第73話 浮気は良くないよ

 夕方の秋風が心地よく感じる、金曜の夜。都内にある自社ホテル自慢のビアガーデンに、本社のスタッフが一同に集まっていた。


「では、新店舗の大成功を祝して、乾杯!!」


 営業本部長の乾杯の音頭と共に、ジョッキをぶつけ合う音が響く。


「はい、青澤ちゃんも、かんぱーい!」


 嬉しそうに差し出された三ツ矢さんのビールジョッキに、控えめにグラスをぶつける。ビールをごくごくと胃に流して込んでいく三ツ矢さんを眺めながら、優しく「乾杯」と差し出された瀬野さんのジョッキにも、カシャンとレモンサワーのグラスをぶつけた。


 今日は、新店の大成功を祝う飲み会の日。参加自由で、費用はすべて会社持ちなだけあって、かなりの人数が参加していて、参加率は結構高そうに見えた。


 私の所属は今、社長付ということになっているのだけど、今日はこっそり古巣の予算管理課にお邪魔していた。


 結衣さんは、社員を労うためにテーブルひとつひとつを回るつもりらしく、「私と一緒にいると食べる時間なくなるから、予算管理課の子たちと一緒に食べておいで」と私を送り出してくれたから、私はその言葉にありがたく甘えることにした。


 じゅうじゅうと音を立てて焼ける分厚いお肉を、三ツ矢さんがトングでひっくり返す。


 山里マネージャーはお子さんのお迎えがあるから今日は参加できなかったらしくて残念だった。


 金属製の重たい菜箸で輪切りにされたタマネギをグリルの上に乗せつつ、二人を伺い見る。


「三ツ矢さん、瀬野さん。ずっと謝らないとと思っていたんですが、私が抜けたせいでお二人に残業させてしまって、すみませんでした。後任って、まだ決まらないんですね」


 私が抜けてから二人の残業が増えていることは、部署別の経理データをチェックしていたから気付いていた。

 絶対定時帰りがモットーだったはずの瀬野さんが、十八時を過ぎても机に向かっていたところを見たのは一度や二度ではなくて。


 山里マネージャーがいくら仕事ができるスーパーウーマンだからと言って、時短勤務中の身で、こなせる作業量には限界がある。


 二人に負担が行くことについては想像できていたけれど、ここまで後任がすぐに決まらないということは全く想定できていなかった。


 ビールジョッキに口をつけながら、瀬野さんがきょとんと目を丸める。


「どうして青澤さんが謝るの? 私が残業してるのは、青澤さんのせいじゃないよ?」


 そんなふうに言われると思ってなくて、私は思わず、えっ、と声を漏らす。


 すると三ツ矢さんも、焼き鳥の串にがぶりと噛みつきながら、私を見つめた。


「青澤ちゃんのせいじゃないよ。残業してるのは瀬野さんが仕事遅いからだしね」


 矢で射るような鋭い言葉に思わず私は何と言っていいかわからずに苦笑いする。すると瀬野さんは不服そうにその唇を尖らせた。


「そういう言い方ないんじゃないの〜? 私はあなたと違って、丁寧なの」


 そう言われて、瀬野さんの仕事ぶりを思い返す。確かに、瀬野さんのデスクはいつもきちんと整頓されているし、仕事が丁寧で、書類にミスがあったなんてことは一度も聞いたことがない。


 三ツ矢さんとは相性が悪いと思っていたのだけど、単に仕事のスタンスが違うだけで、ぶつかってるだけなのかもしれない。


 三ツ矢さんに軽口を叩いた後に、瀬野さんが私に向き直る。


「後任については山里マネージャーが吟味してるだけみたいだから、気にしなくていいと思うよ〜。教育熱心な人だから、育てる部下は選びたいんだと思う」


 確かに、山里マネージャーって指導上手だったもんな、と思い返す。

 私と一緒に移ってきた三ツ矢さんは、前の会社にいた時から仕事ができる人だった。

 ちょっと一緒に仕事しただけで山里マネージャーは一瞬でそれを見抜いてしまって、教育もそこそこに即戦力として適度に仕事を割り振っていた。


 部下に合わせて教育方針を変えることができる人。私が憧れる山里マネージャーは、そんなイメージだ。


「そんなことよりさぁ」


 コト、とジョッキをテーブルに置いた後、瀬野さんがぐっと私に身体を寄せたから、驚いてたじろいだ。


 ニンマリと目を細めて、それから私の胸元へとじっと視線を注ぐ。


「青澤さん、ついに恋人できた?」


「えっ!?」


 隣に座っていた三ツ矢さんが、素っ頓狂な声を上げる。視線が胸元のネックレスに注がれているのがわかって、思わず視線を泳がせる。


「なになに、青澤ちゃん、ついに彼氏できたの? なんで言ってくれなかったの!?」


「え、えっと、ちょっと待ってください。私まだ恋人ができたなんて一言も……」


「だって、そんなに高価なネックレス、誕生日でもないのにプレゼントしてくれるなんて恋人以外あり得なくない?」


 ぽってりとした唇が弧を描く。うっ、と言葉に詰まる。さすがにこれが結衣さんのネックレスだとはバレていないだろうけれど、さすが瀬野さんはめざとい。


 ピアスに気付かれた時もそうだけど、それがプレゼントであることや高価なものであることをすぐに見抜いてしまうらしい。


「いや、これは……その」


 恋人からのプレゼントです、と言ってもいいのだけど、問題は私がボロを出さずに上手く話を誤魔化せるかどうかだ。


 結衣さんに迷惑をかけたくはないから、この関係は絶対に社内の誰にも言ってはいけない。


「青澤ちゃんって、やっぱりお金持ちに好かれる星の元に生まれてきたのかもね」


 そう言って、三ツ矢さんは焼き上がった分厚いお肉を私のお皿に取り分けてくれる。


 お金持ちに好かれる星ってなんだろう。首を傾げると、瀬野さんが「他にも青澤さんのこと好きなお金持ちがいるの?」なんて三ツ矢さんに聞いた。


 正直言って、結衣さん以外にお金持ちの知り合いなんていないし、心当たりはない。誰のことを言っているんだろうと不思議に思えば、三ツ矢さんがその切れ長の瞳をさらに細めて言った。


「前の会社にいた時から、青澤ちゃんずっと口説かれてたじゃん、新山くんに」


 新山さん——?


 照明を反射するほどワックスで髪をぺたぺたに固めた、三年先輩の男性社員のことを思い出す。私は彼が苦手だったし、興味もなかったから知らなかった。新山さんはお金持ちだったのか。


「新山さんって、制作部の? 彼、お金持ちだったんだ」


 興味深そうに瀬野さんが言うと、三ツ矢さんが、ぴくりと整った片眉を上げた。


「あー……地主の息子なんだって。なに、気になるの? それなら、声かけてくれば。青澤ちゃんは新山くんのこと相手にする気ないみたいだし、お似合いなんじゃない」


「……何、その言い方。人を節操なしみたいに」


「だってあんた、お金持ち好きでしょ」


 三ツ矢さんがなんだか不機嫌そうにそう言って、ジョッキを空にしたから少しだけ不安になる。今まで、三ツ矢さんから恋の話なんて聞いたことなかったけど、この態度にどうも違和感がある。


——もしかして、三ツ矢さん、新山さんのこと好きなの……かな?


 三ツ矢さんに投げやりにかけられた言葉に、瀬野さんが一瞬、傷付いたような顔をした気がした。なんだか雰囲気が悪くなりそうで、私はお肉を一生懸命飲み込んで、それから二人を仲裁しようと口を開く。


 その瞬間だった。


「ほら、噂をすれば」


 三ツ矢さんが箸の先で指した方向に視線を向ける。


「青澤さん、三ツ矢さんと瀬野さんも、お疲れ様」


 ビールジョッキ片手に、片頬を釣り上げるような特徴的な笑みを浮かべた新山さんがそこに立っていた。


「あ、お疲れ様です……」


「ここ、座っていい?」


 良いとも悪いともいう前に、新山さんは私の隣の椅子をひいて腰掛けた。

 こんなタイミングで来るなんて、と思わず苦笑いする。

 だって今、三ツ矢さんと瀬野さんが新山さんの話で揉めそうになっていたところだったのだ。


「はい、乾杯」


 向けられたジョッキにグラスをぶつけて軽く頭を下げる。


「最近青澤さん忙しかったから、あんまり話ができなくて残念だったんだ。いつも社長と一緒にいるからさ」


「そりゃあ、社長秘書なんだから当たり前でしょうよ」


 三ツ矢さんがそう言えば、新山さんが笑う。確か新山さんは三ツ矢さんの一年先輩だったはずなんだけど、敬語を使っていないし、思い返せば、この二人、昔から仲が良かったかも。

 でも——黙々とお肉を頬張る三ツ矢さんは、やっぱり新山さんのことが好きなようにはどうしても見えないんだけどな……。


「青澤さん、すごいよね。俺、びっくりしちゃった。社長秘書の公募、応募者結構多かったって聞いたよ」


 実力でもぎ取ったと言うより、脅して手に入れた椅子なんだけど、そんなこと言えないから笑って誤魔化す。


「ありがとうございます」


 適当に流して話を切り上げよう、そう思っていたところで、三ツ矢さんが、ふうとため息をついて、新山さんに向き直った。


「新山くんさ、いい加減、青澤ちゃんにちょっかいかけるのやめなよ。困ってるから」


 三ツ矢さんは、私を庇うようにそう言ったあと、じろりと視線を瀬野さんに向ける。


「……口説くなら、瀬野さんにしておけば? お似合いだよ」


「えっ」


 飛び火した瞬間、瀬野さんは珍しくあからさまにぐっと眉根を寄せた。


「ちょっと、香織——」


「……煙草吸ってくる」


 そう言って、三ツ矢さんが立ち上がる。ちょっと待って、お願いだから三ツ矢さん。こんな雰囲気のまま私のこと置いていかないで——。

 縋るような私の視線に気づかないまま、テーブルの上に置いていた煙草の箱をポケットに突っ込んで、三ツ矢さんは行ってしまった。


「ちょっと、待ってよ!」


 ガタリと音を立てて、瀬野さんまで三ツ矢さんの背を追って行ってしまった。

 待って、瀬野さんまで私を置いていかないで。新山さんと二人でいるところを、もし結衣さんに見られでもしたら——。


「あいつ、何怒ってんだ?」


 新山さんが首を傾げた瞬間、ぽん、と肩に手を置かれて、驚いて振り返る。

 見上げれば、私のすぐ横に、結衣さんが立っていた。


「し、社長……!?」


 思わず、息が止まるかと思った。にっこりと笑って私の顔を覗き込む結衣さんと目が合った——けれど、全然その目の奥が笑っていない。


「新山さん、お疲れ様」


「お疲れ様です、社長」


「珍しい組み合わせだね。新山さん、どうしてこのテーブルにいるの?」


 さらりと笑顔で結衣さんがそんなことを聞くから、その言葉がちくちくと私の耳に刺さる。テーブルに二人でいることに対して、別に怒ってるわけじゃないと思うし……そんな気なくて聞いているんだと思うけれど、私の肩においたままのその手の熱さに意識が集中してしまう。


「久しぶりに青澤さんとちょっと話がしたくて。前の会社にいた時から、青澤さんとは仲が良くて、よく話してたんですよ。ね?」


 同意を求められて苦笑いする。いや、話してたって言っても世間話だけだし、仲良いわけじゃなかったのに。

 どうしよう、お願いだからもうこれ以上結衣さんの嫉妬心を煽るようなこと言わないで。


 だって、この間の夜は——散々だった。結衣さんっていつもはすっごく優しいのに、スイッチが入ると人が変わったように意地悪になる。

 これ以上、あんな抱かれ方をされ続けたら、自分自身でも知らない変な扉をこじ開けられてしまいそうで、怖かった。思い出すだけで、顔が熱くなってくる。


 嫉妬も全て愛ゆえだとわかっているけれど、あのモードの結衣さんは、経験の浅い私にはちょっと……刺激が、強すぎる。


 困って苦笑いするだけの私の肩を、結衣さんがするりと手のひらで撫でて、口を開いた。


「ふーん、そうなんだ。でも、青澤さん、恋人いるって言ってたよね? 浮気は良くないよ」


「えっ!?」


 ちょっと、結衣さん、なんてこと言うの、と思わず結衣さんを振り返る。


「本当に!? 青澤さん、恋人いたの?」


 食い付くように聞いてくる新山さんに、私は——もう、どうにでもなれと思って苦笑いしたまま頷いた。


「じ、実は……はい、最近、恋人ができたんです」


 そう言えば、新山さんはガックリと肩を落とした。そんな姿を見て、結衣さんはにこにこと満足そうに、笑っていたのだった。






 新山さんがフラフラと席を離れた後、しばらくしてから三ツ矢さんと瀬野さんが帰ってきた。二人とも全く目線を合わせないから、もしかして喧嘩したのかなと勘繰ってしまいそうだった。でもまあ、この二人いつもすぐに仲直りするしなぁ……。

 あんまり気にしない方がいいのかもしれない。「夫婦喧嘩は犬も食わない」っていうしね。


 結衣さんも次のテーブルへと行ってしまって、そろそろお開きの時間が近付いてきたという頃、私のスマホが震えた。



 受信したのは結衣さんからのメッセージで、思わず頬が緩む。


——家まで送って行くから、解散したら駅で待ち合わせしよう。


 いつもは金曜の夜から結衣さんの家に泊まるのだけど、明日私は悠里と遊ぶ約束をしていたから、今日は自分のアパートに帰ると伝えていた。


 家まではたった数駅なのに、結衣さんって本当に優しい。


——駅で、待ってます。


 そう返したあと、グラスに残ったレモンサワーを一気に飲み干して、ポケットにスマホをしまう。


 営業本部長の長い長い締めの挨拶をBGMに、遠巻きから、誰よりも綺麗で輝いている私の恋人を見つめる。


 早く、二人きりになりたいなぁ……なんて、私はずっと、そんなことばかり考えていた。




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