第82話 嫉妬されても知らないよ
すっかり冷たくなった風が、街路樹の落ち葉を巻き込みながら吹き抜けるようになった、十一月のとある日。
私は、ランチ営業中の居酒屋の個室で、三ツ矢さんと向き合って座っていた。
なぜこんな状況になっているかというと——今朝突然、三ツ矢さんからランチに誘われたからだ。それは私が秘書になってから、初めてのことだった。
結衣さんに行ってもいいかお伺いを立てると、「もちろんいいよ」と言ってくれたから、私は十二時ぴったりに、財布だけを持って社長室を出た。
それがもう、数十分前のこと。
私を誘ったのは、三ツ矢さんなのに。
神妙な面持ちで黙々とロースカツ定食を平らげたと思ったら、食べ終わった後も、三ツ矢さんは黙りこくったままだった。
こんな彼女は見たことがなくて、正直少し困惑する。切れ長の瞳を憂いがちに伏せて深くため息をついたと思えば、おかわり自由の千切りキャベツを、一本一本箸でつまんで、口に運び続けている。
これは――私から話を切り出した方が、いいのかな。もしかして、聞かれるのを待ってる?
自慢じゃないけど、私は決して聞き上手な方ではない。でも、今の三ツ矢さんはあまりにも……あまりにも、だった。
このままでは埒があかない。渋々、様子を伺うように、口を開く。
「あの、三ツ矢さん。今日、何かあったから私のこと、誘ってくれたんじゃないんですか……?」
そう問えば、三ツ矢さんがぱっと顔を上げて、驚いたように私を見た。
「え、なんでわかんの……?」
いやいやいや、わからない方がおかしいです、と言いかけた口をきゅっと噤む。だって三ツ矢さん、いつもそんなにおとなしいタイプじゃないじゃないですか。
さっぱりしてて、明るくて、切り替えが早くて――何かに思い悩むタイプではなかったはずだ。
一体何が、彼女をここまで悩ませているんだろう。
「あの、私でよかったら、話聞きますけど」
彼女は、申し訳なさそうに眉を下げて、箸を置く。そしてこほんとひとつ、咳払いをしてみせた。
「……青澤ちゃん、ごめん。一本、煙草吸っても良い?」
火のついた煙草の先から、天井に向かって白い煙がゆらゆらと立ち上る。カチンと音を立てて銀色のライターのふたを閉めると、三ツ矢さんは目を瞑ってまるでため息をつくかのように、深く深く白い息を吐き出した。
咥え煙草のまま、くしゃりと箱をジャケットのポケットにねじ込んだあと、もう一度そのシュッとした切れ長の瞳でまっすぐに私を見る。
「……煙草って、美味しいんですか?」
別に聞く必要もない一言が、ぽろりとこぼれ落ちてしまった。
だって、さっきまで不安そうだった彼女が、煙草を吸った瞬間に少しだけリラックスしたような表情を見せたから。
「……美味しいとかそういう次元じゃないんだよね。もう、これがないと無理、生きていけない。例え一箱千円超えても吸い続けると思う」
真剣にそんなことを言うから、思わず笑ってしまう。千円超えても、か。
私は煙草を吸いたいと思ったことはないけれど、喫煙者は肩身が狭くてかわいそうだな、とは思う。だって三ツ矢さん、土砂降りの雨の日でも傘を持参して屋上に煙草を吸いに行ってるから。
「それで、何があったんですか?」
食後に頼んだアイスティーに口を付けつつそう聞けば、三ツ矢さんは少し言いづらそうな顔をした。
「ん、いや、何かあったわけじゃないんだけどさ。ちょっと聞きたいことがあって。青澤ちゃんの恋人って、確か……お金持ち、なんだよね?」
「え?」
なんで知っているんだろう、と記憶を掘り起こして思い返す。そういえば、新店舗の成功祝いで行ったビアガーデンで、そんな話をしていたっけ。
「えっと、そうですね。……はい」
質問のとおり、結衣さんはお金持ちだ。それも、ちょっとやそっとのお金持ちじゃない。それについては事実だし、否定する必要もないから素直に頷く。
でも、どうしてそんなことを聞くのだろう。
「そっか。……青澤ちゃんの恋人って、どんな人?」
射貫くように強い瞳。その視線は、この問いの中で何か答えを探しているようだった。どうしてか、私ではない誰かを、見つめている気がする。
どんな人、か。腕を組んで、愛しの恋人の顔を思い浮かべて考える。
遠い昔、早川くんに同じ事を聞かれた記憶がある。そのとき、確か私は結衣さんのことを、「すごく優しくて、でもちょっとずるい人」って答えたと思う。
あの頃と、今の私の中の結衣さんは、少し印象が変わった。
「……すごく優しくて、とっても素敵な人です」
結衣さんのことを誰かに伝えようとしたときに、今はもうこの言葉以外何も思いつかない。
自然と頬が緩む。私の恋人は、この世界で一番素敵な人。結衣さん以上の人なんて、全宇宙探したところでどこにも居ないと、私は本気で思っている。
惚気てしまった私を特にからかうこともなく、三ツ矢さんはふっと気が抜けたように微笑んだ。
「青澤ちゃんは、彼のこと、大好きなんだね」
彼じゃなくて、彼女だけど――。そう心の中で訂正してから、「はい」と素直に頷いた。
三ツ矢さんは指先で挟んだ煙草を咥えて、深く吸い込んだ。じじじ、とその先が赤く光る。
煙が、個室に充満していく。まるで彼女のため息に包まれているようだった。
この煙のように、きっと彼女の心も揺らいでいる。なんだかすごく儚くて、危ういような。そんなふうに見えた。
「じゃあさ、例えばその彼氏がお金持ちじゃなかったとしたら……どう?」
私にそう問いかけた彼女の瞳は、不安の色を灯していた。いつも強気な彼女らしくない。その言葉は、私じゃなくて、別の誰かに向けて聞きたいことのような気がした。
その相手が誰なのか私にはわからないけれど、なんとなくわかってしまった。
三ツ矢さんは、きっと今、誰かに恋をしている。
「別に、どうもしません。一緒に居たいと思う気持ちに、お金の有無は関係ないと思います」
綺麗事じゃなくて、本気で。はっきりと言い切れば、三ツ矢さんは笑って、すっかり短くなった煙草を灰皿に押しつけた。
「そうだよねぇ、まあ、青澤ちゃんなら、そう言うよねえ……」
「三ツ矢さんの恋人は、お金がないんですか? もしかして、すっごく借金してるとか?」
三ツ矢さんはそういう相手に恋をするようなタイプには、思えないけれど……万が一ということもあるかもしれない。
彼女は切れ長の瞳を少しだけ見開いて、それから「違うよ、そもそも恋人じゃないし」、と笑った。
恋人じゃないんだ。だとしたら片思いってことかな。どんな人なんだろう、三ツ矢さんが恋している相手って。
「……お金持ちと、結婚したいんだってさ」
どこか遠くを見るような眼差しで言うから、胸がぎゅっと締め付けられるように痛くなる。
「……そう、言われたんですか?」
思わず眉を顰めて尋ねた。
「直接言われたわけじゃないんだけど……前からそう言ってたし……。自信がないっていうか。自分でもどうしたいのか、どうなりたいのか、正直よくわかってない」
自分のことなのに自分の気持ちがわからない……そんな気持ちに私もなったことがある。それはもうずっと前のことだけど。
結衣さんを好きになってしまったことに、しばらくは戸惑って認めることができずにいた。それもこれも全部当時の結衣さんが、「恋人は作らない」なんて公言していたからだ。
私もずいぶん遠回りした。自分の気持ちにふたをして、色々理由をつけてみたりして、心は素直に彼女を好きだと叫ぶのに、ずっとずっと見ないふりをしていた。
彼女を好きだと認めるまで何ヶ月もかかったから、三ツ矢さんの気持ちはそれこそ痛いほどによくわかる。
恋をすべきではない相手だと頭でわかっていたとしても、こころは言うことなんて聞いてくれない。理屈じゃないんだよね、こういうのって。
きっと三ツ矢さんも今、あの頃の私と同じ気持ちなのかもしれない。
もしも今の私があの頃の自分に声をかけてあげるなら……なんて言ってあげたら、後悔しない道を選べただろう。
「……三ツ矢さん」
そっと名前を呼ぶ。いつもだったら芯のある瞳が、頼りなさげに私を見つめた。
「私、今の恋人と付き合う前、実は大失敗してるんです」
「大失敗?」
「……自分の気持ちに、素直になれなかったんです。本当は離れたくなかったのに、相手の人生をめちゃくちゃにしてしまうかもしれないと思うと怖くて……逃げました。その時は、それが最善の策だと本気で思っていたんです」
わがままを言うことが、できなかった。抗おうともしなかった。あの時の私は……弱虫だった。
「でも……その先に待ってたのは地獄のような日々でした。あのとき、怖じ気づかずに一緒にいられる道を探していればと……今も、思う」
ぎゅっと、手のひらを強く握りしめる。結衣さんが私を忘れずにいてくれなかったら、きっと私は今も、深い深い海の底にひとり、取り残されたままだった。
「三ツ矢さんの好きな人が、どんな人かは知りませんけれど……でも、もっとシンプルに、自分の気持ちと向き合った方がいいです。好きなら好きで、いいじゃないですか」
人生は一度きりしかないし、失った時間を巻き戻すことはできない。常に最善の選択を選べているかどうかなんて、過ぎた後でしかわからない。
だからこそ、自分の気持ちに素直になることが一番後悔の少ない道だと、今はそう信じている。
はっきりと言い切れば、三ツ矢さんがふっと柔らかく笑った。
「……青澤ちゃん、ありがと。なんか、ちょっと気が楽になった」
十人十色、恋の形は様々だ。悩みは尽きないかもしれないけれど、辛い気持ちを乗り越えた分だけ、幸せな毎日が待っている。
願わくば三ツ矢さんもそうだといいなと、思ったのだった。
その後、「誘ったのは私だから」と言って三ツ矢さんはランチをごちそうしてくれた。なんだか申し訳ないなと思いながらもお言葉に甘えて、オフィスまでの道のりを二人で歩いた。
風で葉っぱが飛ばされて、裸になりかけている街路樹を見上げる。もう間もなく冬が近づいてきている。
なんだか肌寒くなってきたなと思いながら、両手で身体を抱きしめるようにすると、それに気づいた三ツ矢さんが私の顔を覗き込んで笑った。
「青澤ちゃん、薄着だから寒そうだね」
「そうですね。こんなに冷え込むなんて思ってませんでした」
「社長秘書が風邪引いちゃったらまずいでしょ。今日一日上着貸してあげる」
そう言って、三ツ矢さんは着ていたジャケットから煙草とライターを取り出すと、私の肩にかけてくれた。
「大丈夫ですよ、三ツ矢さんが風邪引いちゃいます」
「私? あぁ、大丈夫、会社にカーディガンおいてあるから」
「……本当にいいんですか?」
「いいよー、帰りに返しに来てくれれば」
三ツ矢さんがそういうならと、お言葉に甘えることにする。三ツ矢さんが着ていたジャケットは暖かくて、仄かに煙草の香りがした。
もう一本吸っていくから、なんて言って屋上へ向かう三ツ矢さんと別れて、社長室へと向かう道中、廊下でバッタリと瀬野さんと鉢合わせた。
じろりと私の全身を見た後に、「香織と一緒だったの?」なんて聞いてくる。
いつの間にか瀬野さんは三ツ矢さんのことを下の名前で呼ぶようになっていて、私がいない間にまたずいぶんと仲良しになったんだなあと微笑ましい気持ちになる。
いつもお弁当を持参している瀬野さんは、片手に可愛いランチトートを持っていて、休憩室から戻ってきた帰りのようだった。
「はい、ランチに誘っていただいて……食べに行ってきたんですけど」
「……ふーん、そっかぁ。それ、香織のジャケットだよね」
「え? あ、はい。寒いって言ったら貸してくれたんです。三ツ矢さんって、優しいですよね」
「そうねぇ。可愛い後輩の青澤さんには、優しいわよね。私には全然だけど」
そう言って、瀬野さんは小さくため息をつく。不思議に思って私より少し高い背を見上げると、瀬野さんがにんまりと目を細めて笑った。
「そのジャケット……大丈夫かしら。嫉妬されても知らないよ〜?」
「え……?」
嫉妬? どういう意味だろう。聞き返す間を与えてくれることもなく、瀬野さんはヒラヒラと手を振って行ってしまったから首を傾げる。
私が三ツ矢さんのジャケットを借りることで、嫉妬する人って誰だろう。確かに、社内で三ツ矢さんのことを好きな人がいてもおかしくないとは思うけど……そう簡単にこれが三ツ矢さんのジャケットだって気付くかなあ。
そんなことを思いながら、私は社長室のドアを開けたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます