第69話 約束したでしょ?
――当機は、間もなく那覇空港に到着いたします。
そんなアナウンスと共に、機体がぐーっと旋回するように傾いた。閉じたままだった飛行機の窓を少しだけ開けて外を見下ろせば、眼下にはエメラルドグリーンの海と島々が広がっていた。
「結衣さん、すごい、海の色が全然違います!」
今日は仕事で来ているのだということもすっかり忘れて、結衣さんを振り返る。すると結衣さんはちょっとだけ私のほうに身を乗り出して窓の外を見て、「かなたって、沖縄初めてだったんだ?」と優しく微笑んだ。
父親の転勤で、全国津々浦々、様々な県に住んだ経験はあったけれど、さすがに沖縄は初めてだ。
日本の高校に通っていれば、もしかして修学旅行で……ということもあったかもしれないけど、あいにくと高校の三年間はイギリスで暮らしていたから、あまり日本でのリゾート地には馴染みがない。
この会社が運営している中でも看板であるリゾートホテルが沖縄にあるということはもちろん知っていたけれど、まさか自分が実際に訪れる日が来ようとは、夢にも思わなかった。
それもこれも全部、結衣さんの秘書になれたおかげ。役得、ってことのことを言うのかな。
オープンを目前に控えた新規店舗は、沖縄では二店舗目、ということになる。
今日から二泊、競合するであろう他社のホテルに宿泊することになっていて、私の仕事は結衣さんの調査に同行することだ。
無事着陸を終え、着替えを詰め込んだ重たいスーツケースを受け取る。
普段着で来てね、と言われていたから、中に入っているのは全部私服。今日も私は、この日のために新調した白いワンピースを着てきている。
リゾートにスーツは絶対浮くから、と言っていた通り、沖縄行きの便に乗る乗客は旅行客だらけだった。
結衣さんも当然今日はスーツではない。キャミソールに白いシャツを羽織っていて、胸元にのぞく一粒ダイヤのネックレスが、歩くたびに微かに揺れて輝いていた。
「結衣さんは、沖縄に来るの何回目ですか?」
つるつるの空港の床にスーツケースを滑らせながら、尋ねる。
「四、五回目かなあ。私もこの会社に入ってから初めて来たから、プライベートでは来たことないんだけどね」
「そうなんですね。日本の高校は、修学旅行とかで行くのかと思ってました」
「あー、そういうところもあるよね。私が通ってた高校はオーストラリアだったけど」
オーストラリアかあ。そっか、結衣さんが通ってたのってお嬢様学校だったのをすっかり忘れてた。とすれば国内じゃなくて、海外だよね。それもそうか。
もしも海外に出張で行く機会があったら、私は英語を喋れるから少しは役に立てるはずなのだけど、残念ながら今日はあまり役に立つ機会はありそうにない。
きょろきょろと空港内を見回しながら、歩く。
仕事で来ているとはいえ、初めての沖縄ということもあって、観光ブックをしっかり読み込んできたのは、ここだけの秘密だ。
結衣さんは優しいから、多分、帰りまでにお土産を買う時間くらいは取ってくれるんじゃないかなってちょっと期待していたりして。
私が抜けたせいで忙しくなっている予算管理課の皆さんのために、紅いもタルトを空港で買って帰ろうと思っていた。
それに、海ぶどうとか、ソーキそばとか、タコライスとか……運が良ければ沖縄ならではのグルメが食べられないかな、なんてことを考えていた。そんなこと結衣さんに知れたら、遊びに来たわけじゃないんだからって呆れられちゃうかもしれない。
でも、それほど浮かれるくらいに私は、今日の出張をものすごく楽しみにしていたのだった。
事前に予約していたレンタカーを空港で受け取ると、結衣さんは当たり前のように私の分のスーツケースを軽々と持ち上げて、コンパクトカーのラゲッジルームに積み込んでくれた。
「すみません。こういうの、本当だったら私の役目ですよね。その、運転だって……」
秘書じゃなくて社長が運転するなんて、一般的には間違っている。申し訳ない気持ちのまま謝罪すると、結衣さんは私を振り返って驚いた顔をした。
「かなた、免許持ってたの?」
「一応、あります。四年生の時に取りました。その、ペーパーですけど……」
教習所を卒業して以来、一度も路上で運転をしたことなんてない。そもそも車自体持っていないし、免許証なんてもはや身分証明証としての役割しか果たしていなかった。
小さくなってしまった私に、結衣さんは笑う。
「そういうの、気にしないでよ。かなたに運転してもらうなんて私が落ち着かないから。いつも通りでいいよ」
そう言って、結衣さんはいつもみたいに助手席のドアを開けてくれる。少しだけ肩の力が抜けて、「ありがとうございます」と促されるままに乗り込んだ。
少し遅れて結衣さんも車に乗り込んで、それからエンジンをかける。生ぬるい風が吹き出した後、少し遅れてひんやりとしたエアコンの風が頬にあたって、気持ちがよかった。
緩やかに走り出した車から、窓の外をかじりつくように見る。
「ねえ、結衣さん。沖縄って、植物も東京とは全然違うんですね」
道路脇にからにょきにょきと空に向かって生えている木々は、いかにも南の島って感じ。どこまでも青くて澄んだ空には、特大の入道雲が浮かんでいて、東京の空とは違って見える。
「海が見えたら、もっとびっくりするよ。もう少しで見えると思うけど」
結衣さんの言う通り、少しして車窓から飛び込んできた景色に、息を飲んだ。
遠浅の海はどこまでもエメラルドグリーンが続いていて、白い砂浜が日光を反射してきらきらと輝いている。
「うわぁ、すごい……綺麗」
「二日目に泊まるホテルはプライベートビーチがすぐ側にあるから、楽しみにしてて」
プライベートビーチかあ。砂浜を歩いてみたいな。どんな感触なんだろう。期待に胸が踊る。
浮き足立った私を乗せた車は、結衣さんから機内で説明を受けたとおり、オープン間近の自社ホテルへと向かっていた。
完成したばかりでピカピカな建屋の中に入ると、エントランスの床は私の顔まで反射するんじゃないかってくらいツルツルと輝いていた。
客室は全九十室。レストランはなんと三種類も揃っている。
海を一望しながらお酒を楽しめるラウンジもあって、ナイトプールも楽しめるんだって。
提携しているアクティビティも多種に渡っていて、有料の「ロイヤリティ会員」であればコンシェルジュが追加料金なしで利用できる。
さすが高価格帯のラグジュアリーリゾート。椅子一つ取っても、高級感が漂っていた。
支配人と簡単な打ち合わせをした後、結衣さんと客室や設備を最終確認するようにひとつひとつ見て回った。
結衣さんが指摘した点は、一言一句逃さないようにしっかりと手帳に書き記していく。
普段とは違う、仕事モードの結衣さんの真剣な眼差しに、私はすっかり見惚れてしまっていた。
結衣さんが社長に就任してから真っ先にしたこと。それは、今までホテルブランド毎に分けていた会員制度を一本化することだった。
利用頻度によって会員グレードが上がる仕組みは変わらないけれど、そのおかげで、ビジネスホテルやレストラン利用の会員でも、繰り返し利用すれば高価格帯のラグジュアリーブランドのホテルに手が届く、という会員にとって嬉しい特典をたくさん盛り込んだ新会員制度だ。
この会員制度が見事に当たって、ビジネス利用の底上げにつながり、さらにワンランク上のサービスを受けられる有料会員数も、二年前からは順調に伸び続けている。
私が前にいた会社の「WEB制作事業部」を買収した理由も、恐らくここにある。会員専用サイトの運営とアプリケーション開発に力を入れることで会員サービス強化に繋げて、三年目となった今は、「会員を増やす」というところから、「リピーターを増やして利用頻度を高める」というフェーズに移行しつつある。
そのために、昨年度からは新規オープンの下準備や既存店舗の改装に着手しつつあって、顧客を飽きさせないための投資を継続してきた、ということみたい。
この新店舗の開店にあたっては、親会社から大規模な借入をして設備投資を行っている。インバウンド需要を見込んで、外資系ホテルに負けないサービスを提供するため、外国語に堪能な従業員も新たに複数名採用したそうだ。
協議に協議を重ね、ある意味で社運を掛けた経営判断と言うこともあって——ホテルを視察する結衣さんの表情も、真剣だった。
「……さて、十分見て回ったから、そろそろ今日泊まるホテルに行こっか。かなたも、疲れたでしょ?」
隅から隅まで見て回った後、結衣さんはぐーっと身体を伸ばしてそう言った。
「疲れてないですよ、大丈夫です」
ずっと真剣なあなたのことを見てたから、全然疲れたりなんかしなかった。その努力が全て私のためだと思ったら、胸の奥が熱くなってくる。
改めて、結衣さんってすごい人なんだな、と思う。今までどれだけの努力を重ねてきたのだろう。
今更になって、離れていた空白の四年間を、惜しく思った。なぜ私は、こんなにも私を想ってくれていたこの人の手を、あんなにも容易に手離すことができたんだろう。
あの時、もしも私が逃げ出さなかったら——そこまで考えて、やめた。過ぎたことを後悔したって、意味なんてない。
今、私の隣にはあなたがいて、あなたの隣には私がいる。それだけで……充分幸せだから。
支配人に挨拶した後、車に乗り込んだ。窓から夕日が差し込んで、結衣さんの横顔を照らす。結衣さんって、やっぱりいつ見ても綺麗だな。
「ごめんね、付き合わせて。退屈だったでしょ」
走り出した車内で、結衣さんが申し訳なさそうにそんなことを言った。だから私は慌てて首を振る。
「そんなことないです。仕事してる結衣さん……かっこよかったです」
ちょっとだけ、声が小さくなる。これは、本音だ。本当に、かっこよかった。その真剣な横顔を見るたびに、心臓がドキドキ脈打つくらいに。
すると結衣さんは嬉しそうに笑って、ちらりと視線だけで私を見た。
「本当? もしかして……惚れ直してくれた?」
「もー、せっかく褒めてるのに、なんでそう、すぐにからかうんですか……」
惚れ直すも何も、私はあの頃からずっと、あなたのことが好きなままだ。
それどころか、どんどん気持ちは膨らんでいく。際限ないくらいに、どんどんあなたに嵌っていく。……なんてこと、絶対に言わないけれど。
海が夕日の光を反射しているのを、ホテルへ向かう車の窓からずっと見つめていた。
今日から二日間、結衣さんと同じ部屋に泊まることになる。
前に結衣さんの家に泊まったときは、お酒を飲んでいたせいで、あまり緊張していなかった。でも今は、少し……ドキドキしている。
そっとその横顔を盗み見る。私はこんなにもあなたを意識していると言うのに、結衣さんはいつもとまるで変わらない。なんだか私ばっかりあなたのことが好きみたいで、それがちょっとだけ、悔しかった。
宿泊予定のホテルに着いたころには、夕日も沈み切ってあたりも薄暗くなっていた。
駐車した後にサイドブレーキを引いて、シートベルトを外した結衣さんが、突然私の手をギュッと握った。
ただでさえ緊張していた心臓が、一際大きくどくりと跳ねる。
「……今日から、ずっと一緒に居られるね」
深い黒の瞳が真っすぐに私を見つめる。そして私の手を取って、そっとその唇を私の手の甲に愛おしそうに押し当てた。
柔らかなその感触に、顔に熱が集まってくるのを自覚する。
「結衣さん、いま、仕事中じゃ……」
「もう十八時過ぎてるよ。仕事はもう終わり」
指の間に、するすると結衣さんの長い指が絡まって、その左手がぎゅっと私の手を握った。なぜだろう――私の手を握ったその左手に、かすかに違和感があった。でも私はその違和感の正体が何かわからないまま、結衣さんのその瞳を見つめ返す。
最近の結衣さんは、まるで大学時代に戻ったみたい。だって絶対に逃がさないって、顔に書いてある。
「……何もしないって、言ってました、よね?」
不安になって念のため再確認すれば、結衣さんは「何もしないってば」とけらけらと笑った。
本当かなぁ。結衣さんって、嘘つきだから。決して、期待しているわけじゃない。でも……実は今ちょっとだけ、ツインで予約したことを後悔している。
「じゃ、行こっか。今日は疲れただろうから、ゆっくり休んで。明日もあるからね」
車を降りると、生ぬるい風が素肌を撫でた。それから結衣さんと手を繋いで、ホテルへと向かう。
「……明日は、どうする予定なんですか?」
繋いだ手をぷらぷらと振りながら、何気なくそんなことを聞いた。同行するだけでいいと言われていたから、自社ホテルの支配人以外、特にどこにもアポを取ったりはしていなかった。だから、明日結衣さんがどう行動するつもりなのかは聞いていない。
競合他社であるホテルに宿泊するのが目的と言えば目的だから、もしかしたら一日中ホテルに滞在する可能性もあるのかな、と思っていたけれど。
結衣さんはにっこり笑って、私の顔を覗き込んで言った。
「明日は……提携している施設の視察。かなたが大好きなところだよ」
「えっ……?」
思わず足を止めて、結衣さんのその瞳を見つめ返した。穏やかな風が、さらさらの結衣さんの黒髪を優しく靡かせる。
私が大好きなところ。そんなの一つしか思い浮かばない。沖縄で、指折りに有名な場所。ジンベエザメがいるところ。観光ブックにも載っていた。見開きの一ページ、大水槽の写真が脳裏によみがえってくる。
せっかく沖縄に行くなら、行ってみたい。そんな風にねだりたくなるなる気持ちを、本当はずっと必死に抑え込んでいた。仕事で行くんだから、だめだって。わがままを言っちゃいけないって。
「結衣さん……本当に? 本当にいいの?」
「約束したでしょ? 水族館、連れて行ってあげるって。遅くなってごめんね」
揺れる私の瞳をじっと見つめて、結衣さんは——とびきり優しく、微笑んだ。
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