社会人二年目、夏。

第62話 だって、学生のとき、付き合ってたよね?

 街路樹の葉が青々と輝き始め、ビル群の隙間から覗くコバルトブルーの空には大きな入道雲が浮かんでいる。


 今年もいよいよ、待ち望んだ夏がやってきた。


 オフィスは、最寄りの駅から数分歩くだけの距離にあるけれど、どうしてもこの時期は、肌に張り付くような夏特有の湿度を含んだ空気のせいで、出勤するだけでも汗ばんでしまう。


 自動ドアをくぐると、冷えた風が頬を撫でて気持ちがいい。

 今日も、お仕事頑張ろう。エントランスにあるセキュリティゲートに社員証を翳してから、エレベーターを目指した。







「山里マネージャー、おはようございます」


「おはよう、青澤さん」


 予算管理課のデスクには、今日は山里マネージャーしかいなかった。そういえば三ツ矢さんと瀬野さんは、二人そろって一泊二日の研修だって言ってたっけ。


 同じ部署だからという理由で同室に泊まることになってしまったらしく、三ツ矢さんが「瀬野さんと同じ部屋なんて嫌だ」って文句を言っていたから強く印象に残っている。

 売り言葉に買い言葉で、瀬野さんも「喫煙者と同室なんて無理」なんて、大騒ぎしてた。


 あの二人、犬猿の仲なのに緩衝材がいなくて大丈夫かな、と私は密かに心配していたけれど、山里マネージャーはいつものように言い合う二人を見て、「いつの間にそんなに仲良くなったの?」なんて不思議そうに首を傾げて言っていた。


 どこをどう見たら仲が良いように見えるのか私にはわからなくて、山里マネージャーって、もしかしてすごく天然だったりするのかもしれないと思ったのだった。




 そんなことを思い出しつつデスクに座ると、さっそくPCを立ち上げた。出勤後、何をするかのルーティーンは決まってる。

 まずは朝一でイントラを立ち上げて、掲示板をチェックする。知っておくべき会社の情報は常に掲示板にアップロードされるから、毎日確認してねと配属になってすぐ、山里マネージャーから指導を受けた。


 だから今日も例に漏れず、掲示板をクリックする。すると、表示された最新の投稿のうちの一つに目を奪われて、マウスを握る手が固まってしまった。


「公募……?」


 NEWという赤いアイコンのすぐ横に表示されている、「社内公募(社長秘書)のお知らせ」という文字。カーソルを合わせて、クリックする。


 春の終わりに、結衣さんは確かに、夏から秘書を付けるつもりだと言っていた。だけど――私はてっきり、すでに秘書にしたい人材に目星がついているのだと思っていた。まさか、公募するなんて。


 アップロードされていた通達には、社長秘書を募集するに至った経緯と、募集要項が記されていた。

 社歴、年齢、所属部門問わず、直属上司の推薦書と本人の志望動機をA4で一枚用意して、応募フォームから申し込むように、と。

 応募可能期間はたったの二週間。選考期間は一か月。書類選考ののち、対象者と個人面談を行って、ひとりを決める。簡単に言えば、そう書いてあった。


 室内はエアコンが効いているはずなのに、マウスを握る手の平が、じんわりと汗ばむ。とくとくと、心臓が徐々に脈を速めていくのがわかった。


 率直な気持ちを言えば、これは千載一遇のチャンスかもしれない、と思った。だって私はずっと、結衣さんの力になりたいと思っていたから。


 でも、残念なことに私はまだ入社して日も浅く、今はOJT研修期間の真っ最中の身。

 応募には、直属上司の推薦書が必要。私の一存では決められない。まだ一人前にもなっていないのに……できるわけ、ない。



 そんなことを通達と睨めっこしながら悶々と考えていたら、後ろから「青澤さん」という声と同時にぽんと肩を叩かれて、驚いて小さく悲鳴を上げた。


「ひゃあ!」


 慌てて振り向くと、山里マネージャーが後ろに立っていた。驚いた私を見て、ふふふ、と笑みを浮かべる。


「さっきからずっと声かけてたのに」


「す、すみません、気付かなくて」


「ううん、いいのいいの。ちょっと頼みたい仕事があったんだけど……それ、見てたんだ? びっくりよねぇ。私もこの会社に十年以上勤めているけど、公募なんて、初めてよ」


 そう言って、山里マネージャーは私のモニターを覗き込むように屈んだ。


「どんな人が、応募するんでしょうね……」


 いいなあ。私だってあと二年、いや一年早く入社していたら、結衣さんの秘書になる未来もあったかもしれないのに。


「……青澤さん、もしかしてちょっと興味あったりする?」


「えっ」


 図星を突かれて、ぎくりと姿勢を正す。まだ仕事を教えてもらっている身で、別の仕事に興味がある、なんて生意気なこと、言えるわけがない。


「いえ、そんな、ただ見ていただけですから……」


 慌てて左右に首を振って、ウィンドウを閉じる。すると山里マネージャーは、「そうなの?」と言いながらも、意味深に口角を上げて笑った。

 なんだか、気持ちを見抜かれているような気がする。山里マネージャーって、天然だと思ってたけど、意外と鋭いところもあるのかもしれない……。







 はっきり言って、午前中はまったく仕事が手につかなかった。それもこれも全部結衣さんが悪い。

 秘書をつけるとは言ったけど、公募するとは私に一言も言ってくれなかった。


 きっと、私が秘書になりたいと思うなんて、微塵も思ってないんだろう。


 結衣さんは私にそんな役割は求めていない。それはわかっているけれど、一度その可能性が自分にもあるかもしれないと思ったら――結衣さんの隣にいることができる貴重なポジションを、別の誰かに譲りたくないという思いがむくむくと湧き上がってきてしまっていた。



 お昼の時間になると、私が集中できていないことに気付いたのか、山里マネージャーは、「疲れてない? 今日はお昼長めに行ってきていいよ」と私を休憩に送り出してくれた。


 せっかくだからと、ちょっと思考を整理しようと休憩スペースに足を運ぶ。赤いふかふかのソファに腰を落として、深くため息をついて項垂れた。




 結衣さんのバカ。なんで公募なんかするんだろう。もしも最初から別の誰かを選んでくれていたら、嫉妬こそしたとしても、私は自分がなりたいなんて思うことはなかったし、こんなにもやもやすることなんて、きっとなかった。


 そんなことを考えていたら、突然頬に冷たい感触がして――私は今日二回目の悲鳴をあげることになった。


「ひゃあ!」


「かなたちゃん、久しぶりだね。休憩中? こんなところで何してるの?」


 遠い記憶の中で、聞いたことのある男性の声がして、はっと顔を上げる。

 その、夜の海みたいな、深い黒の瞳を見つめ返した瞬間、私は驚きで固まってしまった。


「ゆ、雪哉さん!?」


 さっき私の頬に当てた冷たい缶コーヒーのプルタブを起こして、私に「はい」と手渡したあと、雪哉さんは私の隣に腰を落とした。


「えっと……あ、ありがとう、ございます」


「どうしたしまして」


 そう言って、結衣さんにそっくりの笑顔を私に向ける。整った容姿は相変わらず。ダークグレーのスーツを着こなす姿は清潔感があり爽やかで、雪哉さんは、男性版の結衣さんみたい。兄妹きょうだいだから、当たり前と言えば当たり前なんだけど。


 でも、どうしてこんなところにいるんだろう。だってここは、一ノ瀬グループ所有のビル。雪哉さんは独立して別の会社を立ち上げているはずだから、グループとは関係がないはずだった。


「雪哉さんは、どうしてここに?」


「あれ、もしかして結衣から何も聞いてない?」


 聞いてない、ってなんのことだろう。首を傾げると、雪哉さんはジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出した後、一枚を私の目の前に差し出してくれた。


 そこに記されていた肩書きを見て、私は慌てて背筋を伸ばす。


「雪哉さん、うちの取締役だったんですか? すみません、そんな大事なこと、存じ上げなくて……!」


 驚いてその顔を見つめると、雪哉さんがにっこりと笑った。


「気にしないで。ところでかなたちゃん、お昼はもう食べた?」


 え、お昼? 脈略もなくそう問われて、私は左右に首を振った。


「よかった。僕もまだ食べてないんだ。さっき結衣を誘ったんだけど、忙しいって断られちゃってさ。よかったら一緒にどう?」


「へっ?」


 まさかお昼に誘われるなんて思ってなくて、缶コーヒーを持ったままびっくりして固まってしまう。

 すると私の顔を覗き込んで、雪哉さんは、「やだ?」と追い打ちのように聞いてきた。


 なんかこういう強引なところも、ちょっと結衣さんに似てる……。断る理由なんてどこにもなくて、私は「一緒に行かせていただきます」、と頷いていた。




***




「かなたちゃんはパスタ好き? 近くに美味しいところあるんだけど、どうかな」


「パスタ、好きです」


「そっか、よかった」


 歩くペースを自然と合わせてくれる雪哉さんと歩いていると、なんだか結衣さんと歩いているような気になってくる。本当、似てるんだよね、雪哉さんと結衣さんって。


 隠れ家を思わせるおしゃれなお店に入ると、カウンターに案内されて二人並んで座った。なんでも、昼はランチ営業をやっていて、夜はバーになるんだとか。おしゃれなわけだ。


「好きなの何でも頼んでいいよ。いつも結衣がお世話になっているお礼だから」


 そう言って、雪哉さんは分厚い表紙のメニューを手渡してくれた。


「ありがとうございます。でも、お世話になっているのは私のほうですよ。ご馳走になるなんて申し訳ないです……」


 始まりは偶然だったにしろ、なんだかんだ今は結衣さんの会社で働かせてもらっているわけだし。


 緊張で喉が渇いてしまって、出されたお水に口をつけると、少しだけレモンのフレーバーがした。


「遠慮しないでよ。結衣のなら、僕の妹みたいなものでしょ」


「げほっ!!」


 恋人。突然、爆弾のように降ってきたそのフレーズに、思わず口に含んでいた水を飲み込み損ねて思い切りせき込む。


「大丈夫?」


 心配そうにとんとんと背中を叩かれて、ナプキンで口元を拭いながら「すみません」と思わず謝ってしまったけど、違う、まって、そうじゃない。


「あの、雪哉さん、って、どうして……」


「あれ、違った? 結衣から、かなたちゃんが入社したって聞いたからさ、てっきりよりを戻したんだと思ってた。だって、学生のとき、付き合ってたよね?」


 雪哉さんは平然と、まるで気にも止めてないかのようにそう言ってのけた。だから私は動揺を隠せなかった。

 だって、結衣さん、雪哉さんに同性愛者だって言ってない……よね?


 揺れる私の感情を見抜くように、結衣さんと同じその深い黒の瞳が優しく細められて——あぁ、そうだった、と思い直す。

 雪哉さんは結衣さんと同じで、ものすごく洞察力が優れているんだってこと、忘れていた。


 まさか、雪哉さんが、結衣さんがだって気付いてたなんて、私にとって予想外の出来事だった。






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