第80話 今日は珍しく積極的だね
オレンジ色の間接照明で照らされた薄暗いバーのカウンターに、二人並んで腰かける。ゆったりとしたBGMが流れる店内。人はあまり多くなく、ゆっくりとお酒を楽しめそうな雰囲気だった。
差し出されたドリンクメニューに、視線を落とす。
「かなた、何飲む?」
「えっと……おすすめ、ありますか?」
バーなんて来たのは、初めてだ。メニューに並ぶお酒の名前を見ても、何が何だかさっぱりわからない。困り果ててそう聞けば、結衣さんはそんな私に優しく微笑んだ。
「珍しいね、今日はレモンサワーじゃないんだ」
「せっかくだから……違うの、飲んでみたいです」
「甘いのがいい? さっぱりしたやつ?」
「苦くなければ、どちらでも」
隣から、結衣さんがドリンクメニューを覗き込む。近くなった距離に、自然ととくとくと心臓が高鳴った。
テントに戻った後のことを考えると、少し緊張してしまう。大丈夫、私の計画は万全のはずだ。
不安に思う気持ちをごくりと飲み込む。
まずはアルコールを飲んで、この緊張感を和らげるのが先。失敗しないように、できるだけリラックスしないと。
「……じゃあ、ダージリンクーラーは?」
「ダージリン? 紅茶のお酒ですか?」
「うん。もし飲めなかったら、飲んであげる」
知らなかった。紅茶のお酒なんてあるのか。私が頷くと、結衣さんはメニューを立てかけた後、バーテンダーさんにその「ダージリンクーラー」と、「ソルティドッグ」を頼んだ。
あ、その名前、前に聞いたことがある。確か、グレープフルーツのお酒なんだっけ。学生の頃、バーでよく飲むって言っていた。
「かなたとこうしてお酒飲める日が来るなんて、嬉しいな。最高の誕生日祝いだね」
カウンターに肘をついて、私に向き直って結衣さんが笑った。その笑顔を見るだけで、私も嬉しくなってくる。
この後、テントに戻ったら、プレゼントを渡すつもりだった。絶対に喜んでくれるはず。渡した瞬間の結衣さんを想像するだけで、自然と笑顔になる。
「結衣さんも、もう二十六歳ですか。なんか、あっという間でしたね」
「そうだね。時が経つのって本当に早いなって、最近すごく思う」
初めて出会ったのは、結衣さんが二十一歳の年だった。あれから、五年の歳月が経った。
空いてしまった四年の空白期間を笑い飛ばせるくらいに、幸せな人生を共に過ごしていきたいと切に願う。
バーテンダーさんがしゃかしゃかと私のお酒をシェイクしてくれる音を聞きながら、少しは私も大人になれたかなあと、振り返るようにしみじみと考える。
学生の頃、料理や家事はほとんど結衣さん任せだったけど、一人暮らしを始めてから私は、不器用ながらも家事や料理を少しずつするようになった。
これから先、一緒に暮らしていくようになったら、頼るだけじゃなくて支えあって生きていきたいと思うから、苦手なことでも克服していけるように、挑戦していきたいと思っている。
だから――その、夜だって。いつもしてもらってばかりじゃなくて、私だって……。
そんなことを考えている間に、出来上がったらしいカクテルを、カウンター越しにバーテンダーさんが差し出してくれた。見た目は……アイスティーみたい。
続けて、結衣さんもお酒を受け取る。それがソルティドッグか。一見ただのグレープフルーツジュースに見えるけど、聞いた通り、グラスのふちに塩がついていた。
「かなた、乾杯」
結衣さんがにっこり笑って私にグラスを差し出すから、大きな音を立てないように控えめにそっと、乾杯をした。
「わ、本当にダージリンの香りがする」
グラスに口をつけると、嗅ぎなれた紅茶の香りがして驚く。爽やかでさっぱりした口当たりがして、すぐに美味しい、と思った。
「大丈夫? 苦手じゃなかった?」
「すごく美味しいです」
喉が渇いていたわけじゃないのに、美味しくてごくごく飲んでしまう。レモンサワーより好きかも。
そんな私を見て結衣さんは、「あんまり飲みすぎないようにね」と笑って言った。
***
なんだか雲の上にいるみたいに、頭の奥が、ふわふわする。身体中がぽかぽかして、熱い。
本当はもっとお酒を楽しみたかったのに、途中で結衣さんに「飲みすぎ」とお酒を取り上げられてしまって、夜風にあたりながら手を繋いでゆっくりと、テントまでの道のりを歩いていた。
「かなた、大丈夫? 飲みすぎないでって、言ったのに」
「だいじょうぶですよ、全然酔ってないです。ちょっとふわふわするくらいで」
「本当に? 顔、真っ赤だけど」
呆れたようにそういうけど、だいじょうぶ。まだ意識はちゃんとある。
「心配してくれてるんですか? 結衣さん、やさしいですね」
嬉しくなって笑うと、結衣さんが、ふう、と小さくため息をついて、それから諦めたように笑った。
「……まあ、一緒にいるときは、たまになら飲みすぎてもいいけど。酔ったかなた、すごくかわいいから」
かわいい、だって。へんなの。別にいつもと変わらないのにね。
テントに着くと、結衣さんはランプをつけてくれた。オレンジ色の光に室内が包まれて、すごくロマンチックだ。
今日は晴れていたし、寝ながら星が見えるかも。そう思っていたのに、結衣さんはテントのカーテンを下してしまう。
せっかく外を見るために一部が透明張りになっているドーム型テントを選んだのに。
「ねー、結衣さん、なんでカーテンおろしちゃうんですか? それじゃ、星見えないですよ」
ぼすんとベッドに腰を下ろしてそう言うと、結衣さんがにっこりと笑って、私の元に歩み寄った。肩に、熱い手のひらが押し当てられて、私はきょとんと結衣さんを見上げる。
「だって、かなたの裸、誰かに見られたらいやだもん」
「え?」
裸――? 聞き返す暇もなく、気付いたら世界がぐるりと反転した。ぎしりと、ベッドが軋む音がして、結衣さんが私の上に覆いかぶさってくる。
「約束通り、ベッドまで我慢したよ。かなた、なんでも言うこと聞いてくれるって約束したよね? 今日は、私の好きにしてもいい?」
アクセル全開で押し倒してきた結衣さんに驚く。ちょっと、まって。まだ、プレゼントを渡せてない。慌てて見上げれば、まるで肉食獣みたいにぎらついた瞳が、私を見下ろしていた。
その欲の乗った熱っぽい視線に、ぞわりと背が震える。
何度も結衣さんと身体を重ねたせいかもしれない。眼差し一つで身体が勝手に気持ちいいことを期待してしまう。お腹の奥に火がともるような感覚がして、慌ててその肩を押した。
「ゆ、結衣さん、まだだめ……。ちょっと、まって」
「だめ。もう待てない」
顔を逸らしたのに、ぐいとその左手で正面を向けさせられて、あっさりと唇を奪われる。親指を差し込まれて空いた唇の隙間から、舌が忍び込んできて、その性急さに驚いて結衣さんの服をギュッと掴んだ。
「ん……!」
絡み合う舌から感じる、ほのかなグレープフルーツのフレーバー。お酒を飲んでいるせいでただでさえ速くなっている鼓動が、より速度を高めていく。スカートをたくし上げた左手が、そっと私の太ももを撫でた。
まさかこんなに強引に求められると思っていなくて、頭の中はパニックだった。どうしよう、抵抗しないと。このままだと、押し切られちゃう。
そう思うのに、やめてほしくない、と心のどこかで思ってしまう自分もいる。このままだと縋りついてしまいそうだと思ったから、自分を奮い立たせて結衣さんの肩を押した。
いつもよりも強い抵抗に気付いたのか、結衣さんは、身体を離してくれた。
肩で息をしながら、足りなくなった酸素を取り込んで、呼吸を整える。
やめてはくれたけど……結衣さんは、不満げにきゅっと眉を寄せて私を見下ろしていた。
「結衣さん、だ、だめ……ですってば」
「……なんで?」
こんなに強く求められたのは初めてで――お預けしすぎたことを、反省する。むすっとしている結衣さんはかわいいけど、ここで流されてしまったら、計画が何もかも台無しだ。
「プレゼント、用意してるから……もう少しだけ、まって」
「え?」
そう言えば、結衣さんは、驚いたように目を丸めた。
「プレゼント?」
こくりと、頷く。結衣さん、もしかしなくても、お誕生日のお祝いはグランピングだけだと思ってたのかな。
そんなわけないのにね。びっくりしている結衣さんに笑って、私は上半身を起こした。
「だから、ちょっとだけ待ってください。ね?」
「う、うん……」
おとなしく身体を離してくれたから、私は起き上がった結衣さんの手をぎゅっと握って、まだ驚いているらしいその瞳を覗き込んだ。
「準備するので、目、瞑っててもらえますか?」
急にしおらしくなってしまった結衣さんに薄く笑ってそう言うと、結衣さんは「わかった」って言って目を瞑ってくれた。一度ベッドから離れて、ボストンバッグからその箱を取り出す。
私の言った通りベッドの上で大人しく目を瞑ってくれている結衣さんがとってもかわいくて、ふふっと笑みが溢れた。
胸の奥がふわふわするのは、きっとアルコールのせいだけじゃない。
ベッドの上に私も乗って、目を瞑ったままの結衣さんを正面から見つめる。本当に綺麗な顔。ずっと見ていられる。
「かなた、もういい?」
「まだ、だめです」
痺れを切らしたらしい結衣さんがそう言うけど、もう少しだけあなたのことを見ていたかった。
両手を取って、その手の上に箱を乗せる。それと同時に、私から触れるだけの、キスをした。
唇を離すと、結衣さんがぱちぱちと瞬きをして、視線を下に落とす。手の上に乗せたその箱を見た瞬間、結衣さんが、驚いた顔をした。
「……これ……」
「結衣さん、早く、開けて」
急かして言うと、結衣さんがゆっくりとその箱を開ける。私のピアスとお揃いの、クローバーのモチーフのネックレス。
オレンジ色の照明を反射して、きらきらとその黒が結衣さんの瞳みたいに輝いていた。
「結衣さんがくれた、私のピアスとお揃いです」
笑って言えば、結衣さんが急に私の身体をぎゅっと強く、抱き寄せた。
「かなた……ありがとう。どうしよう、すごくうれしい……」
「やっとお揃いのもの、持てましたね」
「うん……。一生、大事にする。ネックレスも、かなたのことも」
身体を離してそう言った結衣さんの瞳が潤んでいて、やっぱり、思った通り、喜んでくれたんだと胸の奥が熱くなった。
箱からネックレスを取り出して、結衣さんの首に通してあげる。想像していたとおり、そのオニキスのクローバーは、白い胸によく映えていた。
「思ったとおり、すごく似合ってます」
「ふふ……ありがと」
嬉しそうに微笑んで、結衣さんが私に唇を寄せる。今度は拒否しないで、その唇を受け入れた。角度を変えて何度も唇を重ねているうちに、徐々に頭がぼーっとしてくる。
さっきから、アルコールで熱くなった身体は全然冷めてくれなくて、触れ合うたびにどんどん熱が溜まっていくような感じがする。
その腕がぐっと私の腰を抱き寄せる。キスを繰り返している間に、悪戯な手のひらが優しく私の身体をなぞって行って、ブラウスのボタンに、その指がかかった。
そこで、結衣さんが私を脱がそうとしていることに気付いてはっとする。
危ない。気持ちよくて、いつもみたいに流されるところだった――。
思い出したように唇を離すと、結衣さんは突然離れた私に驚いたのか、様子を伺うようにじっと私を見つめた。
間髪入れず、その肩に手を置いてぐっと力を入れる。思い切って体重をかけて押し倒すと、その腰の上に、乗り上げた。
見下ろせば、驚いたように、結衣さんがぱちくりと目を丸める。
さっきから私の心臓はどくどくと、壊れたように加速して、なりやまない。
でも、できた、よかった……。ちゃんと結衣さんのこと、押し倒せた。ちょっと危なかったけど、ここまでは私の計画通り。
「結衣さん……」
名前を呼んだ声は、緊張で掠れてしまって、恥ずかしいくらいに弱々しかった。
結衣さんはやっと状況を把握できたのか、一度大きく呼吸した後に、ふっと嬉しそうに笑ったから、首を傾げた。
あれ、おかしいな。私はいつも、結衣さんに押し倒された瞬間から何も考えられなくなるのに――なんで、そんなに余裕そうなんだろう?
「……今日は珍しく積極的だね。うれしい」
そう言って、腰の上に跨った私の太ももを、その左手が優しく撫で上げた。驚いて、私はスカートの中に忍び込んできた悪戯な手をぱっと掴んで止める。
違う、結衣さん、そうじゃなくって……。
「だ、だめ。結衣さんは今日、私に触っちゃダメです」
「へ? どういうこと?」
意味がわからない、って顔をして、結衣さんは私をじっと見上げる。こんな状況で、まさかわかってないのかな。
もしかして……ちゃんと、言わなきゃ伝わらないのかも。そう思って、その瞳をじっと見つめながら、覚悟を決めて、口を開いた。
「結衣さん、今日は……私が、します」
「………………は?」
たっぷり数秒置いた後、結衣さんは、ぽかんとして——たった一言、そう言った。
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