第64話 今すぐ、社長室に来て

 お昼休みを終えて、デスクに戻る。ちょうど山里マネージャーも戻ったばかりなのか、花柄の可愛いランチクロスに包まれたお弁当箱をトートバッグにしまっているところだった。



 雪哉さんと話したおかげで、自分の気持ちを整理することができた。


 結衣さんの、秘書になりたい。迷いが消えて、その気持ちは確固たるものになった。


 研修中の身で、言いにくいことではあるけれど……山里マネージャーに、相談してみないことには何も進まない。だって、応募するためには上司の推薦書が必要なんだから。


 どきどきと心臓が脈打って、手のひらにじんわりと汗をかいているのがわかる。


 入社したばかりで、秘書なんて早い、まだだめだと言われたらそれまでだけど……相談してみないことには、なんて言われるかなんてまだわからない。


 自分で自分の背中を押して、山里マネージャーのデスク脇まで歩み寄った。


「山里マネージャー。今戻りました」


「あぁ、青澤さん、おかえりなさい。少しはゆっくりできた?」


 山里マネージャーはそう言って、微笑んでくれた。張りつめていた気持ちが、少しだけ柔らかくなる。秘書に応募したいと申し出ても、きっと山里マネージャーはすぐに否定はしないだろう。話は聞いてくれるはず。


 熱意を伝えれば、もしかしたら、もしかするかもしれない。数か月しか一緒に働いていないけれど、何となく山里マネージャーがどういう人なのかは、わかってきたつもりだ。


「ご配慮いただき、ありがとうございました。それで、少し、お話したいことがあって……」


 そこまで言えば、山里マネージャーは、まるで待ってましたというように、ゆるく口角を上げた。そして私が言葉を続ける前に、「場所、変えようか」と、口にした。







 今日二回目の休憩スペース。人はまばらで、空いているソファに座って待っているように言われて、そわそわする気持ちを抑えながら、私は言われた通りにふかふかの赤いソファに腰を落とした。少しして、戻ってきた山里マネージャーは手に二つアイスコーヒーを持っている。


「はい、どうぞ。青澤さんの分」


「ありがとうございます。あ、お金……」


「いいよ、だって十円だもの」


 そう言って、山里マネージャーは笑う。肩が触れそうな距離に座った彼女からは、甘い、大人の女性の香りがした。


「さっそくだけど、本題に入ってもいい? 話したいことって何かな?」


 いつもと変わらない優しい笑顔で私を見る山里マネージャーは、話したいことがあるという私の突然の申し出にも全く動揺なんてしていなくて……なんとなくこれから私が言おうとしていることをわかっているような気さえした。


 天然なのかなと思っていたけど、すごく察しのいいところもあったりして……さすが管理職だな、と思わずにはいられない。


 深く息を吸って呼吸を整えた後、覚悟を決めて口を開いた。


「考えたんですけど、今朝の、秘書の公募の件……私、応募したいです。研修中の身でこんなこと申し出るなんて、生意気だってことは、わかっているんですけど……でも、どうしても、挑戦してみたいんです」


 ぎゅっと汗がにじむ手のひらを握りしめて、真剣に山里マネージャーを見つめる。生半可な気持ちではないということを、どうしても伝えたかった。

 そんな私を山里マネージャーはじっと見つめて、それからふっと表情を崩して微笑んだ。


「……青澤さんさ、配属になった日、私になんて言ったか覚えてる?」


「えっ?」


 突然そう言われて、頭の上にクエスチョンマークが浮かんだ。

 山里マネージャーと、初めて話したときのこと? 私は何を話したんだろう。何か失礼なことを言ってしまったんだろうか。とっさに思い出そうと思わず視線を泳がせると、山里マネージャーは笑って言った。


「私は覚えてるよ。だってすごくびっくりしたの。青澤さんね、“過去三期分の財務諸表と、中期経営計画を見せてくれませんか”って言ったんだよ。新人さんにそんなこと言われたの、初めてだった」


 そんなこと……言ったっけ。いや、言ったかもしれない。だって、入社してすぐのころは、結衣さんがこの会社で何をしようとしているのかを、とにかく知りたくて必死だった。


「そのあとも、一生懸命勉強して、たくさん質問してくれたよね。会社の経営方針をきちんと理解しようとしてた。そういう人って、案外少ないのよ。だからね、本当はずっと思ってたの。この子は予算管理じゃなくて、経営企画とか、そっちのほうに興味があるのかもしれないなーって」


 そう言われて思い出す。確か入社してすぐは、山里マネージャーにはしつこいくらいに質問を繰り返していたような、気がする。


「……すみません、すごく面倒な部下で」


 思い返すと恥ずかしいことばかりだ。結衣さんの力になりたくて、私も必死だったから……。しょぼくれてそう言うと、山里マネージャーはふふふ、と笑って首を振った。


「そんなことないよ。私もね、予算管理課のマネージャーになる前は長いこと経営企画部にいたから、色んな話ができて楽しかったもの。話は逸れちゃったけど……何が言いたいかっていうとね、青澤さんが、チャレンジしたいって申し出てくれてすごく嬉しいの。これは私の素直な気持ち。社長の側で学べるチャンスなんてそうないよ。青澤さんにぴったりだと思う。だから、喜んで推薦する」


 笑ってそう言ってくれて、嬉しさから思わずぱっと顔をあげる。


「ありがとうございます。本当にいいんですか? 私、まだ研修中なのに」


「そんなの関係ないよ。やりたいと思ったときに、タイミングよくチャンスが巡ってくるわけじゃないから、チャンスがあるならチャレンジしてみる。それってすごく大事なことよ。だって、次にいつそんな機会がくるかもわからないのに、待っているのは勿体ないと思わない? もし駄目だったとしても戻ってくる場所もあるんだから。挑戦する価値はある。私は応援するよ」


 あぁ、この人が上司で本当によかったと心から思った。山里マネージャー、天然だなんて思ってごめんなさい。社会人になって、こういう風にたくさんの大人の人と関わるようになって、改めて思う。


 私はまだまだ幼くて、青い。一人じゃ何もできなくて、たくさんの人たちの支えがあってここにいる。

 結衣さんは、そんな風に新人が当たり前に一つずつ登っていくはずの階段を努力で全部飛び越えて、社長になったんだ。そこにどれほどの苦労があったんだろう。


 ありがとうございます、と、改めて深く頭を下げた。山里マネージャーが「私が推薦するんだから、絶対合格してね」と笑顔で言ってくれた。だから私も、笑って頷いたのだった。






***






 一泊二日の研修から戻ってきた三ツ矢さんと瀬野さんには、すぐに公募に申し込むということを伝えた。もし書類選考が通ったら、面談もある。隠しておく必要もないと思ったし、三ツ矢さんと瀬野さんには、少なからず迷惑をかけることになると思ったから。


 三ツ矢さんは、しっかりと私の手を握って「応援するよ」と言ってくれたし、瀬野さんは相変わらずの調子で「頑張ってねぇ」と一言、さっぱりとした応援の言葉をくれた。


 かくして予算管理課内の協力を得ることには成功したわけだけど、結衣さんには、秘書に応募するということは敢えて何も言わなかった。毎日続いているメッセージのやりとりでも、この話題には一切触れていない。

 だって結衣さんは、どういうわけか私といるときはあまり仕事の話をしたがらない。もしかして公私を分けたいタイプなのかもしれないと思ったから。


 春に、「夏は忙しくなる」と言っていた通り、大型リゾートホテルの新規オープンを間近に控えているせいか、結衣さんはいつも出張でいないか、いたとしても休憩なんて取らずに、コンビニの袋を手に下げて社長室に消えていく。そんな毎日を過ごしていた。


 もしも私が秘書になれたら、そんな結衣さんの支えになれるだろうか。いや、なれるだろうか、なんて弱気になっちゃだめだ。なるんだ、絶対に。それぐらい強気じゃないと、新人の私が他の候補者を押しのけて秘書になるなんてこと、できるわけがない。


 山里マネージャーは本当に仕事が早い人で、あれからすぐに推薦書を書き上げてくれた。時短勤務中で忙しいはずなのに、私の書いた志望動機までしっかり目を通して添削してくれて、本当に頭が上がらない。


 優しくて、思いやりがあって、おっとりしているようでいて、よく人を見ている。素敵な人だ。いつか私も山里マネージャーみたいになりたい。そんな風に思った。







 ほぼ山里マネージャーの指導のおかげで出来上がった応募書類は、締め切り三日前には無事完成した。誤字脱字もきちんとチェックしたし、内容は練りに練ってしっかり書けたと思ってる。


 想いだけなら、絶対に誰にも負けない。そう思って、応募フォームの投稿ボタンをクリックする。


「よし、投稿……っと」


 無事アップロードできたのを見届けてから、ふーっとため息をついて背もたれにぐっと寄り掛かった。これでまずは一安心。その後に書類選考があるらしいけれど、書類は結衣さんが目を通してくれるのかな?

 私が応募したことに対して、どう反応するのか少し気になった。どのぐらいの倍率があるかぐらい、聞いてみたら教えてくれるかな?


 すっかり冷たくなってしまった紅茶で唇を湿らす。集中しすぎて、淹れてからだいぶ時間が経ってしまった。

 やっぱり今夜、結衣さんにメッセージを入れてみようかな。そんなことを呑気に考えていたら、突然、モニターの右下にポンッと社内チャットのポップアップが浮かんで、そこに表示されたよく知る名前を私は思わず二度見してしまった。


「ん……?」


『今すぐ、社長室に来て』


 表示名には、「一ノ瀬結衣」と、そう書いてある。同姓同名の人なんてこの会社にはいない。まぎれもなくこの会社の社長である、結衣さんから私宛のメッセージだ。


 社内チャットが届くなんて初めてだった。だって、用事があれば個人携帯にメッセージが届くもん。社長室に呼び出されるのも、初めてだ。とすればこれは、私的な用事じゃない。絶対に仕事の話だ。


 なんだかこれは……嫌な予感がする。


「あ、あの、山里マネージャー」


「うん? どうしたの? 投稿できなかった?」


 我らが予算管理課のお誕生日席に座る山里マネージャーに、恐る恐る声をかける。


「いえ。投稿はできたんですが……今、社長から呼び出しがあったので、少し離席してもいいですか……?」


 言えば、がたり、と三ツ矢さんと瀬野さんが息を合わせたように椅子から立ち上がって慌てて私のモニターをかじりつくように覗き込んだ。まだ浮かんだままの社長からのチャットメッセージを見て、瀬野さんが首を傾げる。


「うわー……これ、だろうねぇ」


「どっちって? え、どういうこと?」


 三ツ矢さんが続いて、瀬野さんの言葉を確かめるように聞き返した。


「社長が呼び出すなんてよっぽどじゃない? 好意的なのかそうじゃないのか、わかんないねって意味」


 そう言われると、なんだかちょっと不安になってきた。結衣さんのことだから、怒らないとは思うけど……ちょっと心配になる。

 そわそわと落ち着きがなくなってしまった私の肩を、山里マネージャーがぽんと叩いた。


「こらこら、二人ともあんまり不安を煽らないの。社長のことは社長に聞かなきゃわからないんだから。とにかく、青澤さん、行っておいで」


 そう言われて、こくりと頷く。


「すみません、行ってきます」


 手帳とボールペンを引っ掴んで、先輩二人の応援を背に慌てて結衣さんの待つ社長室へと向かった。


 今まで、一度も入ったことのないその重厚感のある扉を前にして、私の心臓は今にも破裂するんじゃないかってくらいにドキドキと震え上がっていた。


 恐る恐るノックすると、中から「どうぞ」と結衣さんの声が聞こえた。







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