第74話 どういう意味か、わかってる?
険悪な雰囲気を拭い切れないままの、先輩二人と別れたあと。
少し遅れて結衣さんと合流して、電車に揺られて私のアパートの最寄駅へ向かう。
タクシーに乗ろうと言う結衣さんに「電車で帰りましょう」と提案したのは、私だった。
だってタクシーなんてすぐについちゃうし、電車だったら少しだけ長く一緒にいられると思ったからだ。
明日悠里と遊ぶ約束をしているから、今日は自分のアパートに帰ると決めたのは私だ。
それなのに、この期に及んで少しでも長く一緒にいたいと思ってしまう私は、どうしようもないほどに結衣さんに恋をしている。
学生の時みたいにまた、一緒に暮らせたらいいのに。そうは思うけれど、今はまだ、そんなわがままは言えない。
気持ちが通じ合ったとはいえ、大きな問題が残ってる。正直に言えば、北上さんに対して罪悪感が全くないわけでは、ない。
彼が結衣さんのことをどう思っているのかは、私にはわからない。
でも、結衣さんは私に、「絶対に婚約破棄する」と約束してくれた。だから私はその言葉を信じている。
一緒に暮らすのは、全てが終わってから。全部終わったらその時に、私はあの家に帰る。そう、決めていた。
たった数駅で、ついてしまった私のアパートの最寄駅。
もう少し、一緒にいたかった。自分で決めたことなのに、いじけてしまいそうになる気持ちをぐっと堪えて結衣さんを見る。
「……送ってくれて、ありがとうございました」
「駅までじゃなくて、家の前まで送るから」
てっきり駅でお別れかなと思っていたのに、どうやら家の前まで送ってくれるつもりだったらしい結衣さんが、私の手を握ってにっこりと笑う。
「でも、結衣さんが帰るの、大変じゃないですか?」
「タクシーで帰るから平気だよ。それに、夜道を一人で歩くのは危ないでしょ」
愛おしそうに私を見つめる結衣さんを、見つめ返す。
あんまり飲まなかったはずなのに、私、酔ってるのかな。こうして見つめ合うだけで、鼓動が速くなって、心臓がキュンと締め付けられるように苦しくなる。
繋いだ手が熱い。もっと近づきたい。いつもみたいにギュッと抱きしめてほしい。離れたくない。人前でそんなこと、できるわけないのに。最近の私はずっと、そんなことばかり考えてしまう。
「じゃあ……お言葉に甘えて……」
駅を出て、出来るだけゆっくりと歩き出す。秋の夜風が素肌を撫でて、夏はすっかり過ぎ去ったんだなと、しみじみと思った。
季節は目まぐるしいほどの速さで過ぎて行く。でも、来年も、再来年も、こうしてずっと結衣さんと手を繋いで穏やかに過ごすことができるって、今なら心から信じることができる。
別れを選んだあの時は、こんな幸せな未来を描けるなんてこと、想像もしていなかった。
それもこれも全部、結衣さんが私のために努力してくれたからで——今こうして二人手を繋いで寄り添って歩けるのも全部、あなたのおかげ。
行き交う車のライトに照らされるその端正な横顔を見つめて、あぁ、好きだなぁ、と噛み締めるように思った。
家までの道のりを、三ツ矢さんと瀬野さんがまた喧嘩してたとか、明日悠里と一緒に行くつもりの映画の話とか、そんな取り留めのない話をしながら歩いた。
いつだって結衣さんは、私の話をにこにこ笑いながら聞いてくれる。
離れがたくてゆっくりと歩いて帰ったはずなのに、最寄駅まで徒歩五分の駅近のアパートを選んでしまったばっかりに、無情にもすぐに家についてしまう。
アパートの入り口の前につくと、結衣さんが足を止めた。
「かなたのアパート、駅から近いね。もう着いちゃった」
私と同じように、結衣さんも名残惜しいと思ってくれてるのかな。
もう少し一緒にいたい。もう少しだけ。
どうしても繋いだ手を離せなくて、向かい合ったまま両手でその手をきゅっと握ると、そんな私の態度に、結衣さんはふっと優しく笑った。
「……じゃあ、また明日。迎えに行くから、連絡してね」
こくりと頷くと、結衣さんが繋いでない方の指先でそっと私の顎を取って、俯いた顔を持ち上げた。
優しくキスしてくれた後に、結衣さんは私の目を覗き込む。オレンジ色の街灯がその黒い瞳に反射して、キラキラと輝いていた。
「……そんなに寂しそうな顔しないで。帰したくなくなっちゃう」
気持ちを見透かされてると知って、慌ててその手を離す。そんな私に結衣さんは、また嬉しそうに笑った。
「おやすみ、かなた。早く部屋に入りなよ」
そう言って私の頭を撫でた後、結衣さんは私に手を振って、踵を返した。
私も手を振り返したけれど……その後ろ姿に、胸の奥が苦しくなる。やっぱり、もっと一緒にいたい。明日の着替えもメイクセットも、全部持って結衣さんの家に泊まりに行けばよかった。
一人じゃ眠れない。結衣さんと、抱き合いながら眠りたい。
気付けば私の足は勝手に、走り出していた。
「わ、っ」
足音に気付いたらしい結衣さんが振り返る間もなく、後ろから、半ばぶつかるようにその身体に抱き付いた。
「結衣さん……」
背中に額を押し付けながら名前を呼ぶ。すると結衣さんが、ふふっと笑ったのが背中越しの振動で伝わった。
「どうしたの、かなた」
言葉にしなくてもわかって、と言いたいところだけれど——多分結衣さんはもう私の気持ちに気付いてる。気付いてて、その言葉を私に言って欲しくて、そう尋ねてる。
全部わかっているけれど、言葉にするのは少し恥ずかしい。
いつもリードしてくれるはずの彼女は、今日はとても意地悪だ。
ちょっとだけ呼吸を整えたあと、抱きしめる腕に力を込めて、勇気を、出した。
「やっぱり今日……泊まって、行きませんか……?」
思ったよりも弱々しくて、小さな声だった。勇気を振り絞って言ったのに、結衣さんが笑ったから、私は慌てて顔をあげる。
「な、なんで笑うんですか?」
振り返った結衣さんが微笑んで、そっと私の頬を愛おしそうに撫でた。
「恋人を家に誘うって……どういう意味か、わかってる?」
じっと私を見つめる熱っぽい瞳に、急に恥ずかしくなってきて俯く。
「……わかりません、そんなの」
「わかんない? そっか、わかんないかぁ」
結衣さんが言わんとしようとしている言葉の意味を、わからないほど初心ではない。でも、それを認めてしまうのは、すごくすごく恥ずかしい。
「……じゃあ、かなただけに、特別に教えてあげる」
繋いだ手の甲に口付けて、結衣さんが笑う。私は赤くなった顔をごまかすように、結衣さんの手を引いた。
重たいドアを開けて部屋に招き入れると、靴を脱いだと同時にその手が私の腕を掴んだ。
あ、と思った瞬間には、壁に背中を押し付けられて、噛み付くように唇を奪われていた。
甘い結衣さんの香水の香りに、頭がくらくらしてくる。口に軽く親指を差し込まれて、開いた隙間から柔らかい舌が滑り込んでくる。
いつもより強引な結衣さんに、どくどくと心臓が脈打って、止まらない。舌を絡め取られると、途端に呼吸が苦しくなる。
その身体に抱き着こうとして、でも、そうしたらもう結衣さんはやめてくれない気がして……縋り付くようにギュッと、袖を掴む。
こういうことにまだ慣れていない私は、いつも結衣さんにされるがままだ。そっと腰を手のひらが撫でて、そのままゆっくりと身体のラインをなぞっていく。
結衣さんはキスが好きだから、いつもなかなか解放してくれない。角度を変えてはなおも重なる唇に、上手く呼吸ができなくて肩を押そうとする。するといつの間にか私のお気に入りのフレアスカートをたくしあげて、太ももにその左手が這う感触がした。
慌てて、その手を掴んで止める。
「ゆ、結衣さん……!?」
まさかこんなところで身体に触れられるなんて思ってなくて結衣さんを伺い見ると、首筋に唇を押し付けられて、舌先がちろりと肌を舐めた。
「結衣さん、ちょっと待って……!」
「どうして? 誘ったのは、かなたでしょ」
「そんなつもりじゃ……」
「なかった? 本当に?」
くすりと笑って、私の瞳を覗く悪戯なその黒い瞳。断られるなんて一ミリも思っていないような自信満々なその眼差しは、既視感がある。
大学生の頃の結衣さんは、よくこういう表情をした。
たくさんの女性を虜にしてきたその左手の指先がくれる快楽はまるで麻薬のようで、肌を重ねるごとに際限なく気持ち良さは上塗りされていくから、結衣さんとするセックスは、少しだけ、怖かった。
「だってまだ、お風呂も入ってないし……」
「お風呂に入ればいいんだ? いいよ、それなら一緒に入ろ」
逃げ道を与えてくれない彼女は、私を閉じ込めて、にこにこと笑う。
結衣さんを家に招けば絶対にこうなるってこと、本当は私もわかってた。期待してたのか、と聞かれれば、もう自分でもわからない。
大学の頃だって何度か押し倒されたこともあったけれど、あの頃は、いつだって私に逃げ道を用意してくれていたのに。
「……最近の結衣さん、優しくない……」
唇を尖らせて言えば、結衣さんは笑って私の身体をぎゅっと抱きしめた。
「ごめんごめん。だって、すごく可愛くて。嫌なら何もしないから。ね? 一緒にお風呂入ろ?」
そう言われてしまうと、いつも私は困ってしまう。
だって、あなたに触れられること、私は一度だって嫌だと思ったことなんてないんだから。
***
単身用アパートの狭いバスタブに、二人ぎゅうぎゅうになって入る。裸を見られるのが恥ずかしいからと、もこもこと泡立つバスボムを入れて、正解だった。
後ろから抱きしめられると、触れ合うすべすべの肌が気持ち良い。
髪をまとめ上げているせいで無防備なうなじに唇を寄せられて、それが少しだけくすぐったくて、くすくすと笑うと浴室に声が響いた。
「バスタブ、狭くてごめんなさい」
「ううん、こっちの方がいい。かなたとくっつけるし」
結衣さんの家のジェットバスは、このバスタブの軽く倍はある。
狭い家で申し訳ないなと思ったけれど、結衣さんは喜んでいるみたいだから、これはこれでよかったのかもしれない。
また一緒に暮らせたら、毎日こうして一緒にお風呂に入れるかな。後ろにぐーっと体重をかけて、それから顔だけ結衣さんを振り向く。優しく笑った結衣さんは私の頬に唇を寄せて、それから「身体、洗ってあげる」と言って、私の身体に手のひらを滑らせた。
「ここでやらしいこと、するつもりじゃないですよね……?」
念の為に確認するようにそう言えば、結衣さんはぎゅっと私の身体を抱き寄せた。
「大丈夫、何もしないよ」
今まで、そんな台詞は何度も聞いた。でも、そう言って一度だって結衣さんが何もしなかったことなんてない。
「本当ですか……?」
疑いの眼差しで振り返れば、結衣さんは笑って、それから一際甘いその声で、私の耳元で囁いた。
「もちろん。……ちゃんとベッドまで、我慢するよ」
これから起こることを想像させるような悪魔の囁きに、お腹の奥がぞくりと震えた。思考より先に身体が反応してしまったことに驚いて、かあっと頬が熱くなる。
俯いて何も言えなくなってしまった私の肩に結衣さんはそっと口付けて、私の身体を強く強く、抱きしめた。
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