第81話 降参、する?

 腰の上に跨ったままの私を見つめる結衣さんの、長いまつ毛が瞬きを繰り返す。言葉の意図を飲み込めているのかいないのか、その視線は真っ直ぐに、私へと注がれていた。


「……ごめん、かなた。もう一回言って貰っていい?」


 たっぷり数十秒空けた後、結衣さんはそんなことを言う。緊張で浅くなった呼吸と速まる鼓動を落ち着かせるために、私は一度深く息を吸った後、太ももの上で固まっているその手を取って、キュッと繋いだ。


「今日は……私に、させてください」


 恥ずかしくなって、ちょっとだけ、震えてしまった自分の声はあまりにも頼りない。勇気を振り絞ってもう一度告げた私の言葉に、やっと状況を飲み込めたのか、結衣さんは小さく目を見開いた。


 繋いだ私の手を持ち上げた後、結衣さんは確かめるように指先を撫でた。どうしたのかな、と首を傾げると、私の指先から視線を上げた結衣さんは、苦笑いする。


「……用意周到だね、かなた。最初からそのつもりだったってこと?」


 それでやっと、一生懸命に整えた指先に気付いてくれたらしいと言うことを知る。指先に柔らかくキスされて、心臓が掴まれたように跳ね上がった。意地悪く私を見上げる視線は余裕そうで——私が当初想定していた反応とは全然違って困惑した。


 その深い黒の瞳からは、何を考えているのか、全く読み取れなかった。肯定的なのか、否定的なのか、それすらもわからなかったから、意を決して尋ねてみる。


「……いい、ですか?」


 震える声で確認すると、結衣さんが耐えきれないと言うように、ふふっと笑った。


「……な、なんで笑うんですか?」


「ごめんごめん。だってそんな、深刻そうな顔で言うから……。ねえかなた、聞いてもいい? どうしてかなたがしたいの?」


「どうしてって……だって、いつも私、結衣さんにしてもらってばっかりだし……」


「私が好きでしてるんだよ」


 言葉は優しいけれど、なんだか結衣さんは素直にうんと言ってくれなそうな雰囲気だ。その瞳の奥は未だに、肉食獣みたいな色がぎらぎらとしている。


「でも……」


「今日、なんでも言うこと聞いてくれるって約束したでしょ? 私、ずっとかなたに触れるの、我慢してたんだよ」


 繋いだ手と反対の右の手のひらが、すりすりと私の太ももを撫でる。その手つきに、少しだけ、意志が揺れそうになる。


「……かなたは、私に抱かれるの、やだ?」


 優しく私に問いかけるその瞳を見つめ返す。そんなわけない。ふるふると左右に首を振ると、結衣さんは優しく微笑んだ。


「いやじゃない、です。いつも、気持ちいいし、幸せな気持ちになるから……今日は結衣さんにも、そういう気持ちになってもらえたらなって」


 あなたのその手に触れられるだけで、その熱の籠った眼差しに見つめられるだけで、心の底から愛されていると実感することができる。

 身体を重ねることで心まで満たされるってことを私に教えてくれたのは、他でもない結衣さんだ。


「結衣さんは……私に触られるの、嫌ですか?」


「別に身体に触られるのが嫌ってわけじゃないんだけど……うーん」


 渋る彼女の手を、駄目押しのようにぎゅっと握る。せっかく押し倒すことができたのに、ここまで来て、こんなところで、引けるわけがない。


「結衣さん、お願い」


「……そんなに、したい? どうしても?」


 こくりと頷く。上手にできるかどうかはわからないけれど、でも、そんなの挑戦してみないと、わからないから。

 結衣さんは、少し考えこむようにした後、真っすぐに私を見つめて不敵に微笑んだ。今まで見たことがない、少し挑戦的な笑みだった。


「じゃあ……にさせてみてよ。それができたら、今日は折れてあげる」


 その気……? 突然そんなことを言われて、少しだけ怯んでしまう。

 そんな私の手を取って、口元に引き寄せられる指先。優しく唇を押し当てられた後、中指に軽く歯を立てられて、思わず驚いて手を引いた。


 そんな私を面白がるように、結衣さんは、意地悪く微笑んだ。





「服、脱がせても、いいですか」


「どうぞ。かなたの好きにしていいよ」


 着ているシャツを脱がそうと、服の裾から手を滑らせて、すべすべの脇腹に触れた。くすぐったいと結衣さんが笑うから、なんか全然雰囲気が出なくて、頬を膨らませる。


 どうしよう。いつも、どうしてもらってたんだっけ。一生懸命に今まで重ねてきた夜を思い出そうとするけれど、手慣れていないせいで、モタモタとしてしまう。

 ゆっくりと胸元までシャツをめくりあげると、真っ白い胸元と、ネイビーの下着が露わになる。さっき、温泉で見たはずなのに――どうしてかすごく艶めかしく感じてしまって、どくりと心臓が跳ねた。

 思わず慌ててシャツを、元に戻す。


「……結衣さん、やっぱり、自分で脱いで」


 上手に脱がせることができないかもしれないと急に不安になってきて、耐えかねてそういえば、ベッドに寝そべったまま私を見上げる彼女は、ふっと微笑んだ。


「えー、脱がせてくれないの?」


「……自分で、脱いでください」


 指先でつんとシャツの裾を引く。なんか今日の結衣さん、いつになく意地悪かもしれない。もう少し協力的になってくれてもいいのに、と唇を尖らせて彼女を見つめれば、にっこりと笑って結衣さんが言った。


「じゃあ、かなたも脱いでくれたら、いいよ」


「えっ?」


「自分で脱いで見せて」


 結衣さんは、いつも私の服を脱がせてくれるのに、まさか自分で脱げなんて言われるなんて思っていなくて、途端に恥ずかしくなってくる。

 でも、確かに、結衣さんにも「脱いで」ってお願いしたのは私だから——そう言われても、仕方がないのかもしれない。

 じっと見つめるその瞳は意地悪で、このままモタモタしていたら主導権を取り返されてしまいそうな気がしたから、慌てて自身のブラウスのボタンに指先をかけた。


「……緊張してるの? 手、震えてる」


 わかっているなら、そんなにじっと見つめてないで、手伝ってくれたらいいのに。緊張しているせいでうまくボタンを外すことができなくて、どうしてもモタついてしまう。


「大丈夫? やっぱり……脱がしてあげようか?」


 その提案を飲んで、「脱がして」なんて言ってしまったら、どうなるかなんてわかってる。

 私は、結衣さんに触れられるだけでになってしまうのに、なんで結衣さんはそうじゃないんだろう。それが経験の、差なのかな。


「自分で、脱げます……」


 なんとかブラウスのボタンを全て外すと、肌が外気に晒されて少しだけ涼しくなった。胸は下着に隠されているとは言え、じっと見られてると、落ち着かない。


「あの、これで……いいですか?」


「それじゃボタン外しただけじゃん。私はかなたに、脱いで、って言ったんだよ」


「あんまり、意地悪しないでくださいよ……」


 責めるように言えば、結衣さんはすっと目を細めて私を見た。仕方ないなぁって笑って、着ていたシャツを捲り上げて器用に脱ぐと、結衣さんはぽいっとベッドの脇に服を投げ捨てた。


「はい、脱いだよ。これでいい?」


 下着姿の結衣さんを初めて見下ろして、息を飲んだ。透き通るような白い肌が、今、目の前にある。


 好きにしていいと言われたけれど——どうしよう。どうしたらいいんだろう。いつも結衣さんがしてくれることをそのまますればいいだけだと頭ではわかっているのに、いざ自分がその立場になると、何をどうしたらいいのか、途端にわからなくなる。


 本音を言えば……結衣さんは、どうしたらいいのか、教えてくれると思ってた。それなのに彼女は今、ベッドに横になって私の行動をじっと見つめているだけで、助けてくれるつもりは一切ないらしい。


「……顔、真っ赤だね。大丈夫? いつでも降参していいんだよ」


「だ、大丈夫、です」


 結衣さんの手が、私のスカートのホックを外してジッパーを下ろした。驚いた私に、結衣さんは「シワになっちゃうから脱いで」って言うけど、下着以外の服を全て取り上げられて、なんだか心許ない。


 懸命に、頭をフル回転させる。いつも結衣さんにどんなふうに抱いてもらっていたんだっけ、と記憶を呼び起こして、震える指先を彼女に伸ばす。

 上に覆い被さると、ぎしりとベッドのスプリングが鳴いた。知らなかった。いつも余裕なんかなくて気付いていなかったけれど、「する方」ってこんなに色んなものが見えるんだ。


「……キス、しても、いいですか?」


 恐る恐る尋ねると、結衣さんがくすりと笑った。


「いちいちお伺い立てなくても、好きにしてくれていいってば」


 ああ、もう、どうにでも、なれ。


 目を瞑って、そっと唇を重ねると、身体中の力が抜けそうになった。


 触れているだけで気持ちいいけれど——あれ? と思う。いつもだったら忍び込んでくるはずの甘い舌が、一向に入ってくる気配がない。

 なんでだろうと顔を上げると、その瞳とばっちりと目が合った。


「あの、結衣さん……」


「なあに」


「なんで、ちゃんとキス、してくれないんですか?」


「え? だって、今日はかなたがしてくれるんでしょ?」


「……そう、ですけど……」


 そんなことを言われると、困ってしまう。そっとその親指が私の唇を優しくなぞった。


「……これじゃ全然その気にならないよ。いつも私がどうしてるか、思い出して。同じようにしてみて」


 同じようにって言われても、そんなの全然わかんない。いつもただ気持ちがいいってことしか考えられなくて、何をされているのかなんて、全然わかってないんだから。

 躊躇いがちに唇を寄せて、ちろりとその唇を舐めてみれば、結衣さんが薄く唇を開いてくれたから、恐る恐る舌を忍ばせてみる。

 でも――ちょん、と舌先が触れ合った瞬間、驚いて舌を引っ込めてしまって、結衣さんがくすりと笑った。


「結衣さん……どうしたらいいのか、わかんないです……」


「ふふ、そっか。じゃあ、お手本見せてあげる。おいで」


 背に腕を回されて、ぐいっと身体を引き寄せられる。唇を触れ合わせると、今度はいつもみたいに優しい舌が口の中に忍び込んできた。


 優しく舌を絡め取られて、ゾクゾクと身体が震える。

 ちがう。今日は私が抱いてもらうわけじゃないんだから、反応しなくていいのに。意識と相反して身体は素直で、キスを繰り返すたびに、お腹の奥がじわじわと熱くなってくる。


 腰をそっと撫でられて、舌を吸われた瞬間、足の間に熱い感覚がして——驚いて弾けるように身体を離した。

 なんでこんなに反応してしまうんだろう。前は、こんな身体じゃなかったはずなのに。結衣さんと付き合ってから、私の身体はおかしくなった。


 恥ずかしくなってしまって、俯く。


「どうしたの?」


「な……なんでも、ない、です」



 身体が火をつけられたかのように熱くて、ぐるぐると熱が溜まっていくようで苦しい。どうにかなりそうだ。

 結衣さんって、私にしている時いつもこんな気持ちなのかな。身体が、苦しくて、もどかしくて、泣いてしまいそうになる。


 どうしよう、触って欲しい。一度そう思ってしまったら、もうだめだった。


 一旦落ち着こうと、首筋に顔を埋めて結衣さんの匂いを吸い込む。でも、その香りのせいで、落ち着くどころか身体の熱はどんどん悪化していく。

 逆効果だった、もう本当にどうしよう。こんなはずじゃ、なかったのに。


「結衣さん……」


 心が折れそう。そんな私を知ってか知らずか、結衣さんは、「やっぱりかなたにはまだ早いんじゃないかなぁ」なんて言って、笑った。


「かなた」


 名前を呼ばれて、そっと顔を上げる。それと同時に、内腿に悪戯な左手が触れた。驚いて身体を震わせると、逃がさないと言うように腰を抱き寄せられる。


「結衣さん、触っちゃだめだってば……!」


 首筋に顔を埋めて、震える声で抗議する。こんな弱々しい言い方では、説得力がないってことぐらいわかってる。でも、言わずにはいられなかった。


「だって、触ってほしそうな顔してるから」


「そんな顔、してません……」


「……かなたはよく頑張ったと思うよ、えらいえらい」


 ぽんぽんと頭を撫でて、まるで子供をあやすように言われてしまって、ポキリと心が折れたような音が聞こえた。

 もう、身体が熱くて仕方ない。どうにかなりそうだ。


「降参、する?」


 耳元で優しく囁かれて、きゅっと目を瞑った。やっぱり結衣さんの言うとおり、結衣さんを押し倒すなんて私にはまだ早かったのかも——。


 すっかり心が折れて頷くと、結衣さんが笑った。

 

「……じゃあ、それならちゃんと、おねだりして」


「えっ……?」


 結衣さん、今、なんて——?


 聞き返す間も無く、肩を押されて密着していた身体が離れる。上体を起こして、腰に乗ったまま結衣さんを伺いみると、彼女はにっこりと微笑んだ。


 困惑する私をよそに、結衣さんは何も言わずにじっと私を見つめている。


 おねだりって……抱いて欲しいって、言えってこと……?


 理解してしまって、急激に頬が熱くなる。さっきからずっとお腹の奥が熱くて、早く触れて欲しくてたまらないのに、なんでそんな意地悪なこと言うのって泣いてしまいそうになる。


「……それとも、もうやめる?」


 薄々気付いてはいたけれど……いつも優しいはずの結衣さんは、ベッドの上では意地悪だ。多分、こっちが彼女の本質、なんだと思う。


 口では、恥ずかしくて言えない。でも、もう火がついてしまった身体はどうしようもなくて……このままじゃ、眠れない。ここで、やめて、欲しくない。


 そう思った時にふと、思い出した。そうだった、口に出さなくても、彼女を誘う方法があるってこと——。

 その左手をきゅっと掴んで持ち上げて、中指と薬指に唇を寄せる。それからそっと、口に含んで歯を立てた。


 結衣さんは、左手のこの指に私が触れると必ず、「誘っているとしか思えない」って言っていた。だから、つまり、そういうこと、なんだと思う。


 これで、わかってくれたかな……。


 伺い見ると、結衣さんは少しだけ驚いたように目を見開いて、それから、嬉しそうに微笑んだ。


「……ん、よくできました」


 口の中から引き抜かれた指が、そっと首筋から胸の谷間を辿って、お腹より、もっと下へ。ゆっくりと体をなぞっていく。それだけで、ゾクゾクと背が震えた。


「ちゃんとおねだりできたから、ご褒美あげる」


 うん、と小さく頷く。「腰、ちょっと浮かせて」って優しく言われて、大人しく言う通りにする。

 それなのに、一向に押し倒してくれる気配がなかったから不思議に思って見つめると、結衣さんがそんな私に気付いたのかふっと笑った。


「そのまま、上に乗ってて」


「えっ……?」


 心の準備なんてまだできていないのに、悪戯なその指先が、下着の中に滑り込む。声が漏れてしまいそうになって、思わずギュッと目を瞑った。


「かなた。目、瞑らないで。ずっと私のこと見てて。じゃないと、気持ちよくしてあげない」


 じわじわと涙が溢れ出してくる。やだって泣きつくような声をあげても、目を閉じるたびにぴたりとその手が止まるから、滲む視界の中でただ彼女を見つめることしかできなかった。


「……かなたが散々焦らすからだよ。だから仕返し。……今日は、何回でも噛み付いていいからね」


 意地悪な、その黒い瞳が私を見つめる。そんな眼差し一つにすら、背を震わせてしまうほどに私もどうしようもないほど気持ちが昂ってしまって――。


 結局、私の立てた計画は、ものの見事に失敗してしまったのだった。






 その夜。もう十分だと言うほどに、結衣さんは「抱く方が好き」なんだってことをとことん教え込まれた。


 泣いて謝ってもなかなか許してくれなくて、結衣さんにとって、この二週間を超えるお預け期間が如何に耐え難いものだったのかを身をもって知る羽目になり、私は大いに反省することになった。


 どんな理由があるにせよ、もう絶対、結衣さんをほったらかしにするのだけはやめよう……。


 翌朝、見事に身体中噛み痕だらけになった結衣さんは、服を着る時にちょっと痛そうにしてたけど——それに関してだけは、私は絶対に悪くない、と思ったのだった。




***




「ねえかなた、まだ拗ねてるの?」


「……別に、拗ねてないです……」


 帰りの車内で、結衣さんが冗談混じりにそう尋ねてくる。

 拗ねてない。昨日のことを思い出すと、ちょっと、恥ずかしくて顔が見れないだけ。


「結衣さんの意地悪は、今に始まったことじゃないし……」


「ごめんね。でも、意地悪な私も好きでしょ?」


「……知らない」


 そう言われて、驚いた。どうしよう……なんでバレてるんだろう。意地悪をされるたびに何故か身体が反応してしまうってこと、気付かれてないと思っていたのに。


 でも、それもこれも全部結衣さんのせいだ。不感症だった私の身体をそうしたのは、他の誰でもない結衣さんなんだから。


 頬が熱くなってしまうのを誤魔化すようにぷいと窓の外を向いた。爽やかすぎるほどの秋晴れ。素敵な思い出にするはずだった結衣さんの誕生日なのに、散々な目に合ってしまった。


 ハンドル片手に鼻歌を歌う結衣さんは、いつになくご機嫌そうだから、成功と言えば成功、だったのかもしれないけど。




 夜に家まで送っていくから一度結衣さんの家に戻ってゆっくりしようと提案されて、私は素直に頷いた。できれば泊まりたかったけど明日は月曜日だし、仕方ない。


 昨晩体力を消耗したせいもあって、夕方まで結衣さんとまったりしたいなと思ってたからちょうどよかった。



 長いドライブを終えて、結衣さんの家に着いたのはお昼すぎだった。ガレージのシャッターを開けて、車を停める。

 ちょっと眠いな、なんて思いながら車から荷物を取り出すと、結衣さんがそっと私の手を取った。


 ガレージから玄関までの短距離でも手を繋いでくれるの嬉しいなあ。そう思って結衣さんを見つめると、結衣さんも私を見つめ返してにっこりと微笑んでくれた。


 胸元に光るネックレスに、自然と頬が緩む。


「結衣さん、お昼ご飯何食べます?」


「かなたは、何食べたい?」


 他愛もない話をしつつ、家の鍵を開けようとした時だった。


「——結衣」


 ドクリ、と、心臓が一度大きく跳ねた。低く通る男性の声が後ろから聞こえて、振り向く。

 ——まるで、獲物を狙う蛇みたいな視線。私服姿の長身の彼が、かすかな笑みを湛えてそこに立っていた。


 慌てて、手を解こうとする私の手を結衣さんがギュッと強く握って止める。動揺してしまいそうになったけど、結衣さんは平然と北上さんを振り返った。


「恋人からの連絡を無視して、一体誰と会ってるのかと思っていたけど……青澤さんだったんだ。安心したよ」


 じろりとその眼差しが繋いだ手に向けられる。冷や汗が、つうっと背を伝ったのがわかった。

 どうしよう、なんて答えるのかな。様子を伺うと、結衣さんは、特に焦るでもなく口を開いた。


「あれ、いつから恋人になったんだっけ?」


 はっきりとそう言ってのけたから、驚いて結衣さんを見る。すると北上さんが、声を出して笑った。


「まったく、結衣は相変わらずだな」


「何か用? 今日、休みなんだけど……仕事の話なら明日にしてよ」


「今日、誕生日だろ。プレゼント持ってきただけだよ」


 そう言って、北上さんは淡いブルーの紙袋を結衣さんに手渡して、にっこりと笑った。


「誕生日おめでとう」


「……ありがとう。でも、プレゼントはもういらないって、言ったよね」


「そう言わずに受け取ってくれよ。……しかし、二人ともずいぶん仲がいいんだね。ちょっと嫉妬しちゃうな、いくら女同士でも」


 その言葉に棘を感じるのは、私が北上さんに対して罪悪感を感じているからなのだろうか。気付かれているのか、いないのか、北上さんが何を考えているのかもよくわからない。


 北上さんが私を見る。その眼差しの奥には、鋭い刃が隠れているようで、呼吸が苦しくなった。


「邪魔して悪かったよ。じゃあ、また」


 そう言って、北上さんはあっさりと踵を返して行ってしまった。まだドキドキと胸の奥がうるさい。


「……中、入ろっか」


 申し訳なさそうに結衣さんが言う。うんと頷いて家の中に入ると、結衣さんは北上さんから貰った紙袋を棚の上にぽいと置いて、それから私の身体をギュッと、抱きしめた。


「嫌な思いさせちゃって、ごめんね」


「……結衣さん。北上さんって、もしかして私たちの関係に気付いてたりしますか……?」


 恐る恐る、聞いてみる。


「さあ、どうだろ。もし気付いてたからと言って、とやかく言ってこないと思うけど」


「でも、北上さんって結衣さんのこと、好きなんじゃないんですか……?」


 彼が私を見る視線には、微かに敵対心を感じる。それが恋愛感情からくるものなのかどうかは、私にはわからないけれど。


「それはないよ。慎二が、八年も婚約してて指一本触れさせない相手を健気に想うようなタイプに見える?」


 そう言われれば、確かにそうは見えない、けど。


「……慎二が欲しいのは、地位だけだよ。私のこと、お父さんに理解してもらったら、ちゃんと慎二にもそれなりのポストを約束してもらうつもりでいるから大丈夫。私との婚約がなくなったって、別に何も変わらないよ。むしろ好きな人と結婚できて、慎二だって嬉しいんじゃない?」


 本当かなぁ。なんだか私には北上さんがそんなふうに考えてるようには思えないんだけど……。

 結衣さん、北上さんに興味がなさすぎてわかってないだけなんじゃないかな……。


 不安を払拭するように、結衣さんの胸元にぐりぐりと擦り寄って、その身体を強く抱きしめる。


 わかってる。今この関係は、本当なら許されるべきものじゃなくて、北上さんにとっては裏切り行為でしかないんだってこと。


 責められるべきは私で、北上さんじゃない。世間的に、間違っているのは、私の方だ。


 わかっているけど、でも——例え北上さんが結衣さんを手放したくないと言ったとしても、私はもう二度と、結衣さんから離れることなんてできない。


 そう、思った。




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