第63話 かなた、雪にぃは恋人いるからね?

 いただきます、と両手を合わせた後、ジェノベーゼをフォークに巻きつける。口に運ぶとバジルの香りが広がって、モチモチした生パスタの食感に、「わ、美味しいですね」と思わず口に出していた。


 そんな私を見て、雪哉さんはにっこり微笑んだ後、カルボナーラを口に運んだ。


「……てっきり、二人は付き合ってるんだとばかり思ってたけど、結衣の片思いだったんだね」


「いえ、その……付き合ってはいませんでしたが、片思いってわけではなくて……」


 思い返せば、私はもうあの頃から結衣さんのことが好きだった。いつ恋をしたのかなんてことは正直に言えばわからない。気付いた時には好きになっていた。それを認めるまでは……ちょっと時間がかかったけれど。


「そうなの? よかった、ホッとしたよ」


 私も結衣さんを好きだと言うことを暗に伝えれば、雪哉さんは嬉しそうに微笑んだ。


「雪哉さんは、結衣さんのこと……ご存知だったんですね」


 同性愛者というフレーズを、この場で口に出すのは憚られて少しだけ言葉を濁す。


「気付いてないのは父さんだけだよ。いくら婚約してるとはいえ、その前からも異性の浮ついた話なんて一度も聞いたことないし、不思議に思ってたんだけど……かなたちゃんに初めて会った時、確信した。なるほどね、結衣は女性が好きだったのか、って。本人の口から聞いたことはないから、知らないふりしてるけどね」


 確かに、あれだけ綺麗で男女問わずよくモテる結衣さんが彼氏の一人も作らないっていうのは、違和感があって当然かもしれない。北上さんに対しても全くと言っていいほど、興味無さそうだし……。


「それに、あの時の結衣、面白いくらい僕に嫉妬してたでしょ。わかりやすいよね」


 そう言って雪哉さんはけらけらと笑った。記憶を手繰り寄せて思い返せば、確かにあの時の結衣さん、すごく不機嫌になっていたっけ。


 本当だったら、私と結衣さんの関係はあまり褒められたものではない。北上さんと婚約している以上、気持ちはどうであれ、世間から見れば私は「浮気相手」だったわけだし……。

 でも雪哉さんの態度を見ると、私のことを好意的に受け入れてくれているような気がして、少しだけ安心した。


「……何があったのかは知らないけど、学生の時は、上手くいかなかったんだよね? すごく落ち込んでたから、本気で君のことが好きだったんだろうなって。もし慎二とのことが原因で、二人が別れちゃったんだとしたら、それは僕のせいだから……ずっと心苦しかったんだ。だから、かなたちゃんがまた結衣の元に戻ってきてくれて、本当に嬉しいよ」


「えっ……?」


 どうして、雪哉さんのせいになるんだろう。パスタを食べる手を止めて雪哉さんを見つめると、眉尻を下げて悲しげに雪哉さんは笑った。


「父さんが慎二を婚約者にしてまで結衣を後継者にしようとしてるのは、兄の僕がどうしようもないからだ。僕がずっと、父さんから逃げ続けてきたから、その皺寄せが結衣に行ってしまった。本当に、申し訳なかったと思ってる。だから、取締役の話も引き受けたんだ。結衣が社長に就任したいって言い出した時、父さんは早すぎるって取り合わなかったんだってさ。それで結衣が、僕に泣きついてきた。まさか僕が取締役になるってだけで父さんが了承するなんて、思ってなかったけどね」


 なるほど、それでグループとは関連がなかったはずの雪哉さんが取締役に就任することになったんだ。


 確かに、お父さんとしては一度離れてしまった雪哉さんを手繰り寄せられる貴重なチャンスだし、了承しないわけがないよね。さすが結衣さん、よく考えてる。


「結衣にね、どうしてそんなすぐに社長になりたいのって理由を聞いたら、慎二と婚約破棄したいって言うから……僕も全力でサポートしようと思ったんだ。実際、この二年で利益が出る経営基盤を整えることができたと思ってる。これは結衣の努力の結果で……原動力である君のおかげでもあるってわけ」


「そんな、私は何も……」


 結衣さんが婚約破棄するために努力してきたことが、私のためとは限らない。だって、この再会だって本当に偶然で、もしも今結衣さんが私のことを好いてくれていたとしても、それは焼け木杭に火がついたってだけなのかもしれないし……。

 でも、もしも本当に私のためなんだとしたら……こんなに嬉しいことはない。じんわりと胸の奥が熱くなってくる。


「僕は結衣に、自由に生きて欲しいんだ。自分を押し殺してまで、父さんや僕のために生きて欲しくない。だから、もし君がまだ結衣のことを想ってくれているなら、僕も二人を応援する。父さんも……結衣の頑張りを知ればきっと、わかってくれるはずだよ」


 雪哉さんがそう言ってくれると、なんだかすごく安心する。そうだよね、結衣さんのお父さんは不器用な人だけど、すごく愛情深い人だって言うのは結衣さんから色んな話を聞いた上で、わかっている。


 雪哉さんのことだって、取締役に就任すると聞いて、本当に喜んだに違いない。親子だもんね。


 でも、やっぱり心配がなくなったわけじゃない。お父さんはいいとして……北上さんは、それで納得してくれるような人なんだろうか。


 結衣さんは、十八の時に婚約したと聞いている。とすれば、今年の秋で丸八年になる。いくらなんでも、そんな長い期間婚約していた相手が、黙って身を引いてくれるものなんだろうか。


「雪哉さん。その……北上さんって、どんな人なんですか?」


 聞けば、雪哉さんは眉根を寄せて、うーん、と渋い顔をした。


「そうだな……良くも悪くも上昇志向が強いタイプ、かな。僕にも、子供の頃から何かにつけて張り合ってきて……めんどくさいやつだよ。ま、努力家なのは認めるけどね」


 幼馴染とは言っていたけど、雪哉さんもあまり北上さんをよく思ってなかったんだっけ。

 確かに、結衣さんと結婚すれば一ノ瀬グループの重要なポストに付くことは間違いないだろうし、努力も当然必要になってくるだろう。


「そもそも、婚約自体、僕は反対だったんだ。結衣がいいっていうから何も言わなかったけど……やっぱり、全然よくなんてなかった。その時に気付けなかった、僕の落ち度だ」


 はあ、と深いため息をつく雪哉さんに、思わず薄く笑う。結衣さん、やっぱり愛されてるなあ。なんだかすごく、優しい気持ちになる。


「雪哉さん。北上さんは……結衣さんの人生に、必要な人ですか?」


 四年前、結衣さんの人生に必要なのは私ではなく彼なのだと思って、身を引いた。だから聞いてみたかった。北上さんをよく知る雪哉さんなら、どう思うのかを。

 尋ねると、雪哉さんはじっと私を見た。だから私も、結衣さんに似たその瞳を、真っ直ぐに見つめ返す。


「……それは、父さんや僕が決めることじゃない。結衣にとって必要な人は、結衣が選ぶべきだから」


 そう言われて、胸の奥にわだかまっていた迷いがすっと取れたような気がした。

 そうだ、それは結衣さんが決めるべきことで、私が決めるべきことでもない。


 もしも結衣さんが私を選んでくれるなら、今度こそ——もう二度とあなたを置いて逃げたりしない。そう、思った。





 今日、雪哉さんに会えて、話ができて本当によかった。迷いが晴れたような気がしてなんだかすごく清々しかった。

 おすすめの生パスタをぺろりと平らげたあとに、食後の紅茶までご馳走になってしまった。これで午後からは集中して仕事ができそう。


 戻ったら、山里マネージャーに、自分の気持ちを伝えてみよう。渋られるかもしれないし、もしかして無理かもしれない。それでも試してみないとわからない。

 結衣さんの支えになりたい。雪哉さんと話してその気持ちはいっそう強くなった。

 


「そうだ、かなたちゃん。今度こそ連絡先教えてよ。何かあったら、いつでも連絡して」


 連絡先を交換すると、雪哉さんは唇の前に人差し指を立てて、「結衣には秘密ね」と悪戯に笑った。


 そんな笑顔も結衣さんによく似てる。つられて私も笑って、「秘密にします」と約束した。





 お店を出て腕時計をみると、お昼に出てからちょうど一時間くらい経とうとしていた。いい時間だ。


 連れ立ってまたオフィスまでの道のりを歩く。近くてよかった。七月にもなると、お昼の時間はジリジリと照るように暑い。


「雪哉さんは、この後また結衣さんのところに戻るんですか?」


「ううん。もう用は済んだから、自分の会社に戻るつもりだよ」


 それなのにわざわざオフィスまで送ってくれたんだ。一ノ瀬家の人たちって本当に優しい。自動ドアの前まで来てから、雪哉さんに深々とお礼をした。


「今日はご馳走様でした」


「こちらこそ、付き合ってくれてありがとう。じゃあ、僕は……」


 もう行くね、という雪哉さんの声に被るように、よく知る声に「かなた」と呼ばれて、振り向く。


「……なんでかなたと雪にぃが一緒にいるの?」


 コンビニのビニール袋を片手に下げた結衣さんが、むっと不機嫌そうに眉根を寄せてそこに立っていた。


「偶然会ったから、ランチに誘っただけだよ。だって結衣が一緒に行ってくれないからさ。ね、かなたちゃん」


「そ、そうです。一緒にランチに行っただけで……」


 なんだか嫌な雰囲気。きょろきょろと二人を伺い見ると、ぐいっと腕を掴まれて、雪哉さんから距離を取らされる。

 結衣さんが、焦ったように私の顔を覗き込んだ。


「かなた、雪にぃは恋人いるからね?」


 聞いてもいないのに、念を押すようにそんなことを言われて、私は思わずきょとんと目を丸める。

 すると雪哉さんがあはは、と声を出して笑った。


「そんなに心配しなくても、口説いてないよ。ね?」


 同意を求められて、こくこくと頷いた。結衣さん、雪哉さんのことになるとすぐに機嫌が悪くなるんだもん。

 どうしよう、とおろおろしていると、雪哉さんはそんな私を見てふふっと笑った。


「じゃ、僕はもう行くから。またね、二人とも」


 そう言ってひらひらと手を振って、あっさりと行ってしまった雪哉さんの背を見送る。触らぬ神に祟りなし……そう思ったに違いない。


「……かなた」


 名前を呼ばれて、ぎこちなく振り向く。すると結衣さんは不自然なくらいにっこり笑って、「中、入ろっか」と私に言った。





「……結衣さん、お昼ご飯、それだけですか?」


 エレベーターを待つ間、結衣さんが手に持つコンビニの袋をじっとみる。おにぎり一個に、サラダ、かな?


 大型リゾートホテルの新規オープンを来月に控えていることもあって、結衣さんは社食で昼食を取る時間も惜しいほどに忙しいみたいだ。


「……かなたは、雪にぃと何食べてきたの?」


 そう聞き返されて、あ、話題のチョイスを間違えたかもと思った。だって笑っているように見えるけど、その瞳の奥は全然笑ってない。


「えっと、パスタをご馳走になりました……」


「ふーん……」


 エレベーターが来て、乗り込む。ドアが閉じると静まり返った空間がちょっとだけ気まずい。これじゃ、私も秘書に立候補してもいいですか、なんて聞ける雰囲気じゃないや。


「何も雪にぃと一緒に行かなくても……私の方が美味しいお店知ってるのに」


 そっぽを向いて、ぼそり、と結衣さんが呟いた。思わず笑ってしまいそうになって、慌ててきゅっと唇を噛み締めた。


 なんだ、やっぱり嫉妬してくれてたんだ。結衣さんってば、可愛い。


 きゅっと、結衣さんの指先を掴む。ピクンとその肩が驚いたように跳ねたから、私は堪えきれずにふふふ、と笑ってしまった。


「じゃあ今度、美味しいお店に連れてってください。お休みの日に」


「それって……デートのお誘い?」


 目を丸めて、結衣さんが私の顔を覗き込んだと同時に、エレベーターが目的の階についた。


 気軽に話しているところを見られたらまずいから、繋いだ指を離して、ドアが開くと同時に私は足を進める。

 そしてその質問には答えずに、結衣さんを振り返って言った。


「午後からも、お仕事頑張りましょうね」

 

 結衣さん、嫉妬してくれてたし、やっぱりまだ私のこと好いていてくれてるって、思ってもいいかもしれない。


 そう思ったら嬉しくて、オフィスへ向かう足取りは軽かった。

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