第83話 少しだけなら、待ってあげる



「お昼休憩、ありがとうございました」


「おかえり。早かったね、もう少しゆっくりしてきてもよかったのに」


 そう言って、結衣さんはPCのモニターから視線を上げた。私が休憩に行っている間も、相変わらずお仕事していたみたいだけど、結衣さんはもうお昼食べたのかな。

 デスク脇のごみ箱に視線を滑らせると、コンビニのレジ袋が見えた。


「結衣さん、いつも言っていますけど、ちゃんと休憩しないとだめですよ。働きすぎは身体に悪いですからね」


 頑張りすぎるところがある恋人の身を案じて、そう注意しながらお財布をバッグにしまおうと自分のデスクに向き直ると、ガタリ、と音がして思わず結衣さんを振り向いた。


「かなた」


 徐に立ち上がって詰め寄ってきた結衣さんを見上げる。形のいい眉をきゅっと寄せて、彼女は信じられないというような目で私を見下ろしていた。


「は、はい。どうしたんですか?」


「これ、かなたのじゃないよね。三ツ矢さんの……?」


「えっ?」


 視線の先を追うと、結衣さんが私が着ているジャケットのことを言っているのだとわかった。


「あ、はい。そうですけど……」


 言っている途中で、結衣さんの手が私に向かって伸びる。突然襟元を掴まれて、ジャケットを脱がそうとしてくるから驚いて身を引いた。


「な、何するんですか? これ、今日寒いからって、三ツ矢さんが貸してくれて……」


「寒いなら私の貸すから。脱いで、今すぐ」


「えぇ? でも、結衣さんのジャケットなんて着たら袖、余っちゃいますよ……」


「別に、余ったっていいでしょ」


 みるみるうちに曇る結衣さんの表情にはっとする。これはかなり不機嫌だと気づいて、抵抗をやめる。

 こうなった結衣さんに反抗するのは得策ではない。あとで痛い目に合うということは、彼女と付き合ってから何度か思い知った経験がある。


 結衣さんは独占欲が強い。それは付き合ってから初めて知った彼女の一面だった。

 決して束縛はしないし、私の気持ちを一番に優先してくれるけれど、少しでも私に異性が近付く気配があるとすぐに気が付いてさっさと排除してしまうし、まるでナワバリを守る狼みたいに、いつだってピンと耳を尖らせて周囲を警戒しているような、そんな鋭敏さを持っている。


 そんな結衣さんのナワバリの範囲外に、私が不用意にぴょこぴょこと飛び出して行こうものなら、あっという間に首根っこを噛まれてナワバリの中に引きずり戻されてしまう。


 超えてはいけないラインがある。そしてそれを私は時折見誤ってしまって、その度に結衣さんに「それはだめだ」と教育される。


 言葉で伝えるより先に、身体に教えた方が早いとまるで躾をするように私を抱くから、優しい彼女が途端に狼に変わる瞬間が、経験の浅い私には、まだ少し刺激が強かった。


 ぎらぎらした眼差しで見つめられるだけで、その向こうにある強い愛情を感じ取っては心を震わせてしまう。

 私は、そんな彼女にめっぽう弱いのだ。



 私から三ツ矢さんのジャケットをはぎ取ると、結衣さんはむっとしたままそれをハンガーラックに掛けて、代わりに自分のジャケットを引っ掴んだ。そして恨めしそうに私の瞳をじっと見つめて、結衣さんは唇を尖らせる。


「……かなた。他の人の服を着るのは、なしだからね。私以外は絶対にだめ。わかった?」


 少し袖が余るそのジャケットを大人しく着せられながら、考える。確かに――結衣さんが別の誰かに服を貸していたら、私だっていやな気持ちになるに違いない。

 結衣さんが嫌がることをしてしまったんだと今更ながら気付いて、浅はかだったと反省する。


「……ごめんなさい」


 素直に謝ると、結衣さんが私の身体をぎゅっと抱き寄せた。仲直りのハグをして、取り返しがつくうちに早いところ機嫌を直してもらおう。そう思ってその背に腕を回そうとした瞬間、結衣さんが私の肩を掴んで突然、ぐいっと距離を取った。

 急に突き放された身体が、がくんと揺れる。


「わっ」


 思わず驚いて声を上げてしまった。気に障ることをしちゃったかなと不安になって見上げると、結衣さんの表情が、あからさまに険しくなっていた。


「あの、結衣さん……?」


 ハグを拒否されたことなんて、今まで一度もなかった。どうしよう、そんなに怒っちゃったのかな。どうしたら許してもらえるんだろう。

 おろおろとしていると、結衣さんの眉間にぎゅっとしわが寄った。


「……かなたの匂いじゃない」


「えっ?」


 あ、そうか。狭い個室だったから、煙草の煙が充満してたことを思い出す。それで匂いがついちゃったのかもしれない。


「三ツ矢さんの煙草の匂い、移っちゃったかもしれません。結衣さん、苦手でした?」


 慌てて謝って結衣さんのジャケットを脱ごうとすると、結衣さんの手がそれを制止する。


「……寒いんでしょ、着てていいよ」


 にっこり笑って、結衣さんがそう言った。でも、その瞳の奥が全然笑っていなくて――その笑顔に、あぁ、やってしまったと気が付いた。


 多分、服を借りたところまではギリギリ、結衣さんの「超えちゃいけないライン」のふちだった。

 でも、「移り香」は完璧にその外側にあったようだった。


 結衣さんだって大学の頃、別の女性の香水の匂いを身に纏って帰ってきたことが一度や二度じゃなかったくせに、と思わないわけじゃないけれどそれは黙っておくことにする。


 だって実際に私だって、結衣さんが今別の女性の香りを身に纏っていたとしたら身を焦がすほどに嫉妬すると思う。

 めちゃくちゃ拗ねるし、怒るし、何を言われてもしばらくは絶対に許さない。


 結衣さんは私と違ってさっぱりしているから、一度私に「お仕置き」すれば、その後は優しい結衣さんに戻ってくれる。

 でも、その「お仕置き」がすごく厄介でたちが悪いってことを私はよく知っているから、できれば避けたいと思ってしまう。


 こうなったらもう、結衣さんの感情が落ち着くまで、何とか逃げるしか道はない。


 少しだけ後ずさる。今日が木曜日でよかった。もしも今日が金曜日で、結衣さんの家に泊まりに行く日だったら、きっとひどい目に――。


「……かなた」


「は、はい」


「今日、うちに泊まりに来てよ」


「えっ……、あ、でも、結衣さん、今日、木曜日ですよ……?」


「それが何か問題ある?」


 私が大好きなその黒い瞳の向こうに、めらめらと嫉妬の炎が揺れているのがわかって、思わずごくりと息を飲んだ。

 有無を言わさぬ強い眼差しに、白旗をあげる。


「……いえ、なにも、問題ないです……」


 首を振る。ここで拒絶してしまうと、泊まりにこれないなら今ここで、と言われてしまう気がして、できる限り刺激しないように笑顔を作って、受け入れる他、今の私にできることは何もなかったのだった。



***



 定時ぴったりに仕事を切り上げた結衣さんは、半ば私を攫うように駐車場まで連行した。助手席のドアを開けて車に乗るように促すと、少しだけ躊躇った私ににっこりと笑う。


「早く帰ろ、かなた」


「……あの、結衣さん。一応、聞いてもいいですか?」


「うん?」


 車に乗り込む前に、躊躇いがちに彼女を見る。彼女は車のドアを支えたまま、首を傾げて私を見つめた。


「……まだ、怒ってます?」


 いつも結衣さんは、会社だっておかまいなしに私にキスしたり抱きしめたりするくせに、あれから不自然なくらい距離をとっている。


 流石にもう煙草の匂いは取れたんじゃないかなって思うんだけど……結衣さんは感情を隠すのが本当に上手な人だから、どれぐらい怒ってるのかどうかは未知数だった。


「……怒ってないよ」


「ほんとに?」


「うん、本当」


「じゃあ……何も、しない?」


 恐る恐る尋ねると、結衣さんがふっと笑った。


「うーん、どうかな。それは約束できないかも」


 そう言われて、車に乗り込もうとしていた私はぴたりと静止する。

 いつもだったら、「かなたが嫌なら何もしないよ」って言ってくれるはずなのに。


「どうしたの。家、来たくない?」


 そう聞かれて押し黙る。だって、家に行ったら何をされるか、わかってるのに……。

 結衣さんは意地悪だ。食べられるとわかっていながら狼のもとへ自ら進んで行く羊なんているはずないとわかっているくせに。


 不安に揺れる瞳で結衣さんを見つめると、結衣さんは不敵に微笑んだ。


「……かなたが決めていいよ。帰りたいなら、帰っても」


 決めていい、と言っておきながら、帰ることは許さないだろう。意地悪なこのひとは、自ら食べられに行くことを私に選ばせようとしている。


 普段はとっても優しいのに——そのギャップに眩暈がする。

 恋人になる前から、このひとはそういう魅力を持った人だった。でも、恋人同士になってからはその傾向がより顕著になったと思う。

 そういうところも全てひっくるめて愛おしく思って受け入れてしまうのだから、どこまでも深く底のない沼に飲み込まれて行ってしまっているような気さえした。


 頬を赤らめたまま黙って車に乗り込むと、結衣さんは満足気に笑って、助手席のドアを閉めた。


 くるりと車を回って運転席に腰を落ち着けると、結衣さんは、拗ねて唇を尖らせた私の手を取ってその甲に愛おしそうに口づける。


「……あんまり意地悪、しないでくださいね?」


 せめてものお願いとしてそうリクエストすると、結衣さんはその瞳の中に狼みたいな獰猛さを残したまま、すっと目を細めて、笑ったのだった。




***




 向かったのは、仕事用に買ったというオフィスから程近いマンションの方だった。

 重たいドアを開けて、「どうぞ」と私の身体を半ば強引に部屋に押し込んだ結衣さんは、鍵が閉まったと同時に急に牙を剥いた。


 私の身体を掻き抱くようにして、首筋に顔を埋めて匂いを確認するように深く息を吸う。

 私にはもう、自分の匂いなんてわからない。ただ結衣さん愛用の香水と優しい髪の匂いを感じて、条件反射のように心臓を高鳴らせるしかなかった。


「……まだ匂い、消えてない」


 拗ねるような声が耳元から聞こえる。車の中にいた時からずっと緊張していたせいで、その柔らかな声を鼓膜で感じ取ってしまった瞬間から腰が砕けそうなほど身体が過剰に震え上がった。


 最近の私は、やっぱりへんだと思う。今更ながら、大学時代、結衣さんが本気にはならないと知っていてなお「それでもいい」と寄ってきていた女の子たちの気持ちがわかると思った。


 多分この人はそういう星の元に生まれてきたんだ。女の子の心も身体もたぶらかしてしまう才能を生まれ持った、生粋の女たらし。


 でも、当初彼女はお父さんから、愛情深く一途に人を愛する遺伝子を受け継がなかったのだとばかり思っていたけれど、改めて考えると驚くほどに遺伝している。


 この人の本質がそうでよかったと、思わずにはいられない。そして大学時代、軽率に身体を許してしまうような価値観を持ち合わせていなかった自分自身にも心から感謝した。


 もしも私が軽率で、彼女に遊び相手として認識されてしまっていたら——きっと私は、今頃地獄を見ていたに違いない。


 一度嵌ったら抜け出せない。結衣さんは麻薬のようなひとだ。この唇の柔らかさを、指先がくれる熱を、耳元で優しく囁く甘い声を知ってしまったら、それを求めずにはいられなくなってしまう。


 さらさらの黒髪の隙間から、そのうなじをそっと撫でてみる。私があげたネックレスのチェーンが指先に触れた。

 顔を上げた結衣さんは不機嫌そうな顔のまま私の頬に唇を押し当てて、それから身体を離したあと、黙って私の手を引いた。




 連れてこられたのは寝室ではなく脱衣所で、秋らしい赤銅色の整った爪が私のブラウスの襟元のリボンを解いて、すぐに一番上のボタンに触れた。


「あ、の、結衣さん……!」


 今更抱かれることに対して抵抗する気はないけれど、こんなにも明るい照明のもとで裸に剥かれるのはあまりにも恥ずかしい。


 咄嗟に抗議しようとした私の身体を、結衣さんは強引に引き寄せて、言葉を遮るように唇を塞ぐ。見えてもいないくせに片手で器用にぷちぷちとボタンを外す、女性の身体に慣れた指先の器用さを、心から恨めしく思った。


 全てのボタンを外した後、何度もキスを繰り返しながらブラウスを脱がすと、私の腕から抜いたそれを結衣さんはポイッと脱衣かごの中に放り込んだ。


「結衣さん、あの、こんなに明るいと、恥ずかしいんですけど……!」


「まだ下着つけてるでしょ」


「そういう問題じゃ……」


 黙らせるようにもう一度キスをしながら、結衣さんは私のスカートのホックを器用に外してファスナーを下ろした。ばさり、とスカートが足元に落ちる。


 そのまま結衣さんも自身が着ていたブラウスを脱ぎ捨てて、ぽいっと足元に放り投げた。唇を離すと、真っ白くて丸い肩とネイビーブルーの下着のストラップが視界に飛び込んできて、思わず視線を逸らす。


 背に回った手が、ぷつりと私のブラのホックを外すから急に胸元が心許なくなって咄嗟に両手で胸を隠した。

 たぶん今、私は首まで真っ赤になってしまっていると思うけれど、そんな私を結衣さんはじっと見つめて微笑んだ。


 指先が、腰骨をなぞった後に下着にかかるから、その左手を掴んで止める。

 許して欲しくて懇願するように見上げれば、その熱のこもった瞳がまっすぐに私を射抜いた。


「……脱がされるのが嫌なら、自分で脱ぐ? いいよ、それでも。少しだけなら、待ってあげる」


 言い方や声色は優しいのに、言っていることは全然優しくない。

 足元に落ちた私のスカートを拾い上げると、結衣さんはかごの中に丁寧に畳んで置いた。


 脱いだら、許してくれるんだろうか。そんなふうにはとてもじゃないけど見えなくて、視線を泳がせる。


 そうしているうちに、結衣さんは自身の首の後ろに手を伸ばしてネックレスの留め具を外していた。

 私があげたそれを大事そうに外すと、私から奪い取ったスカートの上にそっと置く。


 どうしよう、どうするのが正解なんだろう。脱がしてもらうより自分で脱いだ方が羞恥心は幾分か少ないかもしれないけど、それはそれでやっぱり恥ずかしくて、躊躇ってしまう。



 パンツスーツをするりと脱いで私と同じ下着姿になった結衣さんは、動揺する私の瞳をじっと見つめたあと——「時間切れ」とにっこり笑って、私の肩をバスルームへと押しやった。



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