第71話 次は、指輪を買ってあげる
目の前に、揺れるダイヤのネックレス。薄ぼんやりと室内を照らすオレンジのルームランプと、二人分の体重に、軋むマットレスの音。
気付いた時には、ベッドに押し倒されていた。
呆然と、私にのしかかる結衣さんのその黒い瞳を見つめる。こぼれ落ちたさらさらの長い黒髪が、私の首筋をくすぐった。
「あ、の、結衣さん……?」
心臓が、内側から私の胸を叩いているんじゃないかと思うほどに、驚いて強く脈打つ鼓動。全身の血が沸騰しているかのように、全身が熱くなる。
見上げた彼女は薄く笑って、優しく私の頬を撫でた。
「なあに、かなた」
「なに、してるんですか……?」
野暮なことを聞いてると言うことぐらいわかっている。彼女が私に何をしようとしているのか、わからないほど初心じゃない。
それでも驚かずにはいられなかった。だって、あまりにも唐突だったから。
想いを伝えあったあの後、プライベートビーチから二人手を繋いで部屋に戻った。
晴れて結衣さんの彼女になれたことが嬉しくてたまらなくて、私は浮かれていたんだと思う。
自分のベッドに座って、「やっぱりダブルにすればよかったですね」なんて言ったら、そっと肩に触れた結衣さんの手が、あっさりと私の身体を押し倒したのだ。
正直言って、想定外だった。結衣さんが手の早い人だってことは、もちろん知っていたけれど。
「……やだ?」
優しい瞳が、私の瞳を覗き込む。暖かい手のひらが、そっとTシャツを捲り上げて脇腹に触れるから、慌ててその悪戯な手を掴んで止めた。
「な、何もしないんじゃ、なかったんですか?」
「かなた次第、とも言ったよね」
にっこりと微笑んで、そんなことを言う結衣さんに、動揺して私は視線を泳がせる。
ダブルにすればよかった、って言ったのは、一緒に寝たかったって意味で、決して、そういう意味で誘ったわけじゃない。
心の準備なんてできていなかった。結衣さんと離れて、もう何年もそういうことをしていないわけだし……もともとセックスが得意ではないこともあって、緊張で身体がこわばってしまう。
すりすりと私の頬を愛おしそうに撫でながら私を見下ろす結衣さんの瞳は、私の返事をただじっと待っていた。とくとくと高鳴る鼓動。呼吸するたびに、胸が上下に動くから、緊張が伝わってしまいそうで恥ずかしくなる。
「……結衣さん」
手を伸ばして、そのすべすべの頬に手のひらで触れた。
正直に言えば、少し迷っていた。私たちがお互いを想い合っていることは事実だけれど、それ以前に結衣さんには婚約者がいて、この関係は——世間一般からしたら、決して褒められたものではない。
このままあなたのものにしてほしいと思う気持ちと、身体の関係を持つことで倫理的には許されざる関係に進むことへの罪悪感がせめぎ合う。
大学生の時、結衣さんに婚約者がいると知った上で身体の関係を持ったことも一度だけあったけれど、それはこれが最後だからと思ったからで……今は、違う。
想い合っているだけなら、身体の関係さえ持たなければ、例え結衣さんに婚約者がいたとしても法律に縛られることはない。
ごちゃ混ぜになった感情を隠さずに、結衣さんを見つめると、私の迷いに気付いたのか結衣さんは優しく微笑んだ。
「……慎二とのこと、気にしてる?」
「……ちょっとだけ」
「不安にさせて、ごめんね。大丈夫。かなたは何も心配しなくていいよ。……責任は、全部私が取るから」
そう言われて、左右に首を振る。結衣さんだけに、背負わせるわけにはいかない。
絶対に一緒になると決めた以上、私はどこまでだってあなたについていく。この関係が罪だと言うのなら、罰を受ける時だって、一緒だ。
世間にどう思われたっていい。後ろ指さされたって構わない。
結衣さんと一緒にいたい。心も身体も繋がりたい。春までなんて——私だってもう、待てない。
「……抱いても、いい?」
優しく問われて、私は、こくりと頷いた。嬉しそうに、結衣さんが微笑む。降ってくる優しい唇を受け入れるように、その首に腕を回して引き寄せた。
どうしよう、すごくドキドキ、する。角度を変えて唇を擦り合わせるたびに、お腹の奥が、じくじくと熱を持つのがわかった。
柔らかくて、弾力のある唇が気持ちいい。香水の匂いがしない、お風呂上がりの結衣さんの匂い。キスを繰り返すたびに、どんどん頭の奥が痺れていくのがわかった。
そっとその左手の手のひらが、脇腹から腰骨をなぞって、ショートパンツから覗く太腿を撫で上げる。
ぞわりと背筋が震えた瞬間、違和感に気付いた。
そう言えば、結衣さんって、今は爪、長かったはずじゃ……。
太腿を撫でていたその手首を掴んで、引っ張る。それに気付いた結衣さんが、私が制止したと思ったのかぴたりと手を止めて、ゆっくりと触れ合わせていた唇を離した。
引っ張り上げたその左手を眼前に持ってきて、まじまじと見る。薄いピンクが乗った中指と薬指を、指先で確かめるようになぞる。
その指先は、まるで大学生の頃のように、つるりと丸く整えられていた。
手を握った時、感じた違和感は——これだったのか。じとりと、結衣さんのその黒い瞳を見つめる。
「……結衣さん、もしかして、最初からこうするつもりだったんですか?」
指摘すると、結衣さんは悪戯がバレた子供みたいに無邪気に笑って、ぺろりと舌を出した。
「バレた?」
悪びれる素振りもなく笑う結衣さんに、思わず肩の力が抜ける。
そうだった、結衣さんって、昔からこういう人だった。いつだって私の二手三手先を読む、用意周到でずるいひと。
「……結衣さんの、すけべ」
照れ隠しにそう言えば、結衣さんは私の手をぎゅっと繋いで、それからベッドに押し付けた。
「そんなの、今更じゃん? 覚悟してねって、言ったでしょ。私がこういう性格だって知ってるくせに、部屋を分けなかった、かなたが悪い」
そう言って結衣さんは笑う。でも、もしかして私も心のどこかで、こうなることを期待していたのかもしれない。
今回は、降参。私の負け。結衣さん相手に悪あがきしたって無駄だもん。この人は、私よりずっとずっと上手なんだから。
だから今日はもう、大人しく、あなたに愛されてしまおう。
観念してきゅっと繋いでない方の手で抱き寄せれば、結衣さんは嬉しそうに微笑んだ。
***
室内はエアコンが効いているはずなのに、身体中が熱くて、たまらない。
その背に腕を回して縋り付く。こういうことするのはすごく久しぶりだったから、少し不安だったけど……杞憂だったようだ。身体って、すごく正直みたい。
優しいけど容赦のない、その中指と薬指から、逃げたくても逃げられない。呼吸が浅く、速くなって、身体の芯が甘く痺れるような気持ちよさに、唇から甘えるような声が勝手に溢れていく。
——セックスって、こんなに気持ちよかったんだっけ……。
もう何も考えられない。何度もキスを繰り返されて、苦しくて、でも気持ちよくて、視界がちかちかしてくる。
「ゆ、い、さん……」
勝手に漏れる声の合間に、たどたどしく何度も何度も名前を呼べば、熱を帯びたその黒い瞳が優しく細められる。
「……気持ちいい?」
優しく問いかける声に、こくこくと頷いた。
心も身体も全部、結衣さんでいっぱいになる。幸せすぎて、おかしくなりそう。
私を見下ろす強い視線に、胸が苦しくなる。ぞくぞくと身体中が震えるほど気持ちがよくて、揺さぶられるたびに、意思に反して勝手に甘えた声が出るのを止められない。
私の全部、結衣さんに見られてる。そう思ったら、恥ずかしくなって、顔を背けた。
身体があつい。あつくてあつくて、たまらない。限界は、もうすぐそこだった。
「かなた、こっち向いてよ。顔、ちゃんと見せて」
名前を呼ばれて、その右手がそっと私の頬を撫でる。生理的に溢れ出す涙で、視界がじわじわと滲んで行く。
「結衣、さん、わたし、も、もう……」
息も絶え絶えに、震える指でギュッと結衣さんのTシャツを掴んで限界だと告げる。
感覚に慣れてなくて怖いから、安心するように抱きしめてほしくて手を伸ばせば、結衣さんはふっと笑って、私の濡れた瞳を真っ直ぐに見つめた。
「んー……もうちょっと、我慢できる?」
「え、っ……?」
そんなことを言われるなんて思っていなくて、驚いて結衣さんを見る。すると結衣さんは、意地悪くにっこりと笑った。
「む、むりです、結衣さん、わたし、もう、むり……」
我慢して、というくせに、その指は全くと言っていいほど容赦がない。
押し寄せてくる限界の波に攫われてしまいそうでこわい。届きそうで届かない、行ったり来たりするようなもどかしい感覚になんとか堪えようと唇を噛む。
「ね、かなた。ずっと気になってたんだけど、聞いてもいい? ……私と離れている間、他の人に抱かれたり、した?」
「なんで、いま、そんなこと……」
「……今だから、聞いてるの。教えてよ、かなた。こんなに可愛い顔、私の他に、誰にも見せてないよね?」
私を見下ろすその瞳の奥に、嫉妬の炎がギラギラと燃え上がっているのがわかって——胸の奥がきゅうっと締め付けられた。
必死に左右に首を振る。そんなわけないじゃないですか。だって、私はずっとあなただけが好きだった。
私が抱かれたいと思うのは、世界でただ一人、あなただけなのに。
「だ、だれにも、抱かれてなんか、ない、です。私には、結衣さん、だけだから……おねがい、もう、意地悪、しないでください……」
息も絶え絶えに、そう伝える。すると、結衣さんは心底安心したように笑って、それから——ギュッと私を右腕で強く抱きしめた。
私も、その首に腕を回して、強く強く引き寄せる。もう無理、だめ、身体中がびくびくと跳ねる。これ以上はもう、我慢なんてできない。
「……よかった。意地悪して、ごめんね。……もう、いいよ」
いいよ、って。その言葉と同時に身体の奥深くを押し上げられる感覚がして、思わず声を上げた。
途端に襲ってきた「限界」に、急にこわくなる。
「待って」と伝えるより先に、呆気なく限界まで押し上げられてしまった私はたまらずに——Tシャツから覗くその白い肩に、思い切り、歯を立てていた。
***
「かなた。ねぇ、かなたってば。お願いだから機嫌直して。こっち向いてよ」
後ろから、ぎゅうぎゅうと私を抱きしめる結衣さんに、ぷいっと顔を背ける。
さっきから私の機嫌を直そうと必死な結衣さんは、私の肩やむくれた頬に何度も唇を落としては、「ごめんね」を繰り返していた。
「だって……結衣さん、すっごく意地悪でした」
「もう意地悪しないから。ね?」
必死に謝る結衣さんに、じろりと視線を向けつつ振り向いた。
たくさん意地悪されたぶん、まだまだ文句を言ってやろうと思っていたけれど、その肩についた赤く腫れた噛み痕に気が付いて、思わずきゅっと口を噤んだ。
完全に無意識だったけど——どうやら私はまた、やってしまったらしい。
「ごめんね、かなた。どうしたら許してくれる?」
しゅんとして私の顔を覗き込む結衣さんの、真っ白な胸元に揺れるネックレスに視線を奪われた。指先で、そっとそのチェーンを引く。
「……これ、わたしの、ですよね。返してくれたら、許してあげます」
そう言えば、結衣さんは一瞬目を丸めて、それからくすりと笑った。
「突き返してきたのは誰だっけ?」
「……結衣さんに、貸していただけです」
貸していた、なんて嘘だ。別れを選んだあの日、私の想いをありったけ込めて、あなたのその胸に返したこと、忘れるわけがない。
「そうだっけ? それなら、かなたに返さなきゃね」
結衣さんは何のためらいもなく首の後ろに手を回して、ネックレスを外す。
それからにっこりと笑って、私の首にネックレスを通してくれた。
そっと、胸元に押し当てられた結衣さんの手のひらの熱を感じる。
「これは……かなたのものだよ」
じんわりと、胸の奥が熱くなる。これでやっと全部、元通りになった。失われた四年間は大きかったし、たくさん遠回りもしたけれど、私はこうしてまたあなたの腕の中に戻ってきた。
「もう、絶対に返しませんからね」
そう言えば、結衣さんは嬉しそうに笑ったあと、私の左手を取って、薬指に口付けた。
「……次は、指輪を買ってあげる」
指輪——? 思わせぶりな発言に、どきりと心臓が跳ねる。
「それ、どういう意味ですか……?」
「そのままの意味」
そのままの、って……そういう、こと? これ以上深く聞くのもなんだか照れ臭くて、赤くなった顔を見られないようにギュッとその胸元に抱きついた。
シングルサイズの狭いベッドが、ぎしりと唸る。
「二人で寝ると……さすがに狭いですね」
「だから、ダブルでいいよって言ったのに」
私の腰をしっかりと抱き寄せて、結衣さんがくすくすと笑う。ピッタリと身体がくっつくと、安心感からとろとろと眠気がやってきた。
眠るのもったいないなぁ。ずっとずっと、こうしていたい。
「帰りたくないなぁ……。ずっと、一緒にいたいです」
本音がポロリとこぼれ落ちる。明日東京に帰ったら、別々の家に帰らなきゃいけないなんて。あなたの体温がないと、もう一人で満足に眠れる気がしない。
「また、一緒に暮らそうよ」
「ふふ……住所で……会社に、ばれちゃいますよ……?」
「じゃあ、週末だけでも泊まりに来て。それでまた、昔みたいに一緒に映画観ようよ」
「ん……それ、いいですね、また……一緒に……」
これ以上ないくらいの幸せに包まれているせいか、眠気に逆らえずにどんどん意識が遠のいていく。
そんな私に気付いたのか、結衣さんはそっと私の背を優しく撫でてくれた。
「……もう眠っていいよ。おやすみ、かなた」
私の名前を呼ぶ、大好きな優しい声が聞こえて——おやすみなさいって返すこともできないまま、気付いた時には、深い眠りに落ちていた。
初めての沖縄、初めての出張で、夏の終わりに一生忘れられない思い出と、愛しい愛しい恋人ができた。
もう二度と、離れたりしない。この心臓が止まるまで、私はあなたのそばにいる。
これからどんな苦難があろうとも、結衣さんと一緒ならきっと、乗り越えていける。
そんな気持ちになれた、二十四歳の、夏だった。
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