくるこの瞬間が、どうしようもないほどに私の胸を熱く焦がす。


「……あんまり、見ないで」


 恥ずかしさから、じわじわと瞳に涙が滲む。今にも泣き出しそうな私に気付いたらしい結衣さんが、驚いたように少しだけ目を丸めた。

 それから笑って、私の身体をぎゅっと強く、抱き寄せてくれる。


「……そんな顔しないでよ。かわいいなぁ、もう」


 ため息混じりに言う結衣さんの声は、いつもみたいに柔らかくて、優しい色をしていた。


「だって、意地悪しないでって、言ったのに……」


「ごめんごめん。もう意地悪しないから。お願いだから、泣かないで」


 ぽろりと溢れた涙を拭うように目尻にキスをして、すりすりと背中を撫でてくれる手のひらに、どうやら許して貰えたのだと知って安堵する。


 昔からそうだけど、結衣さんって、優しいんだか意地悪なんだか全然わかんない。その性質って対極にあるような気がするんだけど、彼女は絶妙なバランスでそれを両立している。

 まるでシーソーみたいな落差に私はいつも翻弄されてしまって、もうこの底なし沼からは到底抜け出せそうにない。


 世の女性を虜にするその性格、本当にどうにかしてほしい。


 悔しくて悔しくて、ぎゅうっと力いっぱいその身体を抱きしめると、「痛い痛い」って結衣さんが笑った。


「結衣さんの、バカ」


「だって、かなたに別の人の匂いがついてるの、どうしても嫌だったんだもん。だから早く落としたくて」


「……だからって、こんなに意地悪しなくても。結衣さんだって、学生の頃はしょっちゅう他の女の子の匂いつけて帰ってきてたくせに。忘れちゃったんですか?」


「そうだっけ? 学生の頃なんて、もう覚えてないよ。かなたのこと以外、ぜんぜん記憶にない」


 たった数年前のことを忘れてるはずないのに、本当、結衣さんっていつもこう。都合がいいんだから。

 拗ねる私に結衣さんが笑って、シャワーヘッドを手に取ると水栓をきゅっと捻った。

 勢いよく出たシャワーの水が足元に少しだけかかって、その冷たさに身震いする。

 暫くすると湯気が立ち込めてきて、手のひらで温度を確かめた結衣さんがシャワーヘッドを私の身体を向けた。


 あったかくて、気持ちいいけど……やっぱりまだ恥ずかしい。


「お詫びに身体、洗ってあげるね」


「いいです、自分で洗えます……」


「だめ。私がやる」


 かなたのために新しいボディソープ買ったから、なんて言って高そうなボトルを手に取ると、もこもこの泡を手に結衣さんがにっこりと笑う。

 煙草の匂いをシトラスの香りで上書きするように、濡れた私の肌に、その手がそっと私の身体を滑った。

 首筋から、鎖骨を通って、胸元へ。肩を撫でたら、指の先まで優しく形を確かめるようになぞっていく指先の感触に、なんだか……変な気持ちになってくる。


「あの、結衣さんまで、濡れちゃいますよ」


「あー……そうだね、夢中になってて脱ぐの忘れてた」


 私のことばかり裸にしておいて、結衣さんはまだ下着姿のままだった。それが少しだけ不満。

 スタイルがいい彼女は私の前で服を脱ぐことに関して全く抵抗はないみたいだから、「結衣さんも脱いで」ってお願いすれば、いつもすぐに服を脱いでくれる。

 でも今、私の身体を洗うのに忙しいらしい彼女は、その要望を叶えてくれる気はなさそうだった。


 少しは優しい結衣さんに戻ってくれたけど、瞳の奥の熱は全く消えていなかった。

 この綺麗な容姿に騙されてしまいそうになるけれど、結衣さんって、性欲なんて全然なさそうな見た目をしているくせに、中身はまるで真逆だ。

 狼を彷彿とさせる獰猛な眼差しが、いつだって私の身体に火をつけて、途端にだめにしてしまう。


 息が上がる。身体を洗ってくれているだけだと頭ではわかっているのに、お腹をたどって、指先が腰に触れた瞬間ぴくりと身体を震わせてしまって、それに気付いた結衣さんが薄く笑った。


「結衣さん、ど、どこまで洗うんですか……?」


 しゃがんだ結衣さんが、泡を伸ばしていくように私の右の太ももを撫でる。際どいところを触れられると、意識しなくても変に身体が反応してしまうのがどうしても恥ずかしくて聞けば、私を見上げた彼女は意地悪くにっこりと微笑んだ。


「どこまで洗ってほしい?」


 優しく滑り落ちていく手のひらが、太ももの裏を辿って、それからふくらはぎを優しく撫で下ろしていく。

 心臓がばくばく脈を打つ。こうして結衣さんを見下ろすことなんて、あまりない。ネイビーブルーの下着から覗く膨らんだ真っ白な胸元に、視線が釘付けになる。


 結衣さんに出会うまでは、女性の身体を見るだけで自分の心臓が痛いほどに高鳴るなんてこと、経験したことなかった。


 その手のひらが、くるぶしまでたどり着いたと思ったら、今度はゆっくりと巻き戻るように足を撫で上げていく。ふくらはぎから、膝の裏、太ももの裏、それから内ももへ。

 ぞわぞわと背が震えて、あ、もうだめだ、と思った。完全にスイッチが入ってしまった。


 一度火が付いた身体を落ち着かせるには、私にはどうしたってこの人が必要だ。他の誰でもない、あなたの指と、声と、その体温が。


 今やっと、結衣さんの目的がわかった気がする。


 初めからこうするつもりだったんだ。自分から触れるつもりなんて最初からなくて、私にねだらせるつもりで。

 意地悪しないって言ったのに、結衣さんの嘘つき。文句のひとつでも言ってやりたいと思ったけれど、そんなことを言ってもっと意地悪されるのは嫌だった。だから、観念して、目を瞑る。


「ゆ、いさん」


「なあに」


「もう、意地悪しない、で」


「意地悪なんかしてないよ。身体洗ってあげてるだけでしょ」


「それが、意地悪なんですよ……」


 そんな熱の籠った瞳で私を見つめておいて、この身体に火をつけるような触れ方をしておいて、ただ身体を洗っているだけなんて、そんな理屈が通るはずがない。


「そう?」


 バスルームは酷く音が響く。ただ床を打つシャワーの音と、耳元から聴こえる自分の鼓動に、めまいがしそう。

 じっと私を見つめるその瞳は、私の言葉を待っている。たぶん、結衣さんは私が言わなければきっと何も与えてくれないつもりだ。

 でも、恥ずかしさを押し殺して一言ねだれば、きっと結衣さんは私が欲しいものを惜しみなく与えてくれるだろう。


 ひとこと。たった、ひとことだ。


「結衣、さん」


 震える声で、名前を呼ぶ。呼吸が浅くなって、胸が何度も上下する。その間も彼女は私の足をすりすりと撫でながら、私を見ていた。


「なあに、かなた。……ちゃんと言葉にしてくれないとわからないよ」


 視線が絡み合う。私の考えていることなんてきっとお見通しな結衣さんの、手のひらの上で転がされているような気さえする。

 きっと彼女は、私が彼女の思うまま、望むとおりの言葉を言うだろうということを、最初から理解している。


 結衣さんは、私の性格をよく知っている。そして私の一手も二手も先を読む。そういうひとだから。


「おねがい、……ちゃんと、触って」


 唇から零れ落ちた言葉はあまりに小さくて、シャワーが床を打つ音に搔き消されてしまいそうなほどに弱々しかった。

 その言葉を待っていたのであろう結衣さんの唇が、弧を描く。


 立ち上がって、嬉しそうに微笑む彼女の下着が濡れてしまうことなんて気にもせず、半ば縋りつくように抱き着けば、優しく唇が重なる。


「うん、いいよ。……よくできました」


 そっと唇を離して、私を覗き込むその欲の乗った瞳に心も身体も射抜かれてしまった私は結局、いとも簡単に身体を震わせて、もうベッドまで待てないくらいに彼女を求めてしまったのだった。




***





「ねえ……結衣さん、お腹、すいた」


 ソファで私の髪を乾かし終わった後、ドライヤーのコードをくるくるとまとめている彼女に、拗ねる気持ちをぶつけるようにぽろりとこぼした。


 仕事が終わってから半ば無理やり家に連れ込まれた挙句、ごはんも食べずにバスルームで事に及んでしまったせいで、体力を消耗した私のお腹はもうぺこぺこだった。

 今、結衣さんの策にはめられてバスルームで彼女を求めてしまったこと、ものすごく後悔している。


 あんなに声が響くなんてこと知らなかったし、支えてもらっていたとはいえ、立ったまま、っていうのも初めてだったから、かなり堪えている。絶対に、結衣さんがなかなかやめてくれなかったせいもある。


「お腹すいた? デリバリーでなんか頼む?」


 後ろから私をぎゅっと抱きしめて、結衣さんが言う。でも、今はそんな気分じゃない。猛烈に拗ねている私は、ふるふると左右に首を振った。

 今夜は甘えたい気分だった。だって、あんなに意地悪されたんだから、これぐらい甘えたって罰は当たらないはずだ。


「やだ、結衣さんが作って。なんでもいいから」


「なんでもいいの? いいけど……何かあったかなあ」


 相変わらず腰が軽い結衣さんは、私を抱きしめていた腕を離すと立ち上がってキッチンへと向かう。部屋着のTシャツから覗く、真っ白い肩に付いた噛み痕から目を逸らして、私はブランケットにくるまった。


 秋も、そろそろ終わりを告げようとしている。夏の終わりに結衣さんと付き合って――恋人になって初めて過ごした秋は、すごく幸せで何物にも代えがたい最高の思い出ができた季節になった。


 冷蔵庫を覗いて何を作ろうかと真剣に考えている愛しの恋人の背を見つめる。


「ねえ、かなた、パスタでいい?」


 振り返ってそう尋ねる結衣さんに、うん、と頷いた。





 間もなく冬が来る。そして、冬を越えれば、春が来る。そしたら、彼女はきっと晴れて自由の身になって、私たちは、四年前には越えられなかった春を、乗り越える。


 もう、諦めたりしない。私はもう二度と、結衣さんを手離さない。


 例えこれから先何があっても、ふたりならきっと、大丈夫。


 だって私は今、意地悪だけれど底抜けに優しい、そんな彼女のことを心の底から——愛しているから。






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