第68話 それはかなた次第だけどね

「それじゃあ、青澤さんの秘書就任を祝って……かんぱーい!」


 山里マネージャーの乾杯の声と共に、一斉にグラスをぶつけ合う小気味いい音が、居酒屋の個室に響いた。

 今日をもって私は予算管理課を離れ、来週から社長付の秘書として社会人生活を再スタートさせることになる。

 今日は私のために予算管理課だけの送別会を開いてくれたのだった。


 結衣さんの会社に入って、この課に配属になって、よかった。短い間ではあったけど、本当に居心地がよかった。

 私が抜けた穴については、まだ後任が決まっていない。研修中ということもあり、あまり多くの業務を担当していなかったとはいえ、しばらくは皆さんに迷惑をかけることになるだろう。

 それなのに、三ツ矢さんも瀬野さんも、嫌な顔ひとつせずに私を応援してくれたこと、本当に感謝している。


「喜ばしいことなんだけど、青澤ちゃんと離れるの、寂しくなるな〜」


 三ツ矢さんが、ビールジョッキ片手にしみじみと言う。三ツ矢さんとは、社会人になりたての頃からの付き合いだ。寂しいけど、予算管理課と社長室は同じフロアにあるから、顔を合わせることがなくなるわけじゃないのが幸いだった。


 すると三ツ矢さんの隣に座る瀬野さんが、焼き鳥を串から器用に外しながらぽつりと口を開いた。


「でも、本当にすごいよねぇ。一体どうやって社長を口説き落としたの? 青澤さん、大人しそうに見えて意外と肉食系だったりする?」


 そんなふうに言われて、私はまさか、と首を振った。


 肉食系という意味が、恋愛に積極的な人を指すとすれば、私は違う。どちらかと言わなくとも、その対極にいるような気がするんだけど。


 結衣さんにだって、昔からいつも押されっぱなしだった。自分から積極的にアプローチしたことがないわけではないけれど……でもそれもアルコールのせいで頭がばかになっていたからできたことだ。もともとの私の性格じゃない。たぶん。


「瀬野さんにアドバイス頂いた通り、社長室に通い詰めて熱意を伝えただけなんですけど……」


 ごめんなさい、嘘です。本当は結衣さんを脅して半ば強引にYESを勝ち取っただけ。でもまさかそんなことは言えないから、とりあえずごまかしてみる。熱意を伝えた、ということに関しては、間違ってはいないもん。


 そんな私の答えを聞いて、にんまりと瀬野さんが笑った。


「ふーん、そうなんだ。でも、羨ましいなぁ。青澤さんって、お金持ちに好かれる素質あるのかもね。だって、青澤さんの好きな人も、お金持ちでしょ? それとも、もう恋人?」


 さらりとそう言われて、思わず「えっ」と小さく声を漏らしてしまった。まずい、こんな反応をしたら、相手がお金持ちだって言っているようなものだ。


「へえ、青澤さんの恋人ってお金持ちなんだ。素敵ねぇ」


 山里マネージャーが、特に気に留めてない様子で唐揚げを頬張りながら言った。


「いや、えっと、恋人じゃないんですよ。ただ、好きなだけで……」


「恋人じゃないの? でもさぁ、そのピアス、いつもしてるけど絶対にプレゼントでしょ」


 そう言って、瀬野さんは自身の耳を指さして、揶揄うように笑った。


「そんな高価なプレゼントもらってるのに付き合ってないなんて、もしかして既婚者だったりする? だめだよぉ、不倫なんて。青澤さん可愛いんだからもったいない。いくらお金持ちでも、幸せになれないからやめときなよ~」


「瀬野さんってば、そんなわけないじゃないですか」


 結衣さんは、婚約はしているけど、結婚はしてない。だから、まだ、「不倫」ではない。断じて違う。

 でもどうしよう、これ以上何かを話してしまったら墓穴を掘る気がする。絶対に相手が結衣さんだとバレてはいけないから苦笑いして押し黙ると、隣にいた三ツ矢さんが、瀬野さんの耳をきゅっとつまんだ。


「あのさぁ、あんまり青澤ちゃんのこといじめないでよ」


「三ツ矢さん、痛い」


「あんたのこのピアスだって、どうせ誰かからのプレゼントでしょ?」


「違うわよ、これは自分で買ったの」


 瀬野さん、モテるからありそう。うまいこと三ツ矢さんが話題を逸らしてくれて、ほっと胸を撫でおろす。

 瀬野さんは、結衣さんのことを「諦めた」、と言っていたくらいだ。もしも女性も恋愛対象になりえる人なのだとしたら、私と結衣さんの関係に気付かれてしまうかもしれない。その発言が本気か冗談かは、正直わからなかったけど。


「二人とも、本当に仲良くなったわねぇ」


 山里マネージャーが、ぎゃあぎゃあ言い合いを続ける二人をにこにこと微笑みながらそう言った。


「……あの、ずっと聞きたかったんですけど、あのふたり、どの辺が仲がいいように見えるんでしょうか」


 不思議に思って、山里マネージャーにそっと耳打ちをして聞いてみる。


「瀬野さんってね、前はあんなに喋らなかったのよ。三ツ矢さんもさっぱりして明るい人だから、二人とも気が合うのかもね。喧嘩するほど……っていうじゃない?」


 なるほど。私たちがこの課にやってくる前から瀬野さんを知っている山里マネージャーにとって、二人はそんな風に映るんだ。

 喧嘩ばかりして、仲が悪いと思い込んでいたけれど、もしかしてこの二人はこれでいいのかも。

 そう思って、ちびちびとレモンサワーを飲み始める。予算管理課のメンバーじゃなくなっても、たまにこうしてみんなで飲みに来れたらいいな。そう思いながら。












「今日は、ありがとうございました」


 居酒屋を出たあとに、先に出て待っていた山里マネージャーに深く頭を下げた。きっと彼女がいなかったら、私は結衣さんの秘書になれなかった。


「青澤さん、頑張ってね。応援してるから」


 そう言って、山里マネージャーは私の肩をぽんと叩いてくれた。だから私もしっかりと山里マネージャーの目を見つめ返して、頷いた。

 推薦してくれた彼女の顔に泥を塗るマネなんてしない。絶対に、役に立って見せる。そう胸に誓う。


「ちょ、っと、寄り掛かんないでよ、真っすぐ歩いて。重いんだけど!」


 突然後ろから、三ツ矢さんの不満そうな声がして振り向いた。見事に潰れてしまった瀬野さんを支えつつ、よろよろと店から二人が出てくる。

 瀬野さんが潰れてしまったのは間違いなく三ツ矢さんのせいだった。何を思ったか途中から飲み比べ競争を始めたのが、原因なんだから。


「さ、三ツ矢さんは責任もって瀬野さんのこと家まで送り届けてね。じゃあ、お疲れ様! 夫が迎えに来てるから、もう行くね。みんな、また会社でね~」


 山里マネージャーはあっさりとそう告げて、行ってしまった。残された三ツ矢さんは呆然とした後、ちらりと一瞬私を見た。

 私は慌てて左右に首を振る。むりむりむり、だって瀬野さんと帰る方向、逆方向だし。


「瀬野さん、ねぇ、自力で帰れるでしょ。自分で立って歩いて」


 肩を掴んで揺するものの、ぐにゃぐにゃと身体が揺れて、あぁ、これは一人で帰るのは無理だなと私ですら思った。


「もう、なによぉ、、うるさい」


 瀬野さんが、突然、三ツ矢さんの下の名前を呼んだから驚いた。ピタッと瀬野さんの肩を揺すっていたその手がぎこちなく止まる。


「あの、三ツ矢さん。瀬野さん、多分一人で帰るの無理だと思うんですけど……」


「あ、あはは、そうだね。わかった、私に任せて、青澤ちゃんは気を付けて帰ってね」


「はい、ありがとうございます」


「えー、青澤さん、もう帰っちゃうの? そっかぁ、残念。ねえ、もう一軒行こうよ、かお……むぐっ」


 三ツ矢さんが、瀬野さんの口を手のひらで塞いで遮った。血走った目で、瀬野さんの顔をじろりと覗き込む。


「黙って。お願いだからもう一言もしゃべらないで。あんた、酔っ払いすぎだから」


 もごもご文句を言おうとしている瀬野さんを押し込めて、三ツ矢さんは苦笑いして私に向き直った。抑え込んでいるうちに早く帰れ、そう視線だけで言われた気がして、私は頷いて二人に手を振った。


 でも、三ツ矢さんは、なんだかんだ言って面倒見がいい人だから、瀬野さんの心配はいらないと思う。やっぱり、山里マネージャーの言う通り、気が合う二人なのかもしれないな。そんなことを思いながら、駅へと向かった。


 道すがら、ポケットが震えた。取り出したスマホに浮かんだ名前に、自然と笑顔になる。


――ちゃんと帰れた? 飲みすぎてない?


 届いたのは結衣さんからのメッセージだ。送別会があるってことは、昨日の夜、電話で伝えていた。

 結衣さんってば、私がお酒に弱いのをすごく心配してくれて、「心配だから迎えに行く」とまで言ってくれた。もちろん断ったけど。だって、そんなところを見られたら大変だもん。


――今から帰るところです。今日はあまり飲みませんでしたよ。


 立ち止まって、メッセージを返す。こうして心配してくれるのも、すごく嬉しい。不思議だけど、お酒を飲むと決まって結衣さんに会いたくなる。

 その腕の中に飛び込んでしまいたくなる。ひたすらに甘やかしてもらいたくなる。


「また、同じ家に帰れたらいいのになぁ……」


 叶いもしない願いを口にして、結衣さんのいない家に帰る足取りは重い。こんな日は、シャチくんを抱きしめて眠ろう。結衣さん愛用の香水の匂いとともに。






***






 翌週。「社長室で待ってて」という結衣さんからのメッセージ通りに、朝一で向かうと、社長室の一角には、私のデスクとノートパソコンが置かれていた。

 ぴかぴかの机の表面を、指先でそっと撫でると徐々に実感がわいてくる。


 少し遅れて、社長室のドアが開いた。私に気付いた結衣さんが、にっこりと微笑んでくれる。


「結衣さん、おはようございます」


「うん、おはよう」


「机、ありがとうございます。手配してくださったんですね」


「うん。今日からよろしくね」


「はい、頑張ります。結衣さんのお役に立てるように」


 結衣さんはバッグを机に置いた後、私に向き直って、「じゃあ早速、役に立ってもらおうかな」と言ったから、私はあわててバッグから手帳とボールペンを取り出した。


 でも、そんな私を結衣さんは笑う。


「手帳もペンもいらないよ」


 そう言った結衣さんが、ペンを持つ私の手を引いた。私より少し高い背。大好きな甘い香りと、華奢だけど、柔らかいその身体。

 正面からぎゅっと抱きしめられて、私は驚いて目を見開いた。


「あ、の……結衣さん? 何、してるんですか……?」


「抱きしめてる」


「な、なんで?」


「おはようのハグ」


「えっと、あ、鍵、閉めました? 誰かに見られたら……」


「誰も来ないよ、大丈夫」


 とくとくと、心臓が高鳴っていく。どうしよう、すごく抱きしめ返したい。返してもいいのかな。迷っているうちに、名残惜しくもそっとその腕が離れていく。

 愛おしそうに私を見下ろすその瞳に、胸がぎゅーっと苦しくなった。


「ありがと、かなたのおかげで今日も一日頑張れそう」


「なんですか、それ……結衣さんってば、いつも私のことからかってばっかり」


 私がドギマギしているのを見て、楽しんでるんじゃないかと思うくらい。唇を尖らせてそう言えば、結衣さんは笑った。


「じゃ、本題。お願いしたいことがあるんだけど、いい? 来月、出張に同行してほしいんだけど、かなた、都合大丈夫? その航空券とホテルを手配してほしいんだよね」


 さっそく、「出張」というワードが飛び出してきて背筋をぴんと伸ばす。大丈夫、来月は何があってもいいように、一日だって予定を入れていない。


「はい、大丈夫です。行先はどこですか?」


 手帳を開いて、カチッとボールペンをノックする。


「沖縄」


「えっ、沖縄……?」


 驚いて、思わず聞き返してしまった。


「来月新店オープンするでしょ? その視察。ついでにせっかくだから競合他社に泊まってみようと思って。何個かピックアップしたから、あとでスケジュールとリスト共有するね」


「は、はい、わかりました」


 ドキドキしながら、手帳にメモを取る。すると結衣さんが私の顔を覗き込んだ。


「それと……部屋は同じでいいからね?」


 手帳から、驚いて顔を上げる。すると結衣さんはにっこりと笑って、「ダブルでいいよ」と続けた。


「結衣さん、なに言ってるんですか……!? さすがに、冗談ですよね?」


「本気なのに」


 にこにこ微笑む結衣さんの瞳を見つめ返しても、何を考えているんだか全然わからない。なんだか、昔の結衣さんに戻ったみたい。


「……結衣さんの、すけべ」


「大丈夫、何もしないよ」


「本当ですか……?」


 結衣さんが言うなんて、絶対にあてにならないんだから。疑うように言えば、結衣さんは「まあ、それはかなた次第だけどね」なんて言って、笑った。


「ホテルは……ツインにしますからね」


「残念。でも、同じ部屋なのはいいんだ?」


「……あんまり意地悪言うと、シングル二つ取りますよ」


「ごめんごめん、拗ねないで。せっかくだから同じ部屋にしようよ。ね?」


 拗ねて唇を尖らせる私の機嫌を取るようにギュッと手を握る結衣さんを睨みつつも、私はこくんと頷いた。




 人生初の出張、それも沖縄で、一生忘れられない思い出ができるなんて、この時の私はまだ、知るよしもなかった。






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