第65話 そういう冗談は心臓に悪いからやめてよ
ひんやりとした金色のドアノブに手をかける。こんな時に、なぜか私は初めて結衣さんに会った時のことを思い返していた。
後にも先にも、空港で初めて結衣さんに会った時ほど緊張したことなんてない。今感じている緊張感は、期待と不安が入り混じったような、あの時の感覚に似ている。
重厚なドアを押し開けると、その向こう——革張りのデスクチェアに座ったまま、頬杖をついて私を見つめる結衣さんと、ばっちりと目が合ってしまった。
「失礼します……」
初めて入った社長室。物珍しさに思わずぐるりと室内を見渡した。思っていたよりも結構広い。
結衣さんのデスクと、壁面に本棚。それと応接用なのか、人ひとり平気で寝転がれそうなほど大きな黒革のソファがあった。
目の前にいるのは、よく知る私の思いびとなのに、この部屋にいるとまるで雲の上の人のように見えてくる。
「内鍵、閉めて。そこ座っていいよ」
え、鍵……閉めるの? そう聞き返したくなる気持ちを押し留めて、結衣さんの表情を伺いながら後ろ手で鍵を回した。かちゃん、と冷たい錠の音が響く。
ソファに座っていいと言われたものの、自分から歩み寄ることはせずにじっとその瞳を見つめると、不安に揺れる私の視線に気付いたらしい結衣さんが、ふっと優しく笑った。
「……そんなに怖がらないでよ。別に襲ったりしないってば。誰にも邪魔されずに話がしたいだけ」
デスクから立ち上がって、ソファへと結衣さんは足を進める。そして腰を下ろした後に、こっちにおいで、とぽんぽんとその隣を叩いた。
何の相談もせずに勝手に応募したこと、怒られるのかなと少しだけ怯えていたけれど、そこにいたのはいつもの結衣さんだった。ほっとして、強張っていた身体の力が少しだけ抜けた気がする。
「……急に呼び出すから、びっくりしました」
恐る恐るソファへ歩み寄ると、彼女の隣に拳一つ分の隙間を開けてちょこんと腰を下ろした。高級そうな革張りのソファに、吸い込まれるように身体が沈み込む。
すると結衣さんが、身体ごと向き直ったあと、背もたれに肘をついて真っ直ぐに私を見た。
「びっくりしたのは、私の方だよ。秘書の件、どうして応募したの? そんなこと、ひとことも言ってなかったじゃん」
応募書類、さっき投稿したばかりなのにもう見てくれたんだ。書類選考は人事でふるいにかけられたりするのかなと勝手に想像していたけれど、この様子だとどうやらそうじゃないらしい。
「……応募要項に、社歴、年齢、所属部門問わずって書いてたじゃないですか。それなのに、私は応募しちゃだめなんですか?」
ムッとしてそう聞き返すと、結衣さんは、「いや、それは……だって、かなたが応募してくるなんて想定してなかったから」と言葉を濁した。
「……応募書類、目を通してくれました? 一生懸命、作ったんですけど……」
「うん……ちゃんと見たよ。志望動機も、推薦書も。かなたがどれだけ会社のために頑張ろうとしてくれてるのか知れて、すごく嬉しかった」
私の手をギュッと握って、そう言ってくれる結衣さんのその黒い瞳を、見つめる。
こうして真剣に話をしようとする時に、ギュッと手を握ってくれるのは、学生の頃から変わらない、結衣さんの癖だ。
「会社のためじゃないです。私は結衣さんの、力になりたいんです」
そう、会社のためじゃない。でも、本当は結衣さんのためだけでもない。大好きな結衣さんの隣を、他の誰にも渡したくないだけ。
結衣さんは驚いたように少しだけ目を見開いて、それから、ふー、と深くため息をついた。
「かなた……それ、反則だよ」
反則なんて、不本意な言い方をされるのは面白くない。私は何もずるなんてしていない。だって、応募すること自体、結衣さんには言わなかったし、少なくとも抜け駆けなんてしなかった。
反則だというのなら、それは結衣さんの方だ。だって現に今、私を社長室に呼び出している。
「私、ちゃんとルールに則って応募しましたよ?」
「そうだけど……でも、やっぱりだめ。お願いだから取り下げて」
「どうしてですか?」
「本末転倒だからだよ。かなたまで忙しくなったら、秘書をつける意味がない」
本末転倒? 何が? どういうこと?
言葉の意味がわからなくて、真意を探るためにその端正な顔を覗き込んだ。
少しだけ近づいた距離に、自然とトクトクと心臓が高鳴っていく。
やっぱり——いやだ。他の人に譲りたくない。
結衣さんは、本当に魅力的な人だ。……秘書なんかになって、長い時間一緒にいたら、好きにならない方が無理だと思う。
あの頃と違って女遊びはしていないとはいえ、この人は、もともとは息を吐くように女性を口説く生粋の女たらしなんだから。
困ったように揺れる瞳を見つめる。
私が、本当はその微笑み一つだって誰にも渡したくないと思うほど、どうしようもないほどにあなたに恋をしているんだってこと、結衣さんはちっともわかってない。
「……私、どうしても結衣さんの秘書になりたいんです。ちゃんと理由を教えてください。私では、力不足ってことですか?」
「そうは言ってないでしょ」
本当かな。適当な理由つけてもっと優秀な人を取りたいと思っているとか、ありえるかもしれない。
「私は経営に関しては素人ですけど……財務諸表を見れば、基本的なことぐらいはわかります。必要があるなら、もっともっと勉強します。それでも……だめですか?」
今度は私が、ギュッと結衣さんの手を握り返す番だった。私だって決して遊びで応募したわけじゃない。
社会人の基本は、前の会社で三ツ矢さんに一から教えてもらったし、山里マネージャーからはこの会社の経営方針や同業他社の動向や自社の強みまで、細かいところまで指導を受けた。
至らないところももちろんあると思う。でも、経験不足は努力でカバーしてみせる。
思っていたより私が真剣だとやっと気付いてくれたのか、結衣さんは困ったように眉尻を下げた。
「……かなたが、真剣に考えてくれてるのはよくわかった。でも……これからずっと、私のスケジュールに合わせることになるんだよ? 休みだって不規則になるし、出張だって増えるし」
「構いません」
そこまで言えば、結衣さんは、うーん……、と腕を組んで考え込んでしまった。
もしかして、もう一息だったりする? そう思った私は、ここぞとばかりに結衣さんのその左手をぎゅっと両手で握って引っ張った。
「ねえ、結衣さん、おねがい。だって、秘書になったら……もっと一緒にいられるじゃないですか」
えっ、と結衣さんが言葉に詰まる。ぱちぱち、とその長いまつ毛を瞬かせて、それから、何かを振り払うように小さく首を左右に振った。
「いや、いやいや……だめだめ。ずるいってば、そういうの。私がかなたのおねだりに弱いって、わかってて言ってるでしょ。……締め切りまであと三日あるから、お願いだからもう一度考え直してよ」
考え直すって、何を。もう気持ちは決まってる。そんなに嫌がらなくてもいいのに。ムッとして、じろりと結衣さんを睨みつける。
「嫌です。取り下げません。……そんなに私が嫌なら、書類選考で落とせばいいじゃないですか」
言えば、結衣さんは小さくため息をついた。
「……山里さんの推薦もあるのに、私情で落とせるわけないでしょ。応募書類、完璧だった。他より頭ひとつ抜けてる。落とす理由なんて見当たらないぐらいに」
「ですよね? だって、山里マネージャーに何度も添削して貰ったんですから。結衣さんも知ってるかもしれないですけど、山里マネージャーって本当にすごいんですよ。仕事ができて、優しいし、頼れる上司で……私の憧れです」
「……ふーん……そうなんだ……」
繋いだ結衣さんの左手に、ぐっと力が込められる。あれ、と違和感があって顔を上げると、結衣さんは私の顔を覗き込んでにっこりと笑った。
「なんか……やけに慕ってるね?」
その微笑みに、既視感がある。最近、やっとわかってきた。こういう時の結衣さんって、本当はめちゃくちゃ嫉妬してくれてるんだってこと。
「……もちろん、尊敬してますから。それに最近、山里マネージャーと一緒にいるとすごくドキドキするんですよね。どうしてでしょう。このままだと好きになっちゃうかも」
そんなの、嘘だけど。結衣さん以外にドキドキしたことなんてない。でもこうなったらもう、なりふり構っていられない。
「えっ……何、言ってるの? 山里さん既婚者でしょ。そんなのだめだよ、絶対だめ。だってそんなの……不倫じゃん!」
結衣さんだって、学生の時、婚約者がいるのにも関わらず女の子取っ替え引っ替えして遊んでた癖に、とは言わないでおく。
「そんなこと、結衣さんには関係ない話でしたね、ごめんなさい。とにかく、私は取り下げませんから。結衣さんこそ、考え直してください」
そう言い切ると、固く私の手を握りしめていたその手を解いて、立ち上がる。
「じゃあ、もう仕事に戻りますね」
「あ、ちょっと……まだ話は……!」
どうせ取り下げて、って言うつもりでしょ。そんな話ならもう聞かない。もう部屋を出ようと内鍵をがちゃんと回して、ドアノブに手を引っ掛けたところで、後ろから伸びてきた手がバン、とドアを押さえつけた。
「……かなた、さすがに、冗談だよね?」
後ろから聞こえてきた想像以上に弱々しい声に、反射的に振り返る。思いの外近い距離に驚いて見上げると、まるで叱られた子犬のようにしゅんと項垂れる結衣さんとばっちり目が合ってしまった。
「山里さんのこと、好きになったりしないよね……?」
あまりにも不安そうに揺れる瞳に、図らずもきゅんと胸の奥が締め付けられる。
思わずふふふ、と笑ってしまって、そんな私を結衣さんはきょとんと目を丸めて見下ろした。
変なの。ちょっと考えればわかるのに。山里マネージャーは既婚どころか子供もいるし、そもそも私は最初から、あなたのことしか見えてない。
「……結衣さん、かわいい」
「……もしかして、私のことからかった?」
そんな私の思いをつゆ知らず、不満そうな顔をする結衣さんが愛おしくてたまらなくて、今度こそ私は声を出して笑ってしまった。
「たまには私だって仕返ししたくなることだってあるんですよ」
「もー……、そういう冗談は心臓に悪いからやめてよ……」
そう言って、結衣さんはぐいっと私の肩を抱き寄せた。あれ、と思った瞬間、ぎゅうっと抱きしめられて、その腕の中にすっぽりとおさまってしまっていた。
途端に、ばっくばっくと私の心臓は壊れたように脈打ち始める。
え、え、どういうこと? いったい何が起きてるの?
「あ、あの、結衣さん……?」
名前を呼んでも、結衣さんは応えてくれない。息ができなくなるんじゃないかってぐらいぎゅううっと強く抱きしめられると、思わず抱きしめ返してしまいたくなる。
「……どう、したんですか、急に……」
顔が見たい、そう思った瞬間だった。耳元にそっと唇を押し当てられて、抱きしめられたままの身体が大袈裟なくらいびくりと震えた。
「……あんまり意地悪言うと、私にだって考えがあるからね」
耳元で、甘く、囁くようにそう言われて、ぞくぞくと背筋が震えてたまらずに思わずキュッと目を瞑った。
「結衣さん、や、くすぐった、い……!」
再会してからあまり私に触れようとしなかったくせに、なんでこういう時に突然スイッチが入るんだろう、この人は。
軽く耳を噛まれて、変な声が出てしまいそうになって思わずその肩を思い切り押した。
「ゆ、結衣さんってば……!」
すると呆気ないほど、簡単に距離ができて——見上げた瞳がいたずらに細められる。
からかわれた、とその目を見ればすぐにわかった。
「顔赤くなってるよ。ほんと、かなたって可愛いよね」
そう言って、結衣さんはにっこりと微笑む。
再会してからずっと結衣さんがしおらしかったから、調子に乗っていたけれど……やっぱり、結衣さんをからかおうなんて、私にはまだ早かったかも。
「……会社でこんなことするなんて……結衣さんの、すけべ」
赤くなった顔を腕で隠してそう抗議すると、結衣さんはいたずらが成功した子供みたいに無邪気に笑った。
「可愛いかなたが見れたから、午後からも頑張れそう」
「ほんっと、いつもそういうことばっかり言うんだから……結衣さんなんか、もう知らない!」
そう言って、真っ赤になった顔をごまかすように今度こそ私はドアノブに手を引っ掛けて、逃げるように社長室を飛び出した。
秘書になりたいという私の気持ちとは裏腹に、結衣さんには別の考えがあるみたいなんだけど……でも。
そんなの知らない。意地でも絶対に覆して見せる。
立ち止まって、うーん、と腕を組んで考える。何か策はないだろうか。結衣さんが別の候補者を見つけてしまう前に。
一人で悩んでたって仕方ない。こういう時は、人の意見を聞くに限る。
そう思い至って、私は足早に自分のデスクへと急いだ。
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