第70話 夜の海に似てる
「結衣さん、はやくはやく!」
駐車場に車を停めてから、逸る気持ちを抑え切れずに私は結衣さんの手を引いて歩き出す。
「そんなに慌てなくてもジンベエザメは逃げないよ」
自然と早歩きになってしまう私の手に指を絡ませて、結衣さんはそんな子供みたいにはしゃぐ私を笑った。
公園を抜けると、巨大なジンベエザメのモニュメントが目に飛び込んできた。思わず駆け寄って、見上げる。
「これ、実物大なんですかね……」
「さあ、どうだろう。私も見たことないからなぁ」
下から見上げてみると、まるで青空の中を泳いでいるみたい。この先に、本当にジンベエザメがいるんだ。そう思ったら、自然と笑顔になる。
「結衣さん、中入りましょう。大水槽、楽しみですね」
「うん、そうだね」
エスカレーターを登って、三階にある施設入り口へ向かう。この水族館の順路は、一階から回るのではなく上の階から下の階へと続いていて、まるで深く海に潜っていくかのような構造になっているらしい。
昨日の夜、眠りにつくまで公式サイトを隅から隅まで読み込んだから、館内マップは頭の中に入ってる。
すいすいと迷うことなく進む私に結衣さんは、「そんなに楽しみにしてくれたんだね」なんて言って、嬉しそうに笑った。
子供の頃から、父の転勤のたびにその土地にある水族館には必ず足を運んだ。北は東北、南は九州まで、色んなところに住んだお陰で、多分普通の人よりは沢山の水族館を知っている、と思う。
水族館の醍醐味は——その土地ならではの海を再現しているところにある。
例えばここだったらそう、今目の前にある大きな珊瑚礁の水槽とか。
「かなたは、いつから水族館好きになったの?」
何気なくそう問われて、幼い頃の記憶を辿る。
「小学生ぐらいのときですかね。母の実家が鎌倉にあるんですけど……夏休みになると、祖父によく連れて行ってもらってたんですよね、えのすい。電車に乗って、それからちょっとだけ歩くんですけど」
潮の匂いが混じった風が頬を撫でる感触と、蝉の声。祖母が持たせてくれたカルピスの味。簡単に思い出せる。
鳶が空をくるくると旋回して飛んでいて、いつもそれを気にしながら、祖父の手に引かれ歩いたあの道。
日本で過ごした、大切な夏の思い出。
転勤が多く地元という地元がない私にとって、夏になると決まって帰る母の地元、あの街並みが大好きだった。
「えのすい、って?」
「江の島にある水族館です。夏休みにいつも連れて行って貰ってたから、夏になると水族館に行きたくなるのはそのせいかも」
「そうなんだ。江の島かぁ、行ったことないなぁ」
「それなら……来年は私が結衣さんを、連れて行ってあげますね」
そう笑って結衣さんの瞳を覗き込む。あの街なら、私は目を瞑っていたって歩ける。
来年は——出来れば恋人として、気兼ねなくあなたと手を繋いで歩きたい。
そんな日が来ることを、今なら、私は心から信じることができる。
水槽ひとつひとつを真剣に見つめる私を急かすこともせず、夜の海みたいな凪いだ穏やかな瞳はずっと、優しく私を見つめていた。
この先に、ジンベエザメとナンヨウマンタが優雅に泳ぐ圧巻の大水槽がある。この水族館の、一番の目玉だ。
ずっと、見てみたいと思っていた。通路を抜けた先、視界に飛び込んできた特大の海に、感嘆の息が漏れた。
「すごい……」
夏の期間だからか、平日でも決して人が少ないわけではない。人にぶつからないようにスロープをゆっくりと下って、水槽のアクリルパネルの正面まで歩み寄った。
水槽の前でジンベエザメを見上げていた子供達が、はしゃぎながら父親の元へ駆けていく。
「夏休みだから、家族連れが多いんですね。いいなぁ、こういう夏休み。家族旅行で沖縄なんて、素敵ですね」
そんなことを言いながら、目の前に誰もいなくなった水槽に歩み寄って、そっとその表面に触れた。
分厚いアクリルパネルの向こうに、憧れた海がある。
規則性のある独特の模様を持つその巨大な体躯は水槽の向かい側を泳いでいて——もう少し待てばこちらに来るだろう。
「……かなたは、いつか、子供欲しいと思う?」
「え?」
唐突にそんなことを聞かれて、隣の結衣さんを見た。水槽から差し込む光にその白い頬が青く照らされている。
子供が欲しいか? どうしてそんなことを。さっきの、幸せそうな家族連れを見て思ったのだろうか。
結衣さんは、こちらを向くこともなく、水槽を眺めたままだった。だから私も、そっと向こう側のジンベエザメに視線を戻す。
「そういうの……あんまり考えたこと、ないです」
「じゃあ、考えてみて、今」
繋いだ手に力が篭ったのがわかった。芯のある声が真っ直ぐに、私の胸を射抜く。
そんなことを聞くなんて珍しい。それに、質問の答えを急かされたことも初めてだった。
頭上を通り過ぎていったナンヨウマンタを見送りながら、真剣に、考えてみる。
いつか私も、自分の子供を抱いてみたいと思う日がくるだろうか。もし、そんな未来があるとするなら、きっと幸せだと思う。
我が子を育てる生活は、大変かもしれないけど、充実した毎日になるだろう。
でも、きっとそこに結衣さんはいない。こんな私を世界で一番大切に想ってくれるあなたは、いない。
結衣さんじゃない、別の誰かと描く未来と可能性。この人を手放してまでそれが欲しいとは——どうしても、思えなかった。
「……子供の有無は、重要じゃないです。好きな人と一緒になれるなら」
自分の子供はいい。いらない。あなたの子供を見てみたいと、思わないわけではないけれど。でもそれは私とあなたの子供だったら、という話だ。そんなこと、現実にはあり得ないし、これはただの空想でしかない。
「結衣さんは……子供、欲しいですか?」
「それ、私に聞く?」
そう言って結衣さんは笑った。同性愛者の彼女が愛するのは女性だけかもしれないけれど、だからと言って子供が欲しいと思うかどうかは別の話なんじゃないかなと思った。だから聞いた。どう思っているのかをちゃんと、知りたかったから。別に男性とそういうことができなくても、その願いを叶える手段なんてきっといくらでもあるから。
「どうなんですか……?」
恐る恐る返事を待つと、やっと、優しい瞳と目が合った。
「自分の子供が欲しいとは思わないけど……かなたの子供なら、見てみたい気もする。絶対に可愛いと思うから」
私の瞳の奥に、まだ見ぬ私の子供を想像していると知って、ムッとする。
あなたが「可愛い」と思うのは私だけであって欲しい。そう思うのは、わがままだろうか。
「……私は、好きな人に一番に想ってもらえるなら、それだけで満足です。子供は、いらない」
はっきりとそう言い切ったとき、頭上に影が落ちる。慌てて見上げれば、待ちに待ったジンベエザメがすぐ真上を通過しようとしていた。
あまりの大きさに、言葉も忘れていた。下から見上げると、まるで空を飛んでいるみたい。
そんな私を現実に引き戻すかのように、繋いだ手が強く握りしめられた。
「……かなた」
名前を呼ばれて、隣を見る。結衣さんは、ジンベエザメを見上げたまま、私に「ありがとう」と小さく呟いた。
どうして「ありがとう」なんだろう。そう思ったけれど……私はもうそれ以上、聞かなかった。
***
たっぷり時間をかけて水族館を見て回ったあと、結衣さんに買ってもらったジンベエザメのぬいぐるみを膝に抱きながら、私たちはホテルへと戻った。
競合調査の意味合いも兼ねているから、夕飯はホテルの豪華ディナーを頂いた。お腹も心もいっぱいになったところで、今日のお仕事は……と言っていいのかどうかはわからないけれど、とりあえずはおしまい。二人揃って、部屋に戻った。
予約していたのは今日もツインルームで、私と結衣さんのベッドは当たり前だけど、離れている。
豪華で広い部屋はありがたいけれど、この微妙な距離感をもどかしく思った。
やっぱり結衣さんの言うことを聞いて、素直にダブルにすればよかった。なんて、昨日と同じことを思う。
ベッドとベッドの距離がやけに広く感じる。
部屋に帰るなり、結衣さんはお風呂にお湯を溜めてくれて、「先に入っていいよ」って、当たり前みたいに私に譲ってくれた。
ありがたくお風呂を先に頂いたあと、部屋着のTシャツとショートパンツに着替えて、浴室を出る。
昨日も思ったけど、同じ部屋に結衣さんがいると、ちょっとだけ緊張する。
「お風呂、ありがとうございました」
「ん、じゃあ私も入ろうかな」
そんな私の気持ちも知らずに、結衣さんは着替えを準備して、平然と浴室へと消えていく。
何もしないって、確かに結衣さんは言っていたけれど……本当に、何もしてこないとなんだかそれはそれで調子が狂う。
ずっとドキドキしているのは……もしかして私だけなのかな。
カーテンを開けてベランダに出ると、オレンジ色にライトアップされたプライベートビーチが見えた。
そういえば、まだビーチに行けてなかったことを思い出す。明日の朝に行ってもいいけど……せっかくだし、結衣さんがお風呂に入ってる間に、ちょっとだけ行ってみようかな。
そう思い立って、部屋の鍵を持って、私はそっと部屋を抜け出した。
***
さらさらの砂浜に腰を下ろして、押し寄せては引いていく波を、ただ見つめていた。
ところどころにオレンジ色にライトアップされた灯りを水面がキラキラと反射して輝いている。
少し暑いけれど、日中ほどではない。波の音に耳を傾けながら、私は楽しかった今日のことを噛み締めるように、思い返していた。
「こんなところにいた」
どのくらい時間が経ったのだろう。突然後ろから声をかけられて振り向くと、白いTシャツに着替えた結衣さんが、そこに立っていた。
「海見てたの? お風呂から上がったらいないんだもん。びっくりした」
「あ……何も言わずにごめんなさい。波の音を聴いてたら心地よくて」
結衣さんが私の隣に腰を落とす。肩が微かに触れるくらいの距離に近付くと、お風呂上がりの結衣さんの匂いがした。
吸い寄せられるように、その肩に頭を乗せて、寄りかかる。その左手を取って、ギュッと抱きしめた。
このまま二人だけを切り取って、時間が止まればいいのに。そんな夢みたいなことを、真剣に考えている。
「今日は、ありがとうございました。本当に……楽しかったです」
「私も楽しかった。今度はプライベートで来ようね」
うん、と頷いて、遠浅の夜の海を眺める。心地よくて、離れたくない。そんなふうに思う。
「結衣さんって……夜の海に似てる」
「海?」
「学生の頃から、ずっと思ってました。凪いだ夜の海に似てる。穏やかで、心地よくて……ずっとここにいたくなる」
ここには誰もいない。誰も私たちを見ていない。だからこんな風に、私があなたを独り占めしたとしても——。
「……かなた」
名前を呼ばれて、そっと顔をあげる。目の前に伏せられた長いまつ毛があって、少し遅れて、唇に押し当てられた柔らかな感触に気が付いた。
キス、されてる。そう理解したのは、名残惜しくもその唇が離れて行ったあとだった。
呆然とする私の目を、その黒い瞳がじっと見つめる。
「結衣さん……?」
「ごめん。今度は順番間違えないようにって思ってたんだけど……やっぱり、我慢できなかった」
そう言って、結衣さんは眉尻を下げて笑った。
私の手を取って、ギュッと握る。真剣な話をする時の結衣さんの癖。それだけで、今から彼女が私に何かを伝えようとしていると気が付いて、急激に鼓動が速度を増した。
「かなた」
揺れる私の瞳を射抜く芯のある強い視線。深く呼吸した後、結衣さんは私の手を握ったまま、そっと私に言った。
「……絶対に婚約破棄するって、約束する。もうかなたを失望させたりしない。かなたが許してくれる限り、ずっと側にいるよ。私に出来ることなら、なんでもする。だから……」
微かに、結衣さんの手が強張っているのがわかった。私はただその言葉を、追う。
「……私と、付き合って」
シンプルに伝えられたその言葉は、学生の頃からずっとずっと私が願ってやまなかった言葉だった。
よくわからない感情の濁流が込み上げてきて、視界がじわじわと涙で滲んでいく。
「結衣さん、私、ずっと……ずっとそう言ってくれるのを、待ってたんですよ。学生の、時から」
溢れ出る涙を、優しい親指が拭う。
「うん、ごめん。待たせて、ごめんね。かなた、私の……彼女になってくれる?」
答えなんてわかりきっているくせに。私の顔を覗き込んで不安げにまたそう問いかけてくる結衣さんに、私は——しっかりと、頷いた。
そんな私を見て、結衣さんも今にも泣きそうな顔をして、それから安心したように微笑んだ。
私の身体をギュッと抱き寄せる腕に身を任せる。たまらなくなって、私もその背に手を回して、強く強く、抱きしめ返した。
「好きだよ、かなた。大好き。離れていても、ずっとずっと好きだった」
耳元で囁かれる愛の言葉が胸の奥に染み込んでいく。私も、結衣さんに——伝えたいことが、ある。
「私も……大好きです。あの時から、ずっと。ずっと結衣さんのことが、好きでした」
言えば、結衣さんは嬉しそうに、微笑んだ。優しく頬を撫でられて、促されるままにもう一度、重なる唇。
唇を離して視線を合わせると、私たちは顔を見合わせて——ぎゅうぎゅうに抱きしめ合いながら、笑ったのだった。
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