第60話 あんまり無防備だと、次は本当に食べちゃうよ

 目の前に立つあなたは愛おしそうに私を見つめている。その眼差しが、たまらなく好き。いつだって私の胸の奥を熱くさせる。


 でも、彼女を見つめ返してから、これは夢だと、私はすぐに気が付いた。


 だって微笑むあなたは今よりも少しだけ幼くて、私が初めて恋した学生の頃のままの姿だったから。


 再会するまでの四年の間、こんな夢を何度も見た。会いたいと願う気持ちがきっと私に夢を見せていて、目が覚めるたびに打ちのめされるような気持ちになったのを覚えている。


「……結衣さん」


 噛み締めるように、そう名前を呼んでみる。


「なあに」


 優しい声が返ってくる。今も昔も変わらない、私のことを見つめるその瞳。そんな風に見つめられるだけで、私は呼吸すら忘れてしまいそうになる。


「ぎゅってして」


 呟くように言えば、嬉しそうに笑って私の身体を抱き寄せてくれる。


 学生の頃は、そうだった。抱きしめてとねだればいつだって、結衣さんはこうして私を抱きしめてくれた。


 その身体に擦り寄ると、大好きな結衣さんの匂いがする。


 あぁ、好きだなぁ。やっぱり私はあなたのことが好き。好きで好きでたまらない。どんなに離れていたとしても、この気持ちはずっと変わらなかった。


「……かなた、大好きだよ」


 そんな私の想いを汲み取るように、私を抱きしめるあなたは甘くそう囁いてくれる。


 これは、都合のいい夢だ。そう言って欲しいと私が望むから、そう再現されるだけ。わかっているのに嬉しくて、たまらずにぎゅうっと強くその身体を抱きしめ返す。


「……結衣さん、キスして」


 これは夢だから。何を言っても自由だ。この頃の結衣さんなら、きっと応えてくれる。今の結衣さんはどうか、わからないけれど。


 願った通り、夢の中の結衣さんは、嬉しそうに笑ってそっと私に唇を寄せた。


 どうか覚めないで、そう願いながら私も瞳を閉じる。

 このままずっと夢の中にいたい。できればずっと。そう願ったけれど——。








「……かなた、起きて。かなた」


「ん、んん……」


 まだふわふわするような眠気に包まれたまま、肩を揺すられてゆっくりと瞼を上げる。すごくいい夢を見ていたのに。ぼうっとする頭を再起動するようにぱちぱちと瞬きを繰り返すと、見知らぬ天井と、私を覗き込むその黒い瞳と目が合った。


「ん、あれ……? 結衣、さん……?」


 もしかしてまだ夢の続きを見ているのかな。でも、さっきの夢とは違うみたい。目の前に、夢とは違う少し大人びた結衣さんがいる。


 名前を呼ぶとふっと笑って、優しく私の頬を撫でてくれた。


「……早く起きてよ。デートするって約束したでしょ」


 そう言われて、途端に意識が急浮上する。それから間をおかずに、フラッシュバックする昨夜の記憶。


「……うわぁ!」


 びっくりして、飛び起きる。思わず、服を着ているかどうか胸元に手をやって確認してしまったから、そんな私を見た結衣さんが声を出して笑う。


「かなた、驚きすぎ。そんなに怯えなくても、何もしてないよ。昨日のこと、覚えてないの?」


 ぷしゅー、と、音が出てしまうくらい顔が熱く火照っていくのを感じる。


 忘れてるわけがない。泥酔して結衣さんに介抱して貰ったことも、抱きしめてとねだったことも、ぜんぶ。自分が結衣さんに何を言ったのか、一字一句覚えている。


 でも……それを認めてしまうのはあまりにも恥ずかしくて、私は思わず左右に首を振っていた。


「……覚えて、ないです」


 苦し紛れに言えば、悪戯な目が私の顔を覗き込んだ。


「……ふーん?」


 気まずくて視線を逸らすと、結衣さんはそんな私を見てまた笑った。


「……ま、別に覚えてなくてもいいよ。それより、お風呂入っておいでよ。お湯溜めてあるから」


 結衣さんはやけにさっぱりしているから、多分私より先に起きて入浴を済ませたんだろう。

 昨晩あれだけお酒を飲んだのに、奇跡的に二日酔いは避けられたみたいで、体調は至って普通で本当によかった。

 だって私も結衣さんとのデートを、楽しみにしてたから。


 差し出された部屋着を受け取ると、手を引かれるままにバスルームへと向かった。








 湯船に浸かると、じんわりと身体の芯から温まっていくのを感じる。慣れないバスルームは、あの家ほどは大きくはないけれど、それなりに広さがあって、綺麗だった。


 お湯に肩まで浸かって、ため息をつく。昨日の夜の失態を思い出すたびに、恥ずかしくて消えてしまいそうになった。


 覚えていないと言った私に、結衣さんはそれ以上深くは追求してこなかったから助かった。


 私がまだ結衣さんのことを好きだって、バレていないといいけど……。








 バスタオルで体を拭いて、髪の水気を取った後に、バスルームに来る前に渡された新品の下着に足を通す。私が寝てる間に、コンビニに買いに行ってくれたんだって。相変わらず、結衣さんはよく気が回る人だと思う。


 部屋着だと言う白いパーカーに袖を通すと、思った通り少し大きかった。十センチも身長が違えばそれもそうか。彼女の服を着たのはこれが初めてで、なんだか付き合ってるみたいだな、とぼんやりと思ってしまった。


 身体があったまっているうちに髪を乾かそうと脱衣所を見渡すも、ない。あるはずのドライヤーがそこにない。


 もしかして……なんだか前にも見た光景だな、と薄く笑って、私は肩にタオルをかけたままリビングへと向かった。





 ドアを開けてひょっこりと顔を出すと、私の予想はあたりだった。ドライヤーを手に持った結衣さんが、ソファで私を待っていた。


「おいで、髪乾かしてあげる」


 にっこり笑って手招いてくれる結衣さんに、つられて私も笑ってソファへ足を進めた。



 こうして髪を乾かしてもらうのも本当に久しぶりだ。

 あの頃と変わらない慣れた手つきが懐かしい。こうしていると昔に戻ったみたいで、胸の奥がくすぐったくなってくる。


 もし、結衣さんが今も同じ気持ちでいてくれるなら。来年の春がきたら、私たちの関係は何か変わるだろうか。


 三年で結果を出すというお父さんとの約束を果たすことが、婚約破棄の足がかりになるというなら……そのために、私にもできることがあればいいのに。


 この関係に、名前をつけたい。四年前は叶わなかった恋。今度こそ、私はあなたの恋人になりたい。そう願っても、いいのかな?



 悶々と考えているうちに、気付けば髪はあっという間に乾いていた。ドライヤーのスイッチを止めて、私の髪を軽く撫でて整えた後、気持ちがいい指が離れていく。


「はい、終わり」


 ボディソープも、シャンプーも同じ。全身結衣さんと同じ匂いに包まれているのが嬉しくて自然と笑顔になる。


「ありがとうございます」


「うん」


 私がいない間、結衣さんがどんな風に暮らしていたのかはわからない。でも、こんな風に結衣さんが特別扱いしてくれるのは、昔も今も私だけであって欲しいなと思わずにいられなかった。


 顔が見たくて振り向こうとした瞬間だった。突然、ギュッと後ろから抱きしめられて、心臓がびっくりして跳ね上がる。


「あの、結衣さん……?」


 学生の時は——当たり前のようにこうして抱きしめてもらっていたのに。今は少し身体が触れ合うだけでも緊張する。


 動けなくなってしまった私に笑って、結衣さんは私の耳元に唇を寄せて囁いた。


「昨日の夜、酔ったかなたもとっても可愛かったけど……お酒には、気をつけてね。あんまり無防備だと、次は本当に食べちゃうよ」


 やっぱり「覚えてない」なんて嘘だって、結衣さんは絶対に見抜いてる。


 顔を赤くして俯いてしまった私に結衣さんは笑って、それからそっと私を抱きしめた腕を解いた。


「さ、朝ごはん食べよっか」


 こうして話していると、結衣さんはあの頃と変わらない。今日のデート、心臓持つのかな、なんて思いながら、私はただ頷くことしかできなかったのだった。




 私が入浴している間に、結衣さんはサラダとスープを作ってくれていたらしい。バターがたっぷり染み込んだ焼きたてのトーストがダイニングテーブルに並べられて、昨夜あれだけ食べたのにまたお腹がぐーっと鳴いた。


 「いただきます」と両手を合わせれば、「召し上がれ」と返ってくる。


 こうして一緒に朝食を取るのが当たり前だったあの頃と何も変わらない朝を迎える日が来るなんて、きっと数ヶ月前の自分に言っても信じなかったと思う。


 今、確かに目の前には結衣さんがいて、優しい瞳が私を見てる。さくっと音を立ててトーストを齧った私を見てから、少し遅れて結衣さんもトーストを口に運んだ。


「……結衣さんの部屋着、ちょっと大きかったです」


 結衣さんの服ってすごくいい匂いがするから、貸してくれるのは嬉しいけど。やっぱりちょっと、袖が余る。


「本当だね。それはそれでかわいいけど……今日、ついでにかなたの部屋着も買いに行こっか。今後いつ泊まりに来てもいいように」


 いつ泊まりに来ても……って、どんなつもりで言ってるんだろう。


 黒い瞳を悪戯に細めてそんなふうに言うから、私はなんて答えたらいいのかわからずに、ごまかすようにサラダのミニトマトにフォークを突き刺した。





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