第67話 お願いだから、もう会わないなんて言わないで

 結衣さんが驚いて手放したボールペンが、カタン、と音を立てて机に転がった。

 何が起こってるんだかわからない、って顔して呆然と私を見つめる結衣さんを無視して、すぐ側まで足を進める。


「こんな時間ですし、ちょっと休憩しませんか?」


「休憩?」


 結衣さんが、腕時計に目を落とした。時刻は十五時半、アフタヌーンティーにぴったりの時間を選んで私はわざわざ社長室へとやってきた。


 ちらりとデスク脇にあるゴミ箱に視線を向けると、くしゃくしゃになったゼリー飲料の容器が捨てられている。

 どうやら、最近はお昼ご飯もまともに食べてないらしい。


 机の上にソーサーとティーカップ。そしてマカロンを二つ乗せた小皿を並べると、きょとんとした結衣さんにどうぞ、と手のひらを差し出した。


「紅茶を飲み終わるまででいいです。私に時間をください。どのくらい本気なのか、ちゃんとわかって欲しいから」


 真っ直ぐにその瞳を見つめる。すると結衣さんは机の上に並べた紅茶に視線を落とした。


「……いい匂い、だね」


「アフタヌーンブレンドです。マカロンもそんなに甘くないから、お口に合うと思います。最近、全然休憩を取っていないみたいだったので……」


「それで、私のために?」


 こくりと頷くと、「ありがとう」と結衣さんは嬉しそうに笑った。


「ね、社長。私、よく見てるでしょう?」


 胸を張ってそう言うと、結衣さんはちょっとだけ不満そうに唇を尖らせた。


「社長って呼ぶのやめてよ。二人きりの時は、いつもみたいに名前で呼んで」


「……結衣さんは、仕事とプライベート、完全に分けたいのかと思って」


 私を秘書にしたくないのは、公私混同したくないからなのだと思った。だからちゃんと私は区別できるタイプですよってことをアピールしようという魂胆だったのに。

 肝心の彼女は、それをお気に召さなかったらしい。


「それはそうなんだけど……かなたには、名前で呼んで欲しい」


 珍しく歯切れが悪いから首を傾げる。でも、それは私にとってもありたがい申し出だった。私だって出来るなら名前で呼びたいと思っていたから。


「結衣さんが、そう言うなら、わかりました。……それはさておき、美味しいうちに早く飲んでください。冷めちゃいますよ」


 そう促すと、結衣さんはいただきます、と言ってティーカップに口をつけた。

 この紅茶、私は好きだけど、結衣さんはどうかな。本当はミルクティーにするともっともっと美味しいのだけど、それはまた今度、結衣さんの家で淹れてあげることにする。


「……あ、これ美味しいね」


 驚いたようにティーカップを見つめる結衣さんを見て、どうやら成功だったようだと心の中でガッツポーズする。


「私を秘書にしてくれたら、こうして一緒にお茶する時間だってできるかもしれないですよ」


 ここぞとばかりにアピールすれば、結衣さんはそんな必死な私を見て微笑んだ。


「それは別に、かなたが秘書にならなくたってできるでしょ?」


 白い指先が、マカロンを一つ摘む。それからちょいちょいと手招いて、そっと私に差し出した。


「はい。かなたにも一個あげる」


「えっ、いいですよ。それ、結衣さんの分だから……」


「だってこれ、かなたも好きだから買ってきたんでしょ? 半分こしようよ」


 そう言って笑うから、調子が狂う。いつも思うけど、なんでこんなに優しいんだろう、この人は。


 少し考えたあと、じっとそのマカロンを見つめて、それから、誘惑に勝てずにぱくりと差し出されたそれを頬張った。

 結衣さんも続いて、ピスタチオ味のマカロンを口にする。


「本当だ、甘すぎなくて美味しい」


「明日も美味しいお菓子用意しますので、楽しみにしててくださいね」


 そう言えば、結衣さんは困ったように笑った。


「明日も? ……かなた、本当に取り下げるつもりない?」


「もちろん。結衣さんがいいって言ってくれるまで、説得しに来ます。嫌ですか? 私が社長室に来るの」


 曖昧な表現なんて許さない。追い詰めるように言えば、観念した結衣さんが小さくため息をついた。


「嫌なわけないでしょ。かなたの顔を見れて、嬉しいよ」


「秘書にしてくれたら、私の顔なんて飽きるほど見れますよ」


「いくら見たって飽きないよ。だって私、かなたが世界で一番可愛いと思ってるから」


 真剣な眼差しに、ノックアウトされそうになる。私を見つめてさらりとそんな口説き文句を言うから、二の句を告げなくなってしまった。こんなことで押し負けちゃ、いけないのに。


 頬が熱い。多分、顔が赤くなってしまっているに違いない。そんな私に結衣さんは笑って、また紅茶に口をつけた。


 だめだめ、こんなふうに結衣さんのペースに飲み込まれてはいけない。

 紅茶を飲み終えるまでなんてあっという間だ。貴重なアピールタイムがどんどん減っていく。


「秘書をつけたら、もっと時間に余裕が出来るから。そしたら、約束した通り一緒に水族館に行こう? かなたが行きたいところ、どこにでも連れて行ってあげるから」


 落ち着いた声色で、結衣さんはそうやって私を諭すように言う。


「でもそれ……私が秘書になったって、できますよね?」


 結衣さんの負担が減ればいいのだから、その忙しさを少し私に分けてくれればいいだけの話だ。

 むしろ結衣さんのスケジュールに合わせて働くようになれば、お互いの休みを合わせやすくなると思う。

 そう考えると、ますます私じゃだめな理由がわからなかった。


「かなたが秘書になって私が楽になったとしても、かなたが今より忙しくなるでしょ。無理して欲しくないから、だめ」


「……結衣さんは無理してるのに、私はだめなんですか?」


 そこまで言えば、結衣さんがティーカップを私に向かって軽く傾けた。中は空っぽだ。それはつまりタイムアップを意味する。


「ご馳走様。すごく美味しかった」


 今日は、時間切れ。食らいつきたかったけど、約束は約束だ。「時間を守れない」というのは秘書として致命的だと思うから、大人しく私は引き下がるしかない。


「……また、明日も来ますね」


 結衣さんが飲み干したティーカップをお盆に乗せて、がっくりと肩を落とす。


「失礼しました……」


 項垂れたまま社長室を出ようとすると、後ろから、「かなた」と名前を呼ばれて振り向いた。

 愛おしそうに私を見つめるその瞳が、柔らかく細められる。


「話せて嬉しかった。秘書にはしてあげられないけど、また顔見せに来て」


 そう言って結衣さんは意地悪く笑うから、私はべーっと舌を出して、しぶしぶ社長室を後にした。


 今日は……うん、仕方ない。初日だし、まだ明日もあるから大丈夫。明日こそはきっと。


 そう思っていたのだけど——翌日の同じ時間、レアチーズケーキを片手に社長室に乗り込んだ私の猛アピールにも、結衣さんは頑として首を縦に振らなかった。




***




 そうこうしているうちに気付けば応募最終日になっていた。今日いい返事を貰えなければ、ゲームオーバーだ。


 結衣さんのバカ。知ってはいたけど相変わらずの頑固ぶりだ。「奥の手」を使う前に正攻法で説得できればと思っていたけど、どうやらその考えは甘かったらしいと悟る。


 そろそろアフタヌーンティーの時間。今日は私の大好きなシュークリームを買ってきた。


 弱気になっちゃいけない。そう思うけど、不安は強まっていくばかりだった。

 ため息をついて項垂れると、斜め向かいに座っていた瀬野さんが、モニターから顔を上げてこちらを見た。


「青澤さん、今日も社長のところに行くの?」


「はい……。でも、昨日も一昨日もだめだったので……今日がラストチャンスです」


「そっか。まあ、ここまで押したら、次は引くのも手かもねぇ」


 瀬野さんの唇が緩く弧を描く。でも、結衣さんって基本的にはさっぱりしているから、「去るもの追わず」のタイプだと思うんだけど……。引いたとして、効果があるかは半信半疑だ。


 こういう駆け引きはとことん苦手だ。恋下手な自覚があるから、瀬野さんみたいに器用な人が羨ましい。

 でも、今の自分にできないことを今更悔やんだって仕方ない。


 行こう。結衣さんの元へ。そう決心して頬を叩く。大丈夫、まだ私には律さん直伝の「奥の手」が残ってる。


 先輩たちの応援を背に、気合を入れて立ち上がった。







 お盆を持って社長室の前に立つ。一度深呼吸をして、それからドアをノックする。その向こうから、どうぞ、という結衣さんの声が聞こえて、意を決してドアを開いた。

 結衣さんは私の顔を見るなり、「待ってたよ」と嬉しそうに笑った。


「今日はシュークリームにしました。これも私のおすすめです」


 外側はサクサクしたクッキー生地で、中は甘すぎないカスタード。結衣さんは甘いものが特別好きってわけじゃないから、そのあたりもしっかり考慮済みだ。


「ね、結衣さん。今日が応募の最終日ですけど、応募ってどのくらいありましたか?」


 何気なく聞いてみると、結衣さんは少しだけ考えるようにして、「三十人くらいかな」と答えた。

 そんなにいるなんて正直、想像以上だった。手に持つお盆をギュッと抱きしめる。


「それで、書類選考を通すのは?」


「今のところ、五人」


 はっきりと五人、と言い切ったということは候補者の顔ぶれはもう決まっているのだろう。そこに私がいるのかどうかはわからない。

 でも、どちらにせよ今ここで覆せなければ終わりだと思う。


「結衣さんは……なんで私を選んでくれないんですか?」


 その黒い瞳が、私を見る。そこに迷いなんてなかった。絶対に覆さない、という強い意志を感じる。


「……気持ちは嬉しいけど、理由は何度も言ってるとおりだよ。かなたまで忙しくなったら、意味がないから」


 はっきり言い切られて、ムッと唇を尖らせた。どうして私の気持ちをわかってくれないんだろう。


「……結衣さんの、わからず屋」


「何を言われても覆すつもりはないよ」


 結衣さんがそこまで言うなら、もういい。正攻法でなんて、そんな甘い考えは捨ててやる。


「……わかりました、もういいです。そんなこと言うなら、もう結衣さんとはデートしない。会社の外では、今後一切会いません!」


 はっきりとそう言い切って、ドアへと踵を返す。


「えっ!? ちょ、ちょっと待って! それとこれとは話が違うでしょ!?」


 するとガタン、と音を立てて立ち上がった結衣さんが、社長室を出て行こうとした私の手を慌てて掴んで止めた。

 振り返って、焦ったように視線を泳がせる結衣さんをキッと睨みつける。


「だって、私とは一緒にいたくないってことですよね? だったら、もう、いいです」


「一緒にいたくないなんて、そんなわけないじゃん。秘書をつけようとしたのだって、私はかなたとの時間を作りたくて……」


 困ったように眉尻を下げて弁解する結衣さんの瞳を見つめた。

 結衣さんを困らせることになるとわかっていた。だからできればこの「奥の手」は、使いたくなかったけど、こうなったらもう仕方ない。


 ギュッと、結衣さんが私の手を握る。


「……お願いだから、もう会わないなんて言わないで」


 すっかりしゅんとしてしまった結衣さんの姿に、ずきりと胸が痛んだ。


——秘書にしてくれないともう会わない、って言えば、結衣はなんでも言うこと聞くと思うわよ。


 そう言って、いたずらっ子のように笑った律さんの顔を思い出す。律さんが言ったことは、当たりだったようだ。


 会わないなんて思ってもいないことを言ってごめんなさい。でも、絶対役に立てるように頑張るから、今回だけは……どうか私のわがままを許して欲しい。


「じゃあ、私のこと、秘書にしてくれますか? 約束してくれたら、撤回します」


「……かなた。そういうの、ずるいよ」


「ずるくてもいいです。だって、秘書になったら一緒に出張に行ったりするんでしょ? そんなの、やだ。他の子になんて絶対に譲りたくない」


 本音が、ぽろりと溢れた。すると結衣さんは驚いたように目を丸めて、私を見下ろした。


「……志望した本当の理由、それ? もしかして、やきもち妬いてくれてたの?」


 図星を突かれて、押し黙って俯いた。めんどくさいことを言っている自覚はある。でも、仕方ないと思う。

 誰だって、好きな人が自分以外を選ぶのなんて面白くないに決まってる。


 そんな私のわがままな性格を、結衣さんだってわかっているはずなのに。


 少しの沈黙のあと、ふふ、と結衣さんが小さく笑った。なんで笑うの? 不満に思って見上げれば、驚くほど優しい目をした結衣さんが私をじっと見つめていた。


「ごめんね、気付けなくて。……そんなに可愛いこと言われたら、もう断れないよ」


 そう言って、優しい手のひらが私の頬を撫でる。


「本当に? じゃあ私のこと、秘書にしてくれますか?」


「……そういうことなら、いいよ。嫉妬してくれるのは嬉しいけど、かなたに嫌な思いをさせてまで、他の人を選ぼうなんて思わないから。その代わり、絶対に無理はしないって約束できる?」


 そう言って結衣さんは、肩の力を抜いたようにふっと笑った。だから私は、二つ返事で頷いたのだった。







「じゃあ、私、仕事に戻りますね」


 秘書にすると約束してもらえたことが、嬉しくてたまらなかった。これからずっと結衣さんの側で仕事ができるんだ。

 今なら、なんだってできそうな気がする。


 浮かれた足取りのままオフィスへと踵を返す。ドアノブに手をかけた瞬間だった。


 突然、後ろからギュッと、息もできなくなるほど強く抱きしめられる。

 驚いて、言葉を失ってしまった私の耳元に、結衣さんはそっと唇を寄せた。


「……ねえ、かなた。期待してもいい? もう一度好きになってくれるって」


 急にそんなことを言われて——思わず、息を呑んだ。ドキドキと心臓がうるさいほどに脈を打ち始めるのがわかる。


「今度こそ絶対に離さないから……覚悟しててね」


 優しく耳にキスされて、驚いて振り返る。すると結衣さんは、赤くなった私を見てにっこりと微笑んだ。


 最近まで、ずっと私に触れるのを躊躇っていたみたいだったのに——もしかして、結衣さんの押しちゃいけないスイッチを押してしまったかもしれない。



 学生の時を思い出させるような自信のあるその笑みに、私はいとも簡単にこの胸を撃ち抜かれてしまって——何も言い返すことが、できなかったのだった。






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