第59話 別れてよ、今すぐ
「かなた、起きて」
肩を揺すられて、微睡みから引き戻される。揺れる車内が心地よくて、少しだけ眠ってしまっていたらしい。いまいち状況を理解できないままの私の手を、結衣さんがそっと引いた。
「足元、気をつけてね」
促されるままタクシーを降りると、ひんやりとした夜風が頬を撫でた。意識はまだアルコールのせいでぼうっとしていて、タクシーのドアがバタンと閉まって、エンジン音と共に去って行ってしまってからようやく、あれ、どうして結衣さんも一緒に降りたんだろう、と首を傾げた。
「大丈夫? 歩ける?」
きょろきょろと周りを見渡す。私のアパートとは随分かけ離れている高層マンションが目の前に佇んでいて、あたりは見知らぬ景色が広がっている。
「あれ、結衣さん、ここ、わたしの家じゃないですよ。どこですか……?」
そう言いながらも手を引かれるままついて行くと、結衣さんは高層マンションの入り口にカードキーを翳した。自動ドアが開いて、促されるまま足を進める。
「私の家。こんな状態で一人で帰すの、心配だから」
え、結衣さんの、家? そういえば、会社の近くにマンションを買ったって前に言っていたっけ、と思い出す。そんなに心配されるほど自分が酔っているのかどうかはわからなかったけど、でも、そっか、今夜は一緒にいられるんだ。そう思ったら、自然と頬が緩んだ。
結衣さんのマンションは、想像以上に広かった。さすが社長なだけある。リビングは、私が大学時代に居候していたあの一軒家と同じぐらいの広さがある。仕事で寝泊まりするだけにしては、もったいないくらいだった。
「お水用意するから、ソファに座ってて」
心配そうに顔を覗き込みながらそう言われたけれど、私は左右に首を振った。
「やだ、水飲まなくて良いです。もう、眠たい……」
さっきまで結衣さんの肩を借りて眠っていた余韻が残っているせいで、ものすごく眠い。今にも瞼が降りてきそうだ。いっそソファに横になって寝ちゃえ、と座ろうとしたら、それを結衣さんは慌てて制した。
「かなた、寝るならベッドで寝て。ソファで寝たら、身体痛くなるから」
「え、でも、お風呂も入ってないし……」
「いいよ、気にしないから。ここまで酔ってたら、お風呂入るの危ないでしょ」
私の身体を支えながら、結衣さんが言った。その様子から察すると、あまり自覚はないんだけれど、どうやら私は相当酔っているらしかった。確かにちょっと胸のあたりがふわふわしているし、夢の中にいるみたいな感覚はあるけれど。
「寝室、こっちだから。おいで」
手を引かれて、そのままついて行く。ドアの向こうにある、大きなベッドしかない殺風景な結衣さんの寝室は、記憶の中の結衣さんの部屋とどこか重なるところがあった。
座るように促されるままベッドに腰を下ろすと、心臓がとくとくと脈打ち始める。学生の時も、結衣さんのベッドで寝たことは何度かあったけど、そのたびにいつもドキドキしてたなぁ。だって、結衣さんのベッドってすごく良い匂いするんだもん。
そんな私を知ってか知らずか、結衣さんはクローゼットからごそごそと部屋着を取り出して、私の膝にぽんと置いた。
「そのまま寝たら疲れちゃうよ。寝る前に着替えたら?」
そんなことを、私を見下ろしながら結衣さんは言う。確かに、このまま寝るよりは、着替えたいかも。そう思って私は、結衣さんに向かって両手を伸ばした。
「……むり、ぬげない。結衣さんがぬがして」
「えっ」
私を見下ろす結衣さんが、一瞬、かちんと凍ったように固まった。なんでそんなに困惑しているんだろう。
だって私は今日に限ってめんどくさい服を着てきてしまった。ブラウスのボタンは背中側にあるし、自力で脱ぐのは、今の私には難易度が高い。
「結衣さん、はやく」
両手を伸ばしたまま急かすようにそういえば、結衣さんは苦笑いして、それから左右に首を振った。
「いや、それはちょっと……」
その態度に、むっとする。なんでそんなに嫌がるんだろう。学生時代の結衣さんだったら、「仕方ないなぁ」って言いつつも、絶対やってくれたはずだ。どうして今の結衣さんは、私のお願いを聞いてくれないんだろう。
——やっぱりもう私のこと好きじゃない、とか?
嫌な考えが頭に浮かんだのを打ち消すように、伸ばした手でそのまま結衣さんの腕を掴んで、それから後ろに倒れ込むように勢いを付けて引っ張った。
「わ……っ」
バランスを崩した結衣さんが、私に覆い被さるように倒れ込む。私を押しつぶさないように両手をついて踏みとどまった結衣さんに閉じ込められるように寝転んだ私は、逃げられる前にと両手を精一杯伸ばして、結衣さんの首を抱き寄せた。
「か……かなた?」
動揺したような結衣さんの声が耳元でする。それよりも先に、彼女の首筋に顔を埋めて、すうっと息を吸いこんだ。
甘くて懐かしい、泣きたくなるほど大好きな香りがする。
「……いい匂い」
自然とそう呟いていた。少し遅れて、結衣さんが私の要望どおり、あの頃と同じ香水に戻してくれたということを知る。
あぁ、よかった。あの頃の結衣さんが、やっと私の腕の中に戻ってきた。四年越しの抱擁に、じんわりと胸の奥が熱くなる。
でも、抱きついたその身体は強ばったままで、それがすごく不満だった。今までだったら絶対に抱きしめ返してくれたはずなのに。それが面白くない。
「……お酒、強くなったんじゃなかったの?」
呆れたような声色で、ため息と共に結衣さんが私の耳元で、囁くように言った。
「……強く、なりましたよ、これでも」
あの頃よりは、幾分かは強くなった。今日はちょっと飲み過ぎちゃっただけ。それも全部、結衣さんのせい。
結衣さんが瀬野さんの胸を見たりしなければ、組んだ腕を早々に外してくれれば、私はこんなに浴びるようにお酒を飲んだりしなかった。
「……お酒飲むといつもこうなの? かなた、お願いだからもう絶対に外で飲まないで……」
結衣さんが起き上がろうとするから、ちょっとだけ距離が出来てむっとする。それでも私は首に腕を回したまま離さなかった。
私を見下ろすその、どこまでも深い黒の瞳。夜の海みたいな、凪いだその瞳が、あの頃から私はすごくすごく好きだった。
もっと見て欲しい。私のことだけを、その瞳でずっと。
アルコールで浮かされた気持ちのままじっと見つめていると、結衣さんがふう、とため息をついた。
「……今日、新山さんに口説かれてたよね。前の会社にいたときからそうなの?」
突然、新山さんの話を振られて、首を傾げる。口説かれた記憶は全くないのだけれど、結衣さんの目にはそう写ったんだろうか。あの人の軽口はいつものことだし、特段気にしたことはなかった。
「……新山さんは、いつもああですよ。本気じゃないです」
そう言えば、結衣さんはがっくり肩を落として深くため息をついた。
「本気だったら、どうするの? 家まで送るって言われてたでしょ。本当に気をつけてよ。かなたは押しに弱いんだから」
結衣さんはそう言うけど、大学生の頃よりは、私はずっと押しに強くなった。現に新山さんには何度か夕食に誘われたことがあるけれど、一度だってそれを受け入れたことはない。
「そういう結衣さんだって……今日、瀬野さんの胸、見てたでしょ。腕組まれて、嬉しかったんじゃないですか? 結衣さんの、すけべ」
不機嫌を隠すことなくむっとしてそういえば、結衣さんは目を丸めて左右に首を振った。
「いや、違うよ。あれは不可抗力で……本当に、そんなつもりで見たわけじゃないから」
「ふーん……。本当ですか? あやしいです。もしかして今もまだ女遊びしたりしてます?」
この人がどのくらいモテるかは、学生の頃からよく知っている。この人の美しさは、世の女性を魅了してやまない。
惹かれない要素なんてどこにもない。結衣さんは、昔からそうだった。その気になれば、砂糖みたいに甘く中毒性のあるその囁きで、女の子の一人や二人、いとも簡単に口説き落とすことができる人だ。
彼女のその左手の爪が、あの頃と違って長いと言うことは知っていたけど、それでも私はその口から違うと言って欲しかったのだと思う。
結衣さんはふっと笑って、それから否定するように首を振った。
「してるわけないじゃん。ずっと仕事で忙しくて……そんな暇、なかったよ」
「……本当に?」
「もしかして、嫉妬してくれてるの? かわいいね」
「べつに……嫉妬なんかしてません……」
さっきまで驚いて身体をこわばらせていたくせに、もうすっかりいつもの余裕な調子に戻ってしまった結衣さんが、私を見つめて揶揄うように笑った。
嫉妬心を見抜かれて、嬉しいような、恥ずかしいような。ふいと視線を逸らすと、結衣さんは、片手で私の頬をそっと撫でた。
「……かなたは、今、恋人はいるの?」
恋人……? そんなことを聞かれるなんて思わなくて、視線を結衣さんに戻す。真剣なその黒い瞳に見つめられて、すぐにでもいないと首を振りそうになったけれど、思い直した。
そういえば、四年間恋人がいなかったと言ったら、律さんに心底驚かれたことを思い出す。
ずっと結衣さんのことを好きでいたなんて言ったら、さすがに、重いかな。めんどくさい子を結衣さんは好まないし、一体なんて言ったら正解なんだろう。アルコールでバカになった頭はうまく回転してくれなくて、答えあぐねているうちに、みるみるうちに私を見下ろす結衣さんの表情が曇って行った。
「……かなた」
痺れを切らした結衣さんに、急かすように言われて、咄嗟に口をついて言葉がこぼれ落ちた。
「……いるって言ったら、どうします?」
純粋に聞いてみたかった。嫌われてはいないと思う。でも、結衣さんがまだ昔と同じ熱量を持って私を想ってくれてるのかは、その態度だけではわからなかった。
すると結衣さんはその形のいい眉をグッと寄せて、眉間に皺を寄せてあからさまに嫌そうな顔をした。
「……別れてよ、今すぐ」
そんなことを言われるなんて思っていなかったから、私は思わず吹き出すように笑っていた。
あはは、と声を出して笑うと、より一層結衣さんはむっと不機嫌な顔をする。
「なんで笑うの?」
「だって……結衣さんだって、婚約者いるくせに」
あまりにも理不尽すぎる申し出に思わず笑ってしまった。いつも私を尊重してくれる結衣さんがこんなわがままを言うなんて、思わなかった。そしてそれがすごく嬉しかったなんて、口が裂けても言わないけど。
指摘すれば結衣さんは焦ったように食い気味に口を開いた。
「慎二とは恋愛関係じゃないし、来年、婚約破棄するってば。それより、かなたの彼氏、どんな人なの。いつから付き合ってるの?」
ふふふ、と笑みが溢れる。まだ好きだと思ってくれてるって、思ってもいいのかな。これは絶対脈ありだよね? それとも私がそう思いたいだけ?
「気になりますか?」
私に覆い被さっているせいでこぼれ落ちてくるさらさらの長い黒髪で遊びながら尋ねる。すると結衣さんは、小さくため息をついた。
「……やっぱり、男性の方がいい?」
嫉妬して欲しかっただけなのだけど、そう言った結衣さんがあまりにも悲しそうな目をするから、もうたまらなくなって首を振った。
「冗談です、彼氏なんて、いるわけないじゃないですか」
そう言ってその頬を撫でれば、結衣さんは一瞬きょとんと目を丸めて、それから安心したように大きくため息をついた。
「……かなた、いつからそんなに意地が悪くなったの?」
じとりと恨みがましい視線が刺さる。その視線一つだって私を喜ばせるだけだってこと、多分結衣さんはまだ知らない。
「すねないで、結衣さん。この話はもう、いいじゃないですか。ね、もう眠いから……一緒に寝て」
そう言って、ぎゅっとその首を抱き寄せる。あぁ、やっぱりいい匂い。香水とシャチくんだけではどうしても足りなかった。
本物は全然違うなぁ。じわじわ多幸感が押し寄せてくる。結衣さんの匂いって、中毒性があると思う。
「かなた」
嗜めるような戸惑う声を無視してなお、抱きしめる腕に力を込める。
「……ぎゅってして、昔みたいに、私が寝るまで、ずっと」
そうねだれば、観念したように結衣さんが、深くため息をついた。それから、私の上から退いて横になって、私の身体をぐっと抱き寄せてくれる。
ぎゅうっと、息ができなくなるくらい強く抱きしめられて身体が密着すると、どんどん力が抜けていく。
それがあまりにも心地よくて目を瞑る。
優しく背中を撫でられると、とろとろとすぐに眠気がやってきた。
「……こんなの、生殺しじゃん……」
耳元で、結衣さんが何か囁く声が聞こえたけれど、もう私にはその意味を理解するだけの意識は、ひとかけらだって残っていなかった。
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