社会人二年目、秋。
第72話 まずは身体に教えてあげる
肌を焼くような厳しい暑さもいつの間にか過ぎ去って、心地よい風が吹き抜けるようになった、秋の日。
週末の休みは、大学時代二人で暮らした結衣さんの家で過ごすことが習慣になりつつある。
穏やかに過ごす、土曜の夕方。夏の間の慌ただしさが嘘のようだった。
大学時代には見慣れていた、キッチンに立つ結衣さんの姿も、四年越しに見ると新鮮に見える。
レタスをちぎりながらお皿に飾る結衣さんを横目で見ながら、私も冷蔵庫からトマトを取り出した。
「ねえ、かなた。たこ焼きって……ご飯いるかな?」
ふと、結衣さんが手を止めてそう言うから、釣られて私も手を止める。
今日は、律さんと悠里と一緒に、たこ焼きパーティーをする約束をしている。発起人は律さんだ。
なんでも、律さんが最初の赴任地である大阪を離れる際に、同僚からたこ焼き器をプレゼントされたんだとか。
「たこ焼きって、主食じゃないんですか? だって、炭水化物だし」
「だよね……じゃあ、サラダだけでいっか。まあ、何か必要だと思ったら、律が買ってくるでしょ」
そう言って、結衣さんは笑う。時計を見ると、そろそろ約束の十八時半になろうとしていた。
私たちが正式に付き合ったことを律さんと悠里に伝えてから、会うのはこれが初めてになる。
大学時代から色々とお世話になった二人に、こんな報告が出来る日が来るなんてとしみじみ思う。
私たちの関係を心から祝福してくれる友人がいるという事は、本当に恵まれたことだと思った。
テーブルにお箸と取り皿を並べながらそんなことを考えていると、後ろから突然結衣さんに抱きつかれて、顔だけで振り返る。結衣さんは、私の頬に唇を寄せて、ぎゅうぎゅうに私を抱きしめた。
「もう、結衣さんってば。律さんたち、来ちゃいますよ」
「うん、だから律たちが来る前に、いっぱいハグさせてよ」
付き合ってからの結衣さんは、まるで大学生の頃に戻ったかのようだった。
再会してすぐの頃は、私に遠慮してか本当にしおらしかったのに。
気持ちが通じ合ってからは、例え会社であったとしても遠慮なんて一切せずに私に触れては、好きを一直線に伝えてくれる。
そうされるたびに私はいつもどきどきして、胸の奥を擽られたような気持ちになる。ありきたりな言葉かもしれないけれど、たぶんこれが「幸せ」って気持ちなんだろうなと噛み締めるように思った。
結衣さんに出会ってから、沢山の感情を知った。苦しいことも、辛いこともあったけれど、それ以上に今感じている幸せが、今までの苦労すべてをいとも簡単に吹き飛ばしてくれた。
腕の中でくるりと体勢を変えて、結衣さんに向き直る。
「じゃあ私も特別に、結衣さんのことぎゅってしてあげます」
せっかくだから私も結衣さんを抱きしめ返そうとしたところで、タイミングよくピンポーン、とインターフォンの音が聞こえた。
「あ、律さんたちだ」
その背に回して抱きしめようとしていた手をぴたりと止めて、そのまま結衣さんの肩を押し返す。するりとその腕の中から抜け出すと、結衣さんは、あっ、と残念そうに眉尻を下げた。
でも仕方ない。ハグはお預け。だって、お客様を待たせるわけにはいかないもん。
「出てきますね」
しゅんと項垂れる結衣さんにそう言って、玄関に向かう。
ドアを開けると、たこ焼き器が入っているのであろう大きな手提げ袋を手に持った律さんと、恐らくお酒がいっぱい入っているのであろうビニール袋を両手に下げた悠里が、二人並んで立っていた。
***
ぽこぽこと落とし穴があいたような専用プレートの上で、じゅうじゅうとたこ焼きが焼ける音がする。律さんが器用に竹串でたこ焼きを転がして行くのを見つめながら、自分は手を出すつもりは一切ないらしい結衣さんはいつものグラスでハイボールをぐびぐびと飲み干していた。
「律さん、すごい。たこ焼き焼くの上手ですね。屋台みたい」
たこ焼きの生地をプレートに流し込んだときは本当に素人があんなまん丸のたこ焼きを焼けるのかな、なんて思っていたけれどそんな心配は杞憂だったようで、くるくる丸めるように竹串で転がせば、みるみるうちにまん丸になってこんがりと焼き色がついてきた。
「三年も大阪に住んでたら、そりゃあね~。何回たこ焼きパーティーやったかわかんないもの。悠里とも、一回遊びに来てくれた時やったわよね」
律さんの隣に座る悠里は、サラダを頬張りながら「そんなこともありましたね」と言った。
二人は、昔私が結衣さんと喧嘩して家出したことがきっかけで知り合い、そこから仲が良くなった。
律さんが就職して大阪に行った後も、悠里はたまに遊びに行っていたみたいで、有名な某テーマパークで撮ったのであろう二人のツーショットが悠里のSNSにアップされていたのを、微かに覚えている。
「よし、そろそろ食べてもいいわよ」
律さんがそう言うのと同時に、結衣さんが竹串をひょいと伸ばした。そして表面がかりかりに焼き上がったたこ焼きを、私のお皿に真っ先に取り分けてくれた。
「はい、かなたの。熱いから気をつけてね」
にこにこ笑って私に差し出してくれるから、ちょっと照れながらも、ありがとうございます、と言うと、律さんと悠里が目線を合わせて、にやにやと笑った。
結衣さんってば、なんでそんなにあからさまに私を優先するんだろう。
向かい側に座る二人が何を考えているのかわかってしまって、ちょっとだけ恥ずかしい。
照れ隠しのようにソースとマヨネーズ、仕上げに鰹節をかけたら、あつあつのたこ焼きを頬張った。
律さんが大阪勤務時代に職場の人から教えて貰ったという、秘伝のたこ焼きの味。口の中にほんのりと広がる出汁の香りに、思わず唸らずに居られなかった。まるでお店のたこ焼きみたいだ。
「かなた、美味しい?」
こくこくと頷くと、結衣さんが、私を見つめて嬉しそうに、「よかった」って笑った。
「ちょっと結衣。それ、私が焼いたんだけど。なんであんたが得意げなのよ。私の功績でしょうが。まず私を褒め称えなさいよ」
律さんが噛み付くように指摘すれば、結衣さんは舌を出して、いたずらに笑う。
「たこ焼き屋さん、私の可愛い彼女のためにおいしいたこ焼きを焼いてくれて、どうもありがとう」
「あーはいはい、ご馳走様。もー、やっと付き合ったと思ったら、めちゃくちゃノロケて来るじゃないの。……二人とも、いつもこんなずっとイチャイチャしてるわけ? 甘ったるくて、胸焼けしそうなんだけど」
たこ焼き屋さん呼ばわりされた律さんが、自分で焼いたたこ焼きを頬張りながらそう言う。イチャイチャ、というか、私からすれば結衣さんはこれが通常運転なんだけど、律さんの態度を見ていると、どうやら普段の結衣さんはそうでもないらしい。
「一ノ瀬先輩って……こういう感じだったんですね。そりゃ鉄壁のかなたも落ちるわけだ」
持参したビールを飲みながら、悠里がそんなことを言う。私が結衣さんのことをずっと好きだったと知っているとは言え、なんか、友達の悠里にこういう姿を見られるのは、ちょっと照れるかもしれない。
「“一ノ瀬先輩”じゃなくて、結衣でいいよ? 悠里ちゃんは、かなたと律の友達なんだし、気を使わなくていいよ」
二人が見ているとか、全く気にしていないらしい結衣さんは、そんなことを言って続いてたこ焼きを頬張った。
「じゃあ、かなたの親友として、私からのお願いなんですけど、いいですか?」
悠里の突然の申し出に、きょとんとした結衣さんは手を止める。悠里は、何かを決心したように一度大きく息を吸って、それから結衣さんに向き直った。
「次は絶対に、かなたを泣かせないでくださいね。あなたと離れてる間のかなたは、本当に、辛い思いをしてたんです。早く忘れさせてあげたくて、合コンとか連れ回したりしたんですけど、結局かなたは、ずっとあなたのことが好きで、忘れられなかったんですから」
「……合コン……?」
ぴくり、と結衣さんの眉が密かに寄ったのを、私は見逃さなかった。
「あ、あの悠里、私のことはもういいよ?」
やばい。これ以上変なことを言われる前に悠里を止めないと。そう思ったけれど、お酒の力も相まって、瞳の奥にめらめらと炎を宿す悠里は、私の制止なんてお構いなしにまくし立てた。
「かなたって、本当はすっごくモテるんですよ。羨ましいって思うくらいのイイ男に口説かれたことだって一度や二度じゃないんです。それでもかなたは、あなたのことを一途に、ずっとずっと思ってたんです。先輩が、かなたのことを大事にしているのはわかってます。でも、もしも次かなたを泣かせるような真似をしたら、私、絶対に許しませんからね」
ど、どうしよう。思わず助けを求めるように、律さんを見る。ばっちりと私と視線が合った律さんは、にんまりと、面白そうにその瞳を細めた。
この律さんの表情には、見覚えがある。大抵結衣さんをからかって、面白がっているときのいたずらっ子の瞳だ。悠里を止めるつもりは——なさそうだった。
「うん……心配してくれて、ありがとう。でも、大丈夫。もうかなたのこと、絶対に泣かせたりしないよ。約束する」
そう言って、テーブルの下で、結衣さんが私の手をギュッと強く握る。内心、ほっと胸をなで下ろした。
悠里は満足そうに頷いて、「かなたのこと、頼みましたよ。絶対に幸せにしてあげてくださいね」なんて言ってまた、たこ焼きを一口に頬張った。
普段はあまり口には出さないけど、悠里って私のことすごく大事に思ってくれてるんだなって実感して、正直嬉しかった。
今まで悠里は何も聞かずに、決して結衣さんを悪く言うこともなく、ただただ寄り添ってくれたからこそ、私はこの気持ちを大切に四年間守ることができた。
だから、今私が手に入れたこの幸せは――側にいてくれた、悠里のお陰でもある。そう思った。
「じゃあ、新婚さんの邪魔しちゃ悪いし、そろそろ私たちは帰るとしますか。今日はありがとねぇ」
お腹いっぱいにたこ焼きを食べた後、懐かしい思い出話に花を咲かせていたら、あっという間に楽しい時間は過ぎていった。
律さんが、たこ焼き器を小脇に抱えて立ち上がる。今日のたこ焼き、美味しかったな。またおうちでやりたいかも。私もたこ焼き器買おうかな。
そう思いながら、二人を玄関まで見送る。
「あ、そうだ。大事なこと言うの忘れてた」
靴を履いて外に出ると、何かを思い出したように律さんが私たちを振り返って、それから白い歯を見せて、にかっと屈託なく笑った。
「結衣も、かなたちゃんも、本当におめでとう。これから先も、色々あるかもしれないけど……きっともう大丈夫ね」
心の底から嬉しそうに目尻を下げて、律さんはそう言った。じんわりと胸の奥が熱くなる。私たちの関係を、理解してくれる人たちがいる。それだけで、私は幸せ者だと思った。
「じゃ、末永くお幸せに~!」
そう言って、手を振って歩き出した律さんの背中に、結衣さんが、律、とその名前を呼んで引き留めた。
目を丸めて振り返った律さんに、結衣さんは、
「ありがとう。本当に感謝してる。律のおかげだよ」
照れることなく、そう言った。
***
律さんたちを見送って、二人きりになったリビングに、食洗機とドライヤーの音が響いている。お風呂に入った後、結衣さんに髪を乾かして貰いながら、私は今日のことを思い返していた。
悠里から「合コン」というワードが飛び出してきたとき、結衣さんはちょっと反応が悪かったような気がしてたんだけど、二人が帰ってからもその話をぶり返されることがなかったから、私は少しだけ安心していた。
詰められるかもしれないと思っていたから、ちょっと拍子抜けだった。
合コンに行ったことは確かだけど過ぎたことだし、結衣さんはもともとさっぱりしてるから、恋人同士になった今、過去の事はそんなに気にしていないのかも。
ドライヤーを止めると、結衣さんの手が私の髪を撫でて、軽く纏めた。これは、結衣さんの、「終わったよ」の合図。
「ありがとうございます」
そう言うと、うん、と頷いて、結衣さんはドライヤーのコードを器用にくるくると纏めた。時計を見れば、そろそろ十二時になりそうだ。はしゃぎすぎたせいか、ちょっとだけ眠い。
結衣さんはまだお風呂に入っていないし、リビングで待ってたらソファで寝ちゃうかも。先にベッドで寝ちゃおうかな。そう思って立ち上がろうとした瞬間、熱い手のひらが、私の手をぐっと握って止めた。
そこで、気付いた。そういえば――結衣さん、いつもだったら一緒にお風呂入ろうって言ってくるはずなのに、今日はすんなりと私をお風呂に行かせてくれた。
それに、律さんたちが帰ってから一度も、私のこと抱きしめたり、キスしたり、して来てない。
はっとして、その瞳を見つめると、熱の籠もった視線に思わず息を飲んだ。直感でわかった。あ、これ、結構やばいやつだ。瞳の奥に、さっきまでなりを潜めていたはずの、嫉妬の炎が揺れている。
「……結衣さん、あの、私、先に寝てますね」
最近はずっと結衣さんのベッドで寝ていたけれど、確か、まだ私のベッドは処分されずに私が使っていた部屋に残っていたはずだ。
慌てて、大学時代に使っていた私の部屋に逃げようとするも、その手は、私を離してくれない。困ったように結衣さんを見ると、結衣さんはにっこりと微笑んだ。
「どうしたの、かなた。そっち、私の部屋じゃないよ?」
背中に、嫌な汗が伝う。どうしよう。思わず視線を彷徨わせる。
「それは……その、たまには、自分のベッドで寝ようかな、なんて」
「だめ」
ぴしゃりと言われる。その瞳に見つめられただけで、私は心臓を掴まれたような気持ちになる。胸のあたりをぎゅっと握りしめると、結衣さんは、ふう、と小さく息を吐いた。
「……早川くんもだし、歓迎会の時の新山さんもだけど、かなたって本当にモテるんだね。いつも男の人に口説かれてる。可愛いから、口説きたくなる気持ちはわかるし、仕方ないんだけど」
あ、懐かしい名前を聞いた。早川くんのことまで覚えているんだと、ちょっとだけ感慨深い気持ちになる。
「でも私、口説かれたところで応えたことないですよ……? それに、そんなこと言うなら結衣さんの方が、私なんかよりずっとずっとモテてたくせに、忘れちゃったんですか?」
大学時代のあなたの素行の悪さを、忘れたとは言わせない。唇を尖らせて言えば、結衣さんは苦笑いして、それから立ち上がった。
ごまかすように、私の身体をギュッと強く抱きしめる。
「ねえ、かなた」
「……なんですか?」
「かなたが可愛いから、他の誰かに取られちゃったらどうしようってすごく不安になる」
「そんなの、ありえないです……」
私が結衣さん以外の人を好きになるなんて絶対にない、と言いかけて、やめる。流石にそんなにストレートに愛を伝えるのはちょっと気恥ずかしかった。
ぐりぐりと、拗ねたように首筋に擦り寄ってくる結衣さんの背中を優しく撫でる。
こんなに好きなのに、どうしたら伝わるのかな。どうしたらわかってもらえるのかな。
「だからね、かなたのこと……ちゃんと捕まえておかないと、って思って」
そっと身体を離して、結衣さんが私の瞳を覗き込む。
愛おしそうに私を見つめるその、夜の海みたいな深い黒の瞳を見つめ返せば——結衣さんはにっこりと笑った。
「かなたには私じゃなきゃだめだって……まずは身体に教えてあげる」
「えっ」
結衣さん、今、なんて——?
聞き返すより先に、私の腰を抱いて捕まえた結衣さんは、流れるようにソファに私を押し倒して、それから——まるで悪魔のように、微笑んだ。
もしかして結衣さんって、私が思っていたよりも、ずっとずっと独占欲強いのかも——。
恋人になってから知った結衣さんの知られざる一面に驚きながらも、それほどに愛されるのも幸せだと思うなんて、私もきっと浮かれている。
秋は、結衣さんの誕生日がある。あの日交わした約束をやっと、四年越しに果たすことができる。
きっと、素敵な季節になる。熱の籠った優しいキスを受け止めながら、そんなことを、思っていた。
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