第76話 もっとちゃんと、抱きしめて
九月も半ばに差し掛かろうとしている、月曜の午後のこと。社長室に響くキーボードの音がピタリと止まって、結衣さんは深くため息をついた後、凝り固まっているであろう身体をぐーっと伸ばした。
最近の結衣さんは、ため息が増えた気がする。
それにはちゃんと理由があって、来月初めに、「グループ合同社長会」があるからだ。
一ノ瀬グループ傘下の各社長が四半期に一度、親会社である一ノ瀬ホールディングスの社長——つまり結衣さんのお父さんに、業績を報告するための、大事な会議のこと。
朝から結衣さんは会議に向けての資料作成に追われていた。
根を詰めてPCと向き合いながら、時折手を止めて考え込むようにしていたから、何となく行き詰まっているのかなと察してはいた。
夏にオープンした大型リゾートホテルも大成功を収め、会社の業績は好調だ。このまま行けば、結衣さんが就任時に打ち立てた三カ年の中期経営計画の通り、今期は増収増益を見事達成できる見通しだ。
それでも、業績が良いからと言って決して楽観的になれないのが、如何にこの「社長会」で求められている水準が高いのかを物語っている。
想像するだけで、胃が痛くなりそうな話だ。結衣さんは歴代最年少で社長に就任したと言うこともあって、うちの会社はグループ各社の中でもかなり注目されているらしい。
実績をきちんと出せているから良いものの、そのプレッシャーは、計り知れない。
「……ちょっと雪にぃの会社に行ってくるね。午後から空いてるって言うから、来月の社長会の資料について相談してくる」
徐に立ち上がって、ラックに掛けていたダークグレーのジャケットを羽織ると、結衣さんがまた、深いため息をついた。
「わかりました。気を付けて行ってきてくださいね」
結衣さんを見送ろうと、デスクから立ち上がる。目が合うと、結衣さんは優しく笑って、私の腰を片手で抱き寄せた。
「うん。十七時には戻ってくるね」
触れるだけの優しいキスを、受け止める。二人きりなのを良いことに、結衣さんはいつもこうして私に触れる。
社長室だけならまだしも、エレベーターの中とか、会議室とか、ちょっと困ってしまうようなところでもお構いなしに触れてくるから、私はいつもドキドキしてしまう。
最初の頃は、誰かに見られたりしないかとそわそわしていた。でも、社長室なら――誰かが勝手に入ってくることなんてまずありえないから、いつの間にかそれを受け入れるようになってしまっていた。
名残惜しくも私の身体をそっと離して、結衣さんは嬉しそうににっこりと笑う。
「じゃあ、行ってきます」
社長室を出る結衣さんを「いってらっしゃい」って見送ったあと、私もふうと一度、ため息をついた。
結衣さんの誕生日が、来月に迫っている。それなのに私はまだ結衣さんに、誰と過ごす予定でいるのかを聞けずにいた。
大学生の時、結衣さんは月に一度だけ、お父さんと北上さんと、「食事会」に行っていた。でも、今の結衣さんを見ていると、どうも北上さんと会っているような気配はない。
さすがにもう学生じゃないし、お父さんを介して男性と会うような年齢でもないから、もしかして「食事会」はなくなったのかもしれない。
でも、二人で過ごした日の翌朝、休日にも関わらず結衣さんに北上さんから着信があった。
結局あの後も、結衣さんは私の前で電話を折り返すことはなかったから、私は何も、聞かなかった。
気にならないと言えば嘘になる。でも、こんなにも私のために努力してくれている結衣さんに、あれこれ聞いてさらにプレッシャーをかけることだけは、どうしてもしたくなかった。
大丈夫。私は結衣さんのこと、信じてるから。
紅茶でも淹れて、一息つこうかな。そう思ってデスクから立ちあがろうとした瞬間、電話機の赤いランプがチカチカと光ったのに気付いた。
受付からの、内線だ。手を伸ばして、受話器を取る。
「お疲れ様です。秘書の青澤です」
『受付の和田です。今、社長あてに来客がありまして……』
来客と聞いて、驚く。結衣さんのスケジュールはすべて私が管理している。今日の午後にアポイントなんてなかったはずだ。まさか、見落としがあったのだろうか。
受話器を肩に挟んで、PCを操作しつつスケジュールを再確認する。だけど、午後からの予定はやっぱり何も入っていない。それなら、飛び込み営業か何かだろうか。
「アポイントのない方は取り次げないとお伝えいただけますか?」
『それが……名乗ればわかるからと言われてしまって。一ノ瀬ホールディングスの、北上さんという男性の方です』
その名を聞いて、ぞわりと肌が粟立つ感覚がした。受話器を持つ手が微かに震える。
落ち着け。そう自分に言い聞かせて、ゆっくりと、深く深く、息を吸う。
アポイントが無いと言えども……追い返せない。追い返すわけにはいかない。だって北上さんは、親会社の社員。しかも社長付。結衣さんのお父さんの側近だ。受付で返すような失礼な真似は——さすがにできない。
「では……私が対応いたしますので、応接室にお通ししてください」
そう言って、受話器を置いて立ち上がる。じんわりと手のひらに汗をかいているのがわかった。
どうしよう。北上さんが、来た。
これは仕事だ。私情は、挟むべきではない。結衣さんの秘書として、毅然と対応すれば良い。
それに、会ったのは四年前のたったの一度きりで、一瞬だ。私のことなんて、覚えていないかもしれない。
そんなわずかな可能性に期待して、社長室のドアノブに、手を掛けた。
***
四年の歳月が経った今でも、私はあの日のことを昨日のことのように思い出せる。
あれほど泣いた経験は、後にも先にもない。ちくちくと蘇る痛みに目を瞑って、一度深く呼吸する。
そして応接室の、ドアを開いた。
視界にとらえたその姿は、四年前と何も変わらず、記憶のままの姿だった。
革張りの黒いソファの前に立つ、彼を見つめる。
高い身長。清潔感のある、如何にもビジネスマンらしい整った髪型。濃紺のスーツに身を包んだ彼は、私の顔を見るなり一瞬目を見開いて——それから鋭く目を細めた。
怯んでしまいそうになった気持ちを奮い立たせて、真っ直ぐにその瞳を見つめ返す。
「いつもお世話になっております。秘書の、青澤です」
はじめまして、とは言わなかった。だって気付いてしまったから。彼は、私を覚えてる。それは確信に近かった。
深煎りのコーヒーに、ほんの数滴ミルクを垂らしたような、独特な焦茶色の瞳。
その瞳の奥に、鋭い刃が見える。切先を喉元に突きつけられているような、そんな居心地の悪さを感じた。
薄い唇が弧を描く。にこりと笑った彼は、まるで蛇みたいな人だ、と思った。
「君、確か前にも……会ったことあるよね? まだ、結衣が学生の頃に。そうだ、結衣と一緒に暮らしてた子だ」
凍てつくような冷たい瞳に、ぞわりと背筋に寒気が走った。
「君のこと、すごく印象に残ってる。あれから同居を解消したって聞いてたから、てっきり仲違いしたんだと思ってたけど……違ったんだ」
「……社長は、現在外出中です。ご用件がおありでしたら、承ります」
質問には答えずに、事務的な対応で返す。アポイントもなくやってくるなんて、一体、北上さんは何を考えているんだろう。
値踏みするように私を見つめる彼の視線は、全身にまとわりつくような湿度があって、息が苦しくなる。
「あ、そうなの? 残念、外出中だったのか。……電話も出ないし、メッセージもろくに返してくれないから、直接話しに来たんだけど、タイミングが悪かったな。結衣の連絡無精は昔からだけど、恋人からのメッセージくらいちゃんと返してほしいよな」
恋人——。その言葉に奥歯をぐっと噛み締める。顔には出さないように、耐えて、飲み込んだ後、笑顔を作って北上さんを見つめ返した。
「お伝えしたいことがあるなら、私からご伝言いたしましょうか?」
「そう? 悪いね。来月の結衣の誕生日のお祝いなんだけどさ……食事に誘ってるのに、当日は忙しいって全然取り合ってくれなくて。いつなら空いてるのか連絡してって、伝えて貰えるかな?」
「……かしこまりました」
そう聞いて、ものすごくホッとする。よかった。結衣さん、北上さんからの誘い、断ってくれていたんだ。
よく考えてみれば、あの結衣さんが、「当日は慎二と食事に行くから」なんて、言うわけない。心配しすぎだったと、安堵する。
「仕事中に邪魔して、悪かったね。じゃあ結衣によろしく」
そう言うと北上さんは私の横を通り過ぎて、応接室のドアノブを掴んだ。安心して、ふう、と気付かれないように小さく息を吐く。
内容はさておき、あっさりとした用件でよかった。
なんとか乗り切った。このまま彼が何も勘繰らずに帰ってくれればそれでいい。
考えすぎるのは私の悪い癖だ。大丈夫。北上さんだって、まさか結衣さんが女性と付き合っていると、思うわけ――。
「……あぁ、そうだ。青澤さん。一つ君に聞いておきたかったんだけど、いいかな」
ドアノブをひねる前に、北上さんが私を振り返ったから、心臓がギュッと縮まるように緊張が走った。
「学生の時、君と結衣って、どんな関係だったの?」
はっきりと、私の目を見据えて彼は言う。その瞳は笑っていなかった。突き刺さるような視線に、ごくりと息を飲む。
「……それは、どういう意味ですか?」
「青澤さん、覚えてるかな。初めて会った時のこと。俺が名乗った後、君、何も言わずに走り出しただろ? あの後、結衣が慌てて君を追いかけて行って――その後、俺も結衣を追いかけたんだ。君はもういなかったけど、あんなに取り乱した結衣、初めて見たから……気になってたんだよね。どういう関係なんだろうって」
わからない。どこまで気付いているのか。ゆっくりと、足元からじわじわと締め付けられていくような、息苦しさを感じる。
動揺を悟られないように、私は彼の焦茶色の瞳から視線を逸らさなかった。真っすぐに見据えたまま、唇を開く。
「仲の良い、先輩後輩でした。あの時はちょっと……喧嘩をしただけです。今はご覧の通り、仲直りしていますので気になさらないでください」
自分で、そう口にすることは、苦しかった。本当は言いたかった。結衣さんの恋人は、あなたじゃなくて私だと。でも言えない。今は、まだ。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、北上さんは目を細めて、薄く笑った。
「そう? それならいいんだ。まあ、これからも、結衣と仲良くしてやって。よろしくね」
あっけないほどあっさりと、北上さんは応接室を出て行った。体中の力が抜けて、私はソファにへにゃへにゃと座り込む。
北上さんは私が想像していたよりずっと、底が見えない人だった。雪哉さんが「めんどくさいやつ」と言っていたけれど——話してみて、その言葉の意味がわかった。
一癖も二癖もある。良い人なんだか悪い人なんだか、それすらもわからない。
どっと疲れてしまって、結衣さんが帰ってくるまで、私はずっと上の空だった。
***
「ただいま」
社長室のドアが開いたのは、十七時になる少し前だった。ぱたんと社長室のドアが閉じたと同時に、半ばぶつかるように結衣さんに抱き着いた。
「わ、っ」
結衣さんは少しよろけて、でもしっかりと私を片手で抱きとめてくれる。
本当は、泣きそうだった。でも、困らせたくなくて、涙が出そうになるのを必死にこらえる。ぎゅっと強く強く抱きしめると、大好きな結衣さんの匂いがして、気持ちが徐々に、落ち着いてくる。
「かなた、どうしたの?」
「……寂しかったです。もっとちゃんと、抱きしめて」
甘えるようにそう言うと、結衣さんは手に持っていた紙袋を私のデスクの上に置いて、両手で私をしっかりと抱きしめた。
視線をデスクに落とすと、それは前に私が好きだと言った駅前のシュークリーム屋さんの紙袋だった。どうやら、お土産を買ってきてくれたらしい。
心配そうに私の顔を覗き込んでくるから、思わずふふっと、笑顔になる。
その首に腕を回して、少しだけ背伸びする。そして唇を押し付けるだけの、キスをした。
これは、北上さんにはできない、私だけに許された特権。
唇を離して、その黒い瞳を見つめると、結衣さんは一瞬ぽかんとした後、さらに私の腰を強く抱き寄せた。
今度は結衣さんが少し屈んで、もう一度、重なる唇。こんな風にするんだよ、って、教えてくれるみたいに何度も角度を変えて、唇を触れ合わせてくれる。
私を宥めるように何度かキスを繰り返した後、「何かあった?」って、結衣さんは心配そうに私を見つめた。
「……北上さんが、来ました。結衣さんに会いに」
「えっ」
整った眉根を寄せて、結衣さんが険しい顔をする。
「伝言を預かってます。結衣さんのお誕生日のお祝い、“いつなら空いてるのか連絡して”だそうです」
「……慎二には、二度と会社に来ないでって、言っておくから。嫌な気持ちにさせて、ごめんね」
そっと私の頬を優しく撫でて、結衣さんが心底申し訳なさそうに眉尻を下げた。だから私は、左右に首を振る。
私は平気だ。あなたの今までの苦しみや努力に比べたら、こんなの大したことじゃない。
結衣さんが私に告白してくれたあの日、罪も罰も、一緒に背負うと決めたのだ。これぐらいのことで、泣き言なんて言っていられない。
「ううん、大丈夫です。それより……結衣さん、お誕生日、何か予定があるんですか? 当日は忙しいって断られたって、北上さんが」
唇を尖らせて言うと、結衣さんはふふっと笑った。
「もちろん、予定ならあるよ。私の可愛い彼女がお祝いしてくれるはずなんだけど……違った?」
やっぱり。そう言ってくれると、思ってた。安心して、私もふにゃりと笑顔になる。
「ううん……違わないです。私が、いっぱいお祝いしてあげます」
「ありがとう。楽しみにしてるね」
視線を合わせて、二人で笑い合う。「シュークリーム買ってきたから、一緒に食べよ」って結衣さんが言うから、私も笑って、頷いた。
北上さんのあの視線、少し気がかりだったけれど——気付いているわけがない。私たちは女性同士で、ただ仲が良いだけだと言えば、きっとそれ以上、疑う余地はないはずだ。
嫌な記憶は早く忘れて、来月の結衣さんの誕生日のお祝いプランを考えよう。
そんなことを考えながら、シュークリームに齧り付いた。
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