第78話 結衣のこと、押し倒してみたら?

 まだ、私が小学生の頃。


 毎年、家族でキャンプに行っていた。お父さんが大のアウトドア好きだったから、それが青澤家の恒例行事だったのだ。

 私が生まれる前、大金を叩いて買ったと言うお父さんの愛車のランドクルーザーに乗って、色んなキャンプ場に足を運んだものだった。


 弟の虫取りに付き合ったり、バーベキューを楽しんだりしていると、あっという間に夜になったのを覚えてる。


 ランタンで照らされた狭いテントのあの雰囲気を思い出すだけでワクワクする。でも、何度経験しても寝袋で寝るのだけは慣れなくて、ベッドに甘やかされた身体は、いくら疲れていてもなかなか眠りについてくれなかった。

 そんな不便がありつつも、自然の中で感じる、草木や水の匂いは好きだった。

 だから、初めて「グランピング」の存在を知ったとき、とても魅力的に感じたのは、幼少期の思い出のせいかもしれない。


 灰色一色の都会のビル群に囲まれながら日々を慌ただしく過ごして行く中で、ほんの少しでも生活に彩りがあればいい。ささやかな休息であったとしても、その時間はとても尊いものだ。

 これから先、結衣さんと二人で過ごす日常が当たり前になっていっても、そんな時間を大切にしていけたらいいなと思う。



 日曜は、結衣さんの誕生日。

 大切なこの日に偶然にも休日が重なったのは幸運だったと思う。

 土曜の今日。朝から早起きして、私たちはグランピング施設がある、軽井沢へと車を走らせていた。



 二人で雑誌と睨めっこしながら、宿を決めたのも楽しかった。

 ちょっと遠出になってしまったけれど、温泉もあるし、一棟一棟離れているからゆっくりできて、食事も雰囲気もすごく良さそうだった。夜にはバーでお酒も飲めるらしい。


 紅葉のハイシーズンではないにしろ、十月も半ばにさしかかれば、標高の高い軽井沢ならそろそろもみじが色付き始める頃だろう。


 日頃の行いのおかげか、今日は清々しいほどの秋晴れで、最高のお出かけ日和になった。

 私たちを乗せた結衣さんの愛車が、高速道路を滑るように走って行く。


 揺れも少なく乗り心地のいい車内で、私は鼻歌を歌いながら窓の外を眺めていた。一泊分の着替えを詰めたボストンバッグは、トランクに。そしてその中には、先日買った結衣さんへのプレゼントが入っている。

 日付が変わると同時にそれを渡すのが、今日一番の楽しみだった。


「結衣さんのお誕生日なのに、運転させちゃってごめんなさい」


「気にしなくていいよ。この車自動運転ついてるから、全然疲れないし」


「えっ、自動運転ですか? すごいですね……」


 社会人になって再会した時、結衣さんの車は黒くてピカピカした国産車から、白くてピカピカした外国車に変わっていた。もちろんこれは雪哉さんからのお下がりらしい。

 雪哉さんの会社の事業が好調だと言うことは、語らずともこの車が物語っている。

 たとえば助手席にオットマンがついているとか、シートにヒーターやクーラーがついているだとか、車にそんな装備があること自体、たぶん私は結衣さんと出会わなければ、一生知らなかったかもしれない。


 隣の結衣さんを見る。日に照らされたその横顔はすごく嬉しそうで、私もつられて笑顔になった。

 さっきコンビニで買ったお菓子のふたを開けて、長細いじゃがいものスナック菓子を、一本つまんで取り出す。


「おやつ、食べますか?」


「ん、ありがと」


 運転中で手が離せないからと、結衣さんの口元にスナックを差し出してあげる。ちゃんと食べれたのを確認したその後に私も、続けて口の中に放り込んだ。

 車内に響くさわやかな音楽と、澄んだ秋の青い空と白い雲。そして隣にあなたがいるだけで、私はこんなにも楽しい気持ちになれる。

 願わくば、結衣さんもそうであればいいな。まだ見ぬ旅先に思いをはせながら、私たちを乗せた車は、目的地へと着実に近づいて行った。





***




 二時間にわたるドライブは、思っていたよりもあっという間だった。

 涼しい秋の風に、赤く色づいたもみじの葉が揺れる。深呼吸して木々の匂いをめいっぱい吸い込むと、仕事でたまった疲れが溶かされていくような気分になる。

 グランピング施設には、機材や食材の持ち込みは一切必要ない。

 ドーム型テントにどうしても泊まりたくて選んだこの施設は、バーベキューも美味しいと評判だ。

 一棟一棟にバス・シャワーは備え付けてあるけれど、ちょっと離れたところに貸し切りできる温泉施設もあるらしい。

 結衣さんが一緒に温泉に入りたいというから、受付で事前に予約を済ませておいた。ちょっと恥ずかしいなと思ったけれど、それもこれも全部、結衣さんの誕生日だから仕方ない。


 いつも私の願いを叶えてくれる結衣さんのために、今日は私もできるだけ彼女の願いを叶えてあげたいと思っている。


 私たちが今日泊まるヴィラには、私が希望した大きなドーム型テントがあって、ウッドデッキにはハンモックふたつとバーベキューセットがあった。

 それなりの値段がしたこともあって、ドーム型テントに入ると、天井は、見上げるほどに高かった。


「わあ、すごいですね……!」


 中にはキングサイズのベッドが一つ。同じベッドで寝たい、と言うのは、結衣さんの希望だった。

 テントの一部は透明になっていて、外の自然を目で楽しめるようなつくりになっている。これならもしかして、星もきれいに見えるかもしれない。


 ベッドに駆け寄って、ぼすんと思い切りダイブする。すると結衣さんが後ろで笑う声がした。


「まだお昼なのにそんなにはしゃいでたら夜まで体力持たないよ?」


「……だって、すごく楽しみにしてたんです」


「ふふ、そうだね。想像以上にすごくて、びっくりした。……かなた、本当にお金大丈夫なの?」


 結衣さんが、荷物をテント備え付けのバゲージラックに置いて、ちょっとだけ心配そうに私を見るから、私は思わず笑ってしまった。だって、とても貢ぎ癖のある人の発言とは思えなかったから。


「心配しないでください。夏のボーナス、いっぱい貰ったので。結衣さんのおかげです」


「かなたを評価したのは山里さんでしょ? 冬の賞与の査定は、私になるけど」


 そう言って、結衣さんもベッドに腰を落とす。うつ伏せでぱたぱたと足をばたつかせていた私の顔をのぞき込んで、結衣さんがにんまりと笑った。


「……お手柔らかにお願いしますね?」


 ちょっと不安になってそう言えば、結衣さんは眉尻を下げて笑う。


「もちろん。かなたは頑張ってるから。いつだって満点だよ」


「恋人だからって贔屓されるのも、それはそれで……釈然としないですけど」


 唇を尖らせてそういえば、結衣さんが笑った。私の隣に横になった結衣さんに、そっと頬を撫でられる。私も結衣さんに向き直ってじっとその黒い瞳を見つめれば、とくとくと、心臓が高鳴るのがわかった。

 何年経っても、この人の美しさにはまだ慣れない。見つめられると、途端に息が苦しくなる。

 あぁ、好きだなぁ。噛み締めるように、そう思う。


「……かわいい」


 呟くようにそう言って、結衣さんは私の髪を耳にかけてくれる。

 木々の葉が、風で揺れる音が聞こえてくる。ドーム型テントから差し込む木漏れ日があまりにも心地よくて、このまま目を瞑ってしまったら眠ってしまいそうなくらい、幸せな昼下がりだった。


「……好きだよ、かなた」


 好き、って。たった一言あなたにそう言われただけで、私はあなたのことしか考えられなくなる。躊躇いがちに、その黒い瞳から唇に、視線を落とす。

 視線だけで私の気持ちを汲んでくれたらしい結衣さんが、ふっと笑って私に顔を近づけた。

 触れるだけのキスをする。愛情だけを分け与えるような、優しい優しい、キスだった。


「私も……好きです」


 唇が離れると、まるで胸の奥から自然とこぼれ落ちたみたいに口に出していた。嬉しそうに結衣さんは笑って、私の身体をぎゅっと強く抱きしめる。


 いつもの香水のいい匂い。大好きな結衣さんの匂い。胸の奥が、ふわふわする。


「ちょっとゆっくりしたら、お散歩しに行こっか?」


 彼女の胸に押し当てた耳から、結衣さんの柔らかい声が響いて聞こえた。うんって頷いたら、結衣さんは優しく、私の背を撫でてくれた。




 今日の私には、目的がある。四年越しの結衣さんの誕生日を最高のものにするために、念入りに情報収集をしてきた。


 これから自然を散策して楽しんだら、バーベキューをして美味しいご飯をいっぱい食べる。貸し切りの温泉に入ったら、その後はバーでゆっくりとお酒を飲む。前に、結衣さんとデートしたとき車を出させてしまったせいで、お酒を飲めなかったから。でも今日なら、一緒に飲める。


 テントに帰ればきっとちょうど日付をまたぐ頃になるだろう。そうしたら、結衣さんにあのネックレスをプレゼントして、そして――。


 ごくり、と息を飲む。だいじょうぶ。私が立てた作戦は、完璧だ。


 結衣さんの胸に抱かれながら私は、律さんにとある相談をした日のことを、思い出していた。




***




「ごめん、かなたちゃん。よく聞こえなかったから、もう一回言ってもらえる?」


 仕事帰りの平日。居酒屋の個室でビールを片手に、律さんが怪訝そうな顔をして私の顔をじっと見た。


「えっと……だから、一般的に、恋人同士ってどのくらいの頻度で、その……」


 ごにょごにょと、自分の声が徐々に尻すぼみになってしまっているのを自覚する。すると律さんがさらに身体を近づけて、私の言葉を聞き取った後、あぁ、と合点が言ったように小さく目を見開いた。


「んっと、つまり、恋人同士はどのくらいの頻度でセックスしてるか知りたいってこと? まさか毎晩求められてて困っちゃうとか、そういうノロケ?」


「り、律さん! そんな大きい声で言わないでくださいよ! それに、毎晩じゃありません!」


 律さんがげらげらと笑うから、まるで機関車になったみたいにぷしゅーと顔から湯気が出そうになる。

 こういう話を聞くなら律さんが絶対適任だと思ったのに、もしかして私は判断を間違ったかもしれない。

 いじけて手持ち無沙汰におしぼりをいじると、律さんは目尻に浮かんだ涙をぬぐいながら、「ごめんごめん」と謝った。


「いや……だってさぁ、結衣と付き合った時点で、こうなることぐらいわかってたでしょ?」


「わかりませんよ。だって、比較する対象もいないし……」


 唇を尖らせて言えば、律さんはにんまりと目を細めた。


「なに、結衣に文句でも言われたの?」


「そういうわけではないですけど……」


 そういうことに慣れていない私が、結衣さんを満足させてあげられているのかはわからない。結衣さんがあまりにも経験豊富だから、私は不安になってしまう。

 この間聞いた時は満足していると言ってくれたけど本当だろうか。

 私が元々セックスが得意じゃないということを結衣さんは知っている。結衣さんは優しいから、不満に思っていても言えないだけかもしれない。

 現にこの間も、「二週間もお預けは無理」って言われたばっかりだ。私は結衣さんのお誕生日のことばかり考えていて、そこまで全く気が回っていなかった。

 結衣さんは愛情表現をたくさんしてくれるタイプだ。だからきっと夜を共に過ごすのも、その延長線上にあるんだと思う。

 でも、それは本当に一方通行でいいんだろうか。

 周りに女性同士で付き合ってるカップルがいないから、聞く相手もいないし、正解がわからなかった。


「私、前の彼とはセックスが原因で浮気されて、別れてるんです。もちろん、結衣さんは浮気したりする人じゃないってわかっているんですけど、どうしても、私で満足してくれてるのかなって気になっちゃって……。それにその、いつも、私がしてもらうだけなので、本当にそれでいいのかなって……」


 結衣さんの元カノは年上だったみたいだし、私みたいに、不慣れだったわけじゃないだろう。私じゃ物足りないって思われたりしたら、どうしよう。幸せであればあるほど、そんなことを考えてしまう。


 塩ゆでした枝豆をほおばりながら、律さんはぱちくりと目を丸めた。


「心配するとこ、そこぉ? それは大丈夫でしょ。結衣はかなたちゃんにしてもらいたいなんて、一ミリだって思ってないと思うけど……」


「そ、そういうものですかね?」


 聞き返すと、律さんはビールをぐいっと飲んだあと、何かを思いついたようににんまりと笑った。この瞳には見覚えがあるなぁ、となんだかいやな予感がする。


「そういえば、結衣の誕生日、お泊まりに行くんだっけ? それならさぁ……いっそ、かなたちゃんから結衣のこと、押し倒してみたら?」


「えっ?」


 そんなことを言われるなんて思っていなくて、ぎょっとする。押し倒す……? 私から、結衣さんを……?


 想像した瞬間、ぐわっと顔が熱くなるのがわかった。あの結衣さんを押し倒すなんて、できるのかな、そんなこと。


 初めて結衣さんとセックスしたときは……確かに私から迫った。でも、あのとき私はまだ自分がお酒に弱いかどうかも知らなくて、許容量を超えたアルコールを飲んだせいで泥酔していて、気が大きくなっていたんだと思う。


 しらふでは、とてもじゃないけれどできる気がしない。


「結衣がどう思ってるか知りたいなら、行動あるのみでしょ。どんな反応するか、試してみたらいいのよ」


 でも、とか、だって、とか。そんな言い訳を言ってしまいそうになる。


 そういえば私は、結衣さんと約束したんだった。誕生日に、「何でも言うことを聞く」って。

 あの結衣さんが、そんな約束を忘れているわけがない。きっと当日は何かしらの行動を取ってくるはずだ。

 だったら私が先手を取るって言うのも、もしかして悪くないのかもしれない。それができるかできないかは、一旦置いといて。


「できるとこまで……がんばって、みます」


 私がそう言うと律さんは、面白そうにけらけらと声を出して笑った。


 ひとごとだと思って、と頬を膨らます。でも——私も、本当はちょっとだけ。

 結衣さんがどんな反応をするのか見てみたいと、思ってしまったのだった。






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