第61話 どうしてそんなに可愛いの?

 久しぶりのデートに、浮き足立つ心が止められない。


 朝食を食べたあと、結衣さんにお願いして一度家に戻って服を着替えた。


 デートのために新調した服を見て欲しかったというのが理由。わざわざ着替えたいなんてめんどくさいと思われるかな、と思いながらも支度を済ませて結衣さんが待つ車に戻ると、「かわいい」って褒めてくれたから、やっぱり今日のために新しく服を買ってよかったと心から思った。






 最寄りの駐車場に車を停めた後、お店に案内しようと「こっちです」と行く先を指差せば、結衣さんが私の手を取って繋いだ。見上げると、結衣さんは嬉しそうに笑っている。


「結衣さん、この手、なんですか……?」


 学生の時はいつも手を繋いで歩いていたし、離して欲しくて聞いたわけじゃない。照れ隠しでしかないのだけど、そんな私に気付いているのかいないのか、結衣さんはいつもと変わらない調子で私を見つめる。


「デートなんだし、いいじゃん」


「……会社の人に見られても、知りませんよ?」


「いいよ別に。その時はうまく誤魔化すから」


 そんなことをさらりというけど、本当に見られてもいいと思っているのかな。結衣さんって本当にわからない。

 躊躇いなく繋がれた手を振り解く気なんて初めからなくて、私もギュッとその手を握り返した。







 結衣さんが紅茶を好きになってくれたと知って、まずは絶対にこのお店を紹介しようと決めていた。


 もともとはイギリスにある老舗。ありがたいことに日本にもテナント出店している紅茶の専門店だ。ロンドンに住んでいた頃からの行きつけで、今も帰るたびに足を運んでいる。

 紅茶だけに限らず数が豊富だし、きっと結衣さんの口に合うものが見つかると思う。


「紅茶ってこんなに種類があるんだ、知らなかった」


「結衣さんは、アールグレイが好きなんでしたっけ」


「うん、いい匂いだよね。それと朝はミルクティー飲んでるよ。お店で買ってる」


 そう言われて、いつも結衣さんが出社時には必ず駅前のミルクティー専門店のドリンクカップを持っていることを思い出していた。


「ミルクティーが好きなら、ブレックファストがおすすめですよ。私も、ここでよく買ってます」


 見慣れた緑色の缶を手に取る。この缶のデザインもすごく可愛いんだよね。スーパーマーケットとかで手軽に買えるような紅茶と比べれば少し高いけど……でも、やっぱり好きなものにはお金をかけたい。だって、本当においしいし。


「じゃあ、それ買ってみようかな」


 そう言って、結衣さんは躊躇いなく私がおすすめした紅茶を手に取ってくれた。


「そういえば、ティーポットはお家にありますか?」


 確か四年前には結衣さんの家になかったはずだけど、私がいない間に買ったりしただろうか。そう思って聞けば、結衣さんは左右に首を振った。


「ううん、持ってない。このお店で買える?」


「売ってますけど……ちょっと高いですよ? ここのティーセット、可愛いからいつか欲しいなとは思ってましたけど、なかなか手が届く値段じゃなくて……」


 ティーカップとソーサーのセットですら三万円近くするから、ポットまで揃えようと思ったらとんでもない値段になる。社会人二年目の私が買い揃えるには、少し勇気がいる価格帯だった。


「そうなんだ。じゃあ、かなたの分も一緒に買ってあげる」


 えっ、と思わず声をあげて、結衣さんを振り向く。すると結衣さんは私を置いて、食器類が陳列されている棚へとすたすたと歩いていってしまったから、慌てて後を追った。


 棚に並べられたカメリアのデザインがあしらわれた小さなティーポットを手に取ると、「本当だ、可愛いね」と結衣さんは呑気に笑った。


 待って結衣さん、ちゃんと値札を見てください——そう言いかけて、思い直す。


 そうだった、結衣さんには「数万円」を高いと思う感覚はない。

 結衣さんは基本的に無駄なものを買わない。家の中はいつも綺麗に整頓されているし、シンプルで、ものが少ない。


 それだけに、欲しいと思ったもの、買うと決めたものに対しては全くお金を惜しまない。


 結衣さんは、そういう人だった。


「せっかくだから、お揃いにしようよ」


 にこにこ嬉しそうに笑って言う結衣さんに、なんだか肩の力が抜けていく。


 お揃いという申し出は、素直に嬉しく思った。お家で紅茶を淹れるたびに、きっと結衣さんを思い出すだろう。

 それもいいかも、なんて、私もその気になってしまう。


「それなら……自分の分は、自分で出します」


 お揃いは魅力的だけど、結衣さんにはいつもお金を出してもらってばかりだし、気が引けてそう言うと、結衣さんは首を横に振った。


「いいよ。これは今日、紅茶選んでくれたお礼だから」


 お礼にしては、高すぎると思うんだけど……。そう思いながらも、私がお財布を出すのを絶対に許さない結衣さんに結局押し負けて、私はずっと憧れていたティーセットを手に入れたのだった。






「……ありがとうございます。これ、ずっと欲しかったから、嬉しいです」


 お会計が終わって、感謝の気持ちを伝えると、彼女は優しく目を細めて私を見つめた。


「他に、欲しいものある? せっかくのデートだし、なんでも買ってあげるよ」


 私を甘やかすようにそうやって言うから、ずるい。今の私が欲しいと思うものをあっさりと伝えられたらいいけど、それは決してお金では買えない。


「……結衣さんの貢ぎ癖は相変わらずなんですね。ちょっと心配になっちゃう」


 結衣さんのお給料がどのくらいなのかは知らないけれど、それにしたってちょっと私のことを甘やかしすぎなんじゃないだろうか。


「そんなの、今に始まったことじゃないでしょ? かなただけだから、心配しなくていいよ」


 そうじゃなきゃ困る。結衣さんは私だけに優しくしてくれなきゃ嫌だ。私だけを想ってくれなきゃ、嫌。その心が一ミリだって他の子に傾くことなんて、私は絶対に許せない。


 結衣さんの、荷物を持ってない方の手をそっと取って、繋ぐ。すると結衣さんは驚いたように、少しだけ目を見開いた。


「……じゃあ、可愛い部屋着、買ってください。結衣さんの家に、置いておくから」


 ぴったりと腕にくっついて、ねだるようにそう言えば結衣さんは私の手をぎゅっと握り返して、「うん、いいよ」と嬉しそうに笑った。






 一着でいいって言ったのに、気付いたら結衣さんは二着も買ってくれた。決して安いものではないのに、「かなたが着てるところが見たいから」って、本当に嬉しそうに言う。そんなふうに言われたら私は頷くことしかできなくなる。


 私は結衣さんのその笑顔に弱い。その眼差しから、私を本当に大切に思ってくれているのが伝わってくるから。だから嬉しくなってしまう。きっと私だけが特別なんだって、そんなふうに思ってしまう。



 結衣さんの片手が紙袋で一杯になる頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。


 買ってきた荷物をトランクに積んだ後、車に乗り込む。ふと、私は結衣さんが今日お酒を飲みたいと言っていたことを思い出した。


「……そういえば、お酒飲みたいって言ってませんでした?」


 私が着替えたいって言ったから、車を出す羽目になっちゃったのかもなんて思って、ちょっとだけ申し訳ない気持ちになる。


 エンジンがかかると、生ぬるい空気を押しのけるように、冷たい風が吹き抜けて私の頬を撫でた。


「また今度でいいよ。二日連続は流石に……私も我慢できないかもしれないし」


 我慢できないって、なんのことだろう。首を傾げると、結衣さんは「なんでもない」と誤魔化すように笑った。






 夕飯までご馳走になって、車は私のアパートへと向かう。


 もっと一緒にいたい。帰りたくない。そんなふうに思ってしまう気持ちは自分でもどうしようもなくて、行く先々の信号機が全部赤になっちゃえばいいのになんて、そんなおかしなことをずっと、思っていた。


「今度、紅茶の淹れ方教えに来てよ」


「忙しくない時は、あの家に帰ってるんでしたっけ」


「うん」


 私が一年とちょっと、結衣さんと暮らした家。もう一度行きたい。私が結衣さんに親権を譲ったアザラシくんも、もしかしてそこにいるのかもしれない。


「……夏は、今より忙しくなりますか?」


「春よりは忙しくなるかも。新規オープンも控えてるし」


 私と違って、経営者である結衣さんは忙しい。出張だって多いし、貴重な休みを私のために割いてもらうのは、すごく嬉しいけど……申し訳ない気がする。


「……じゃあ、こんなふうに気軽には会えなくなりますね」


 めんどくさいことを言わない、物分かりのいい女性になりたいのに、私の心がそれを許さない。いじけるように言えば、結衣さんは笑って首を振った。


「そんなことないよ。時間なんていくらでも作れるから。二十四時間働いてるわけじゃないし」


「……ほんとに? 無理してませんか?」


「本当だよ。それに、夏から秘書をつけようかなって思ってるんだよね。そうすれば、多少は負担も減るから。流石にもう、一人でやるのは限界かなって思ってる」


「そうですか……」


 秘書、かぁ。それを聞いて胸の奥がちょっとだけもやっとして、顔には出すまいと窓の外を眺めた。


 女性、なのかな。美人じゃないといいな。だって、結衣さんとずっと一緒に行動することになるんだろうし。出張とかにも同行するんだろうか。もしも結衣さんの好みのタイプの女性で、万が一にでも好きになってしまったりしたら……。


 そこまで考えて、思い直した。こういうの……多分よくない。仕事のことなのに、嫉妬したりとか、そういうの。


 アパートまでの道のりにある、最後の信号が赤に変わり、車が緩やかに止まった。静かになった車内で、思い出したように結衣さんが口を開いた。


「夏、どこか行きたいところある?」


 私がまだ見ぬ結衣さんの秘書に嫉妬しているだなんて、多分露ほども思ってもいない結衣さんが、優しい眼差しで私を見つめてそう言った。


 行きたいところなんて、いっぱいある。ありすぎて困るくらいだ。

 少しだけ考えて、それから。結衣さんのその瞳を真っ直ぐに見て、今一番行きたい場所を口にした。


「……水族館」


「水族館? 好きだね、相変わらず」


 学生の時は、二人で過ごせた夏はたったの一度きりだった。でも、今も鮮明に覚えている。シャチを見に行ったこと。あの夏の匂い。頭から被った潮水の味。一つ残らず覚えてる。本当に楽しかったから。


「仕事が落ち着いてからでいいので……連れてってください」


「うん、いいよ。約束する」


 信号が、青に変わる。もう間も無く私の家についてしまう。名残惜しいけれど、また一つ次の約束ができた。それだけで今はじゅうぶんだと思えた。



 アパートの脇に車が停まる。本当は帰りたくないと思っていることをできる限り悟られないように、そっとシートベルトを外した。


「今日は、ありがとうございました」


「ううん、私の方こそありがとう。今日はすごく楽しかった」


 そう言って笑った後、結衣さんもシートベルトを外した。


「荷物、取るね」


 車を降りると、結衣さんがトランクからティーセットと、部屋着の入った紙袋を取って、私に手渡してくれた。


「ありがとうございます」


「もう一着は家に置いておくから、いつでも泊まりに来て」


 そう言って結衣さんは微笑んで、それから手を伸ばして私の頬を愛おしそうに優しく撫でた。

 こんなふうに少し触れられただけで、私の心臓は面白いくらいとくとくと鼓動を速める。


 結衣さんは今、何を考えてるんだろう。私は……帰りたくない。もっと一緒にいたい。そう思ってる。

 唇から零れ落ちてしまいそうになるのを、ぐっと飲み込んで頷くと、結衣さんは、眉尻を下げてふっと笑った。


「……かなたって、どうしてそんなに可愛いの? 帰したくないなぁ。やっぱり、今日も泊まっていかない?」


「えっ……」


 結衣さんが私の唇をじっと見つめたのがわかって、図らずもドキッとする。

 学生の時だったら、多分、結衣さんは迷わず私にキスしてくれた。

 でも今は——その優しい黒い瞳は私を見つめるだけで、決して触れようとはしてくれない。


 それなのに、その唇は私に思わせぶりなことばかり言う。そんなこと言われたら期待してしまう。私のことがまだ、好きだって。


 でもそれなら、どうしてそう言ってくれないんだろう。あの頃の結衣さんは、いつだって私に好きだと言ってくれたのに。


 今の結衣さんは、意地悪だ。


 言葉に詰まってしまった私に結衣さんは笑って、それから、その手はあっけなく離れていった。


「……ごめんごめん、冗談だよ。そんなに困った顔しないで」


 私も帰りたくないって、言えたらいいのに。言えない私の性格をよく知っているくせに、どうしてこのまま私の手を引いて、連れ去ってくれないんだろう。素直になれない、自分が憎い。


「……おやすみ、かなた」


「……おやすみなさい、結衣さん」


 もっと一緒にいたいと言い出せないまま、渋々アパートへと足を進めた。

 オートロックのドアの目の前で振り向くと、結衣さんはまだ車の外で私を見つめていて、笑顔で手を振ってくれたから、私も同じように手を振り返した。






 怒涛のような春が終わっても、相変わらず私はあなたのことが好きだった。再会してからその気持ちはもっともっと強くなって、もういつ溢れ出してもおかしくない。



 また、夏が来る。あの時は迎えられなかった二度目の夏を、今度こそ、あなたの隣で過ごしたい。


 どうか、あなたも私と同じ気持ちでありますように。


 今はまだ、そんなふうに祈ることしか、今の私にはできなかった。

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