第75話 私、煽ってるつもり、ないです
シングルサイズの自分のベッドにごろりと横になって、いつものように、シャチくんをギュッと抱きしめる。
自分の部屋にいるのに、ずっと心臓がドキドキと脈打って止まらない。
胸の奥が、まるで誰かにくすぐられているかのようにそわそわしている。
気持ちを落ち着けようと、シーリングの明かりをリモコンで消して、ベッドサイドのルームランプのスイッチを入れた。
オレンジ色の、柔らかい光が室内を優しく包む。
脱衣所から聴こえる、ドライヤーの音。それはこの家に、いつもだったらいるはずのない私の恋人がそこにいるという証拠だ。
離れがたくて、もっと一緒に居たくて、「泊まっていきませんか?」と誘ったのは、私だ。私が結衣さんを引き留めて、この部屋に招いた。
それが今更になって、恥ずかしくなってくる。
別に、そんなつもりで誘ったわけじゃない。それは確かなんだけど……。
「はぁ……」
思わず、ため息がこぼれた。
一緒にお風呂に入ったのに、意外にも結衣さんは「何もしない」という約束を守ってくれた。
お風呂から上がると、当然のように先に私の髪を乾かしてくれて、「部屋に行ってていいよ」って言うから、私は自分の部屋にひとり先に戻ったわけなんだけど。
緊張する。お布団の中でシャチくんを抱きしめてみても落ち着かない。おそらくこれから起こることを想像してしまっては、その度に頬が熱くなった。
セックスが、苦手だったはずだった。結衣さんと出会う前に付き合っていた彼と、それが原因で別れるくらいに。
それなのに。なんでこんなに、彼女に触れられることを期待してしまうんだろう。
何度か彼女と身体を重ねたけれど、私は未だに慣れないし、毎回心臓が壊れちゃうんじゃないかってほどに緊張する。
学生の頃、結衣さんは不特定多数の女性と関係を持っていた。容姿端麗で、誰にでも優しい彼女は、恐ろしいほどよくモテた。
誰とも付き合うこともせずにふらふらと、色んな女の子をとっかえひっかえしていたことは、私だって知っている。
今更それを責めるつもりはないけれど、やっぱり少し引っかかるし……不安には、なる。
だって、結衣さんが遊んでいたたくさんの女性たちと比べて私は――圧倒的に経験が浅くて、不慣れだから。
きゅっと目を瞑って、シャチくんのお腹に頬を押し付けた。
前の彼は、きっとそんな受け身な私が、つまらなかったのだと思う。
結果的に浮気された挙句にフラれてしまったことが、この後に及んで尾を引いている。
もちろん、結衣さんはそうじゃないって、わかっているけれど。
それこそ飽きるほど女性と夜を重ねてきたはずの彼女は、こんな私で、満足してくれているのだろうか。
結衣さんとするセックスは、好き。こんなことを思ったのは初めてで、自分でもすごく驚いている。
熱の籠ったその瞳に見下ろされるだけで胸の奥が熱くなる。愛されていると心から思えて、すごく満たされる。たまに、すごく意地悪されるけど、それは……置いておいて。
結衣さんは、どう思っているのかな。
そんなことをぐるぐると考えていたら、ガチャリと音を立てて自室のドアが開いて、思わずぴくりと肩が震えた。
「……かなた、寝ちゃったの?」
照明を消してルームランプだけにしていたせいでそう勘違いしたらしい結衣さんに優しく名前を呼ばれて、ちょっとだけ顔を上げる。
するとベッドサイドまで歩み寄ってきていた結衣さんが、私を覗き込んで、少しだけ目を見開いた。
それから、私が胸に抱いていたシャチくんを片手でむんずと掴み上げる。
「あっ」
取り返そうと慌てて伸ばした指先が、空を切る。
私の腕の中から強引に取り上げたシャチくんと目線を合わせて、結衣さんは不服そうにプラスチックの瞳を睨み付けた。
「もう、結衣さん、何するんですか!」
思わず抗議の声を上げて、取り返そうと布団をめくりあげて上半身を起こす。手を伸ばせば、より届かないところにひょいとシャチくんを持ち上げて、結衣さんは私をじろりと見た。
「まさかコレ、抱きしめて寝るつもり?」
「コレ、って言わないでください。私、いつもシャチくんと寝てるんですから」
そう言うと、結衣さんがちらりとベッドボードの棚の上に視線をやった。
そこには今年の夏、沖縄で買ってもらったジンベエザメくんと、結衣さんから返してもらった、アザラシくんが並んでいる。
「ふーん? でも、シャチくんは、今日はお友達と一緒に寝たいってよ」
そう言って、結衣さんはアザラシくんの脇に、ぽいっと投げ捨てるようにシャチくんを置いた。
「あっ、もう、結衣さんのバカ。乱暴にしないでくださいよ!」
この子は私の大事な大事な思い出だ。大学一年のあの夏に行った水族館で、結衣さんに買ってもらった、大切なぬいぐるみ。
毎日抱きしめて寝ているせいでくたくたになりつつあるけれど、私はこの子のために「ぬいぐるみ用洗剤」まで買って、今まで大事に大事に扱ってきた。
ぞんざいに扱ったことに対して文句を言ってやろうと向き直ると、結衣さんが、一瞬何かに気付いたような顔をして、シャチくんのその脇へと手を伸ばした。
あれ、と思った瞬間。とても大事なことを思いだす。そうだ、すっかり忘れていた。
結衣さんには絶対に見られてはいけない
伸ばしたその手で、結衣さんは見慣れているだろうそのピンクのボトルをひょいと掴んだ。
リボンがついたデザインのそれは、結衣さんと離れ、ロンドンに帰ってから今までずっと、寂しい夜に一人で眠るための私の睡眠導入剤だった。
「……なんでここに、これがあるの?」
「あ、えっと、それは……」
じっと、その黒い瞳が私の瞳を見つめた。私が普段香水をつけないことを、結衣さんは知っている。それなのにも関わらず、中身が減っている香水のボトルを不思議そうに見る結衣さんに、私はなんと言い訳をしたらいいか、もうわからなかった。
「……かなた」
返事を催促されて、観念して俯いた。バレてしまった今、もう、誤魔化しようがなくなってしまった。
「えっと……寂しい夜、とか、寝れなかったりする時に……その……結衣さんの匂いがすると、落ち着くから……」
コトリ、と結衣さんが、香水を棚に戻した音がした。でも、私は恥ずかしくてたまらなくて顔を上げることができない。
学生時代、結衣さんはめんどくさい子を好まなかった。だから、もしかしてこういうのはあまり、よく思わないかもしれない。
落ち着かない気持ちを宥めるように両手の指先を絡ませながら言い訳を考えていたら、肩に、熱い手のひらがぐっと押し当てられて――世界が、くるりと反転した。
押し倒された、と気付いたのは、目の前にさらりと長い黒髪が揺れたからで。倒れこんだ背中が当たって、ぎしりと大きくベッドのスプリングが鳴く。
見上げれば、結衣さんは嬉しそうに笑って、私の身体をぎゅうぎゅうに抱きしめた。
「あの、結衣さん……?」
薄い布越しに感じるお風呂上りの少し熱い身体が、ぴったりと密着する。
「……もー、なんで、そんなにかわいいことばっかり言うの?」
「えっ?」
その反応に、どうやら嫌がられていないのだと知ってほっとする。
「……そういうときは、電話してよ。寂しいときは抱きしめてあげるって、約束したでしょ。どこに居たって、必ず会いに来るから」
耳元で、優しい声がして、じんわりと胸が熱くなってくる。そういえば、そんなこと言ってくれたことあったなぁと思い出す。確か、大学一年の春。一緒に暮らしたての頃だった。
「そんなこと言ったら、結衣さん、毎日来る羽目になりますよ? だって、離れてるときはいつも、すごく寂しいから。だから、一緒にいるときは……いっぱい、甘えさせて」
ぎゅっとその背に腕を回す。少し浮き出たその肩甲骨を手のひらでなぞって、縋りつくように、抱きしめた。
「……うん、いいよ。いっぱい甘やかしてあげる」
耳朶に押し当てられた唇に、熱っぽい息が漏れる。甘噛みされて、ぞくぞくと背が震えると、結衣さんのその左手が私の部屋着の中に入り込んできて、そっと脇腹をなぞった。
「ねえ、結衣、さん」
「ん? ……なあに、かなた」
少しだけ上体を起こして私の顔を覗き込む結衣さんのその頬を、手のひらで優しく撫でた。
あなたのことが、好き、大好き。その瞳も、その声も、その指先も。全部全部好き。好きで好きでたまらない。
艶のある黒髪を優しく指で梳いて——不安に揺れそうになる気持ちを落ち着かせながら、問いかけた。
「結衣さんは……その、私に、満足、してくれてますか……?」
結衣さんはきょとんと目を丸めて、「どういう意味?」と首を傾げた。
「だから、その……私、いつも、してもらうだけだから……それで結衣さんは、ちゃんと満足してくれてるのかな、って」
つまらないって、思われたくない。でも、どうしたらいいのかなんて、わからない。何が正解なのかも知らない。あなたが教えてくれることだけが、私にとってのすべてだから。
不安に揺れる私の瞳をじっと見つめて、結衣さんは、ふっと優しく微笑んだ。
「……かなたは、どう? ちゃんと、満足してくれてる?」
「……気持ちいいです、いつも」
ちょっと恥ずかしかったけれど、こくりと頷いて答えれば、結衣さんがふふっと嬉しそうに笑った。
「よかった。それなら私も満足だよ。ね、かなた。もう、待てないんだけど、続きしてもいい?」
本当に、満足してくれているのかな。気を使ってるだけじゃないといいけど。本当はもっと聞いて確かめたかったけれど、これ以上「待て」が出来ないらしい私の愛しの恋人が、熱っぽく私を見下ろしてくる。
まるで、尻尾をぶんぶん振る大型犬みたい。犬っていうか——もはや狼、だけど。
だから私は観念して、結衣さんをじっと見つめ返した。
「あの……あんまり、意地悪しないでくださいね? 結衣さんに意地悪されると、なんか、変な気持ちになるから」
恥じらいがちにそう言えば、結衣さんは一瞬目を見開いた。
それから何かに耐えるように深く息を吸って、ふー、と小さく息を吐いた。
「……かなた。優しくして欲しかったら、あんまり煽らないで、お願い」
「……私、煽ってるつもり、ないです」
思ったことを、言っただけなんだけど。すると結衣さんは苦笑いして、私の首筋に顔を埋めて、ため息をついた。
「自覚ないのって、ほんっと、たち悪いよね……」
結衣さんがそんなことを言うから、私はむっと唇を尖らせる。
「それ、悪口ですか?」
「まさか。かなたが可愛くてたまらない、ってこと」
もう黙って、って、結衣さんは私の唇をふさぐ。熱の籠ったキスを受け止めれば、思考がどろどろに溶かされていくのを感じて——私はきゅっと、目を閉じた。
***
けたたましく鳴る目覚ましの音と共に、目が覚める。半ば無意識に頭上に手を伸ばして、ばしんとそれを叩くと、後ろから伸びてきた白い腕が、私の身体をぎゅうっと抱きしめた。
「んん……」
後ろから少しだけ唸る声がして、意識が、ゆっくりと戻ってくる。首だけで振り向くと、私を抱きしめる結衣さんの、肩が目に入った。腕の中でくるりと体勢を変えて、向き直る。
長いまつげを伏せたまま、まだすやすやと眠る愛しい恋人にふっと笑う。相変わらず憎らしいほど綺麗な顔だ。ずっと、ずっと見ていられる。
狭いシングルベッドで、裸のまま身を寄せ合う。赤く腫れた肩の噛み痕に唇を寄せると、更に強くその腕が私の身体を抱きしめた。
噛んじゃう癖、どうにかならないかなあ。いつも気を付けようと思ってるんだけど、追い詰められると、訳がわからなくなってやってしまう。
結衣さんに、「かなたとするの、痛いからやだ」なんて言われちゃったら悲しい。だから次こそは、ちゃんと我慢しないと。
そんなことを考えていたら、結衣さんの長いまつげが震えて、それから、ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返した。
「ん……おはよう、かなた。起きてたの……?」
「おはようございます。私も、今起きたところです」
「出かけるまで、まだ時間ある……?」
「はい。悠里との約束は、午後からなので」
そう言えば、結衣さんは嬉しそうにふにゃりと笑った。
「じゃあ、もう少しだけ、一緒に寝よ」
こくりと頷いて、温かい腕の中に包まれながら、目を瞑って擦り寄った。規則正しい、寝息が聞こえる。
もう少ししたら、先にベッドから抜け出して、結衣さんのために朝食を作ろう。
土曜と日曜の朝は、あなたの寝顔が見れるから、私はいつも幸せな気持ちになれる。
来月に迫る、結衣さんの二十六歳の誕生日は、四年分の想いを込めて、私に出来る精一杯でお祝いしてあげたい。
大学生の時に交わした約束を、今年こそ叶えてあげられる。
ぎゅうっとその身体を抱きしめて、私もまた眠りに落ちそうになったタイミングで、枕元でスマホが震える音がした。長さ的に、それが着信だと気付く。
悠里かな? 手を伸ばして、手探りでスマホを掴み取って、持ち上げる。
「あ……」
震えていたのは、私のスマホじゃなかった。その画面には、私が一番見たくない名前が表示されていた。
——北上慎二。
心臓がギュッと締め付けられて、痛くなる。全く気付いていないらしい結衣さんに、「電話ですよ」って、声をかけるかどうか迷っている間に、気付けばスマホは静かになっていた。
現実に引き戻される。そうだった。まだ結衣さんは彼と婚約しているわけだから……誕生日、私と一緒に過ごせるかどうかなんて、わからないかも。
スマホをそっと戻して、小さく息を吐く。
春までが、長い。
お父さんはいいにしたって、彼はどう思うのだろう。八年も婚約していた相手を、そう簡単に手放せるものなのだろうか。
結衣さんは、「慎二のことは気にしないで」って言ってたけれど……気にしないでいることは、どうしても難しかった。
結衣さんのことだから、何か、考えあってのことなんだろうけど。
——今の私にできることは、結衣さんを信じることだけだ。
言い聞かせるようにそう心の中で呟いて、その身体を強く強く、抱き締めた。
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