第58話 恋人は、お金持ちの方がいいですか?

 週末。旧WEB制作事業部の歓迎パーティーが行われるということで、私は仕事を終え三ツ矢さんと瀬野さんと一緒に会場のホテルへと向かっていた。

 本社オフィスから電車で二駅移動して、最寄駅からはそう遠くないから、三人で連れ立って歩く。


 山里マネージャーは保育園のお迎えがあるから参加できなくて、三ツ矢さんと瀬野さんの緩衝材となる人物が不在であることに対して、一抹の不安がないわけではないけれど。


「青澤さんって彼氏いるの? いるよねぇ、可愛いもん」


 三ツ矢さんとの相性は悪い瀬野さんだけど、私には割とフランクに話しかけてくれるから、私自身は別に苦手には思っていない。


「いえ、いないです」


「本当に? じゃあ今度、一緒に合コン行こうよ」


 瀬野さんって男性にモテるのに、彼氏いないんだ。ちょっとと言うか、かなり意外に思う。


 でも、合コンか——どうしよう。上手く断る方法ないかな、と視線を泳がせると、ぐいっと肩を抱き寄せるように三ツ矢さんが私の身体を引き寄せた。


「瀬野さん、青澤ちゃんは今、恋愛してる最中だから。悪い道に引き摺り込まないで」


 そう言って私の代わりにフォローしてくれて有り難かったけれど、三ツ矢さんの少しだけ棘のある言い方に瀬野さんがにんまりと目を細める。


「やだなぁ、三ツ矢さん。自分が誘われないからって怒ってる? いいよ、三ツ矢さんのこと誘ってあげても。どうせ彼氏いないんでしょ? 仕事の鬼っぽいもんねぇ」


 間に挟まれて、ぴりぴりした空気にうっと息が詰まりそうになる。


 三ツ矢さんが切れ長なその目をさらに鋭く光らせて、引き攣るように笑みを浮かべた。


「……あんただって、彼氏いないから合コン行ってるんでしょ?」


「私は恋愛がしたいわけじゃないの。将来のパートナーを探してるの。お金持ちじゃないと、付き合う価値ないもん」


 お金持ちじゃないと、か。確かに、二十代も半ばを過ぎれば、ある程度女性は現実的になってくるんだってことは、色んな大人の女性の話を聞いて私もわかるようになってきた。


 学生の頃は気持ちだけで一直線にできた恋が、年を追うごとに徐々に難しくなってくる。

 職業とか、年収とか、ステータスを見て、相手を選ぶようになる。


 それは瀬野さんだけに限らず、どんな女性でも多分同じなんだと思うけど。


 結衣さんは、出会った時からお金持ちだったけど、でも、そうじゃなかったとしても、私は——。


 そんな思考を遮るように、三ツ矢さんが大きなため息をついた。


「あんたの好みなんかどうでもいいけど、青澤ちゃんのことは巻き込まないようにね」


 瀬野さんが薄く笑って、「はぁーい」と間の抜けたような返事をする。


 三ツ矢さんは、自立した恋愛を好むタイプだから、相手の年収とかステータスとかは気にしなさそうだ。価値観が正反対なんだろうな。


 やっぱりこの二人は相性が悪いと言うのも頷けるかも。


 そんなことを考えていたら、あっという間に会場についてしまっていた。




***




 さすが、ハイクラスなホテルの料理は違う。簡単な挨拶を終え、乾杯の音頭と共にさっそく並べられた料理の数々は、全て目を引くものだった。


 立食形式でよかった。今日は好きなだけ食べて飲んでいいらしい。もちろん費用は会社持ち。


 歓迎会って言うくらいだから、瓶ビール片手にテーブルを回らないといけないのかな、なんて思っていたけど、瀬野さんが、「社長が変わってから女性社員がお酌に回る文化がなくなったから、自由に動き回っていいよー」って教えてくれた。

 だからその言葉に甘えて、自分のお皿いっぱいに料理を取り分けた。


「……ホテルの料理って本当においしいよね」


 三ツ矢さんが、エビチリを頬張りながらしみじみと言う。すると瀬野さんが、ビールを片手に、にんまりと笑った。


「入社研修の時に説明なかった? 社員証出せばレストランの食事も二割引になるから、今度行ってみたら」


「え、二割引? 福利厚生の冊子はもらった気がするけど……青澤ちゃん、読んだ?」


 三ツ矢さんに聞かれて、ふるふると左右に首を振る。そんなに手厚い福利厚生があったなんて、知らなかった。


「まぁ、私はディナーでお財布なんか絶対出さないけど」


 そう言って、三ツ矢さんは舌を出して笑った。なるほど、小悪魔系ってこう言う人のことを言うのか。

 ローストビーフをぱくりと一口頬張る。うん、やっぱり。すごく美味しい。うちの会社のレストラン事業が好調なのも、頷ける味だ。


「……瀬野さんさぁ、ほんと、男と女で全然態度違うよね」


 三ツ矢さんが呆れたように瀬野さんに指摘する。すると瀬野さんは笑って首を振った。


「別に、男女で態度を変えてるわけじゃないよ。お金持ち以外に笑顔振り撒いたってしょうがないもの。青澤さんだって、付き合うならお金持ちのほうがいいよねー?」


 突然話をふられて、食事に集中していた意識を慌てて会話に引き戻す。


「えっと……そう、ですかね?」


 確かに、ないよりはあった方がいいとは思う。でも、絶対必要かと言われたらそうは思わない。


 だって私は結衣さんが無一文になったとしても、それでも絶対にこの気持ちは揺るがないと胸を張って言える。


「三ツ矢さんは、どう思います? 恋人は、お金持ちの方がいいですか?」


 答えあぐねて三ツ矢さんに話を振る。すると三ツ矢さんは顎に手を当てて少し考えた後、口を開いた。


「うーん、好きな人なら、自分より年収が低くてもいいかな。私も働いてるし」


 すると、瀬野さんがふっと吹き出すように笑った。


「そうなの? 三ツ矢さんって、意外とロマンチストなのね」


「……あんた、絶対私のこと馬鹿にしてるでしょ」


 犬猿の仲、ってこのことを言うのかな。苦笑いしながらレモンサワーに口をつける。


 食べ続けて私のお皿はすっかり空になってしまったから、言い合いを続けている二人は置いておいて、次は中華のコーナーにでも行こうかなと思い立った瞬間、瀬野さんの肩越しに結衣さんの姿が見えてどきりとする。


 さっきから、結衣さんはテーブル一つ一つ回って社員に声をかけているみたいだったから、きっとこのテーブルにも来てくれるんじゃないかと思ってた。


 レモンサワーのグラスをテーブルに置く。やっぱり食事を取りに行くのは後にしよう。そう思った瞬間、瀬野さんが結衣さんに気づいたらしかった。


「あっ、社長! 待ってましたよ、こっちのテーブルにも来てくださいよ〜」


 急に声色を変えて、瀬野さんが結衣さんの腕を絡めてぐっと引いた。

 豊満な瀬野さんの胸に、結衣さんの腕が沈んだ。


 その時、結衣さんがほんの一瞬だけ、瀬野さんの胸に視線をやったのを——私は、見逃さなかった。


 胸の奥に、ブワッと沸騰したように不快な感情が湧き上がってくる。……結衣さんの、すけべ。


「遅くなってごめんね、一つずつテーブル回ってたから」


 なんでもないような顔で、結衣さんがそう言った。


「三ツ矢さんも、青澤さんも、仕事はもう慣れた?」


 よそ行きの笑顔を向けられて、むーっと頬を膨らましてしまいそうになる気持ちを懸命に堪える。だって、その腕。瀬野さんに掴まれたままだ。


 三ツ矢さんと瀬野さんが、笑顔で受け答えをしている間に、私はぐいっとレモンサワーを一気に胃の中に流し込んで飲み切った。


 話し込んでいる隙を見計らって、空のお皿を手にとってテーブルを離れる。


 普通、社長がテーブルに来てくれてるのに席を離れるなんてものすごく失礼なことだ。それは十分承知の上。非常識だってわかってる。


 でも、耐えられなかった。結衣さんが他の女性と腕を組んでいるところなんて、とても見ていられなかった。






 ムカムカする胃を落ち着けるためにお皿にエビチリを大量によそっていると、後ろから突然声をかけられて振り向いた。


「青澤さん、お疲れ様」


 濃紺のスーツを身に纏い、照明を反射するほどワックスでぺたぺたに固めた髪に、片方の口角を上げる特徴的な笑い方をするこの人は——新山さん。


 旧WEB制作事業部の制作チームにいた男性社員だ。私はあまりこの人が得意ではない。


「お疲れ様です……」


 山盛りのせたエビチリの皿に視線をやって、新山さんはふっと笑う。


「青澤さんって、見かけによらずよく食べるんだね」


 これは揶揄われているんだろうか。よくわからずじっとその目を見つめると、新山さんは手に持っていたレモンサワーのグラスを私に差し出した。


「さっき、飲み切ってたでしょ。どうぞ」


「ありがとうございます……」


「俺、ずっと声かけたかったんだけど、青澤さん全然テーブルから離れないから」


 さっき一気にお酒を飲んでしまったからか顔が熱くなってきた。それでも気にせず、受け取ったレモンサワーを、ぐいっと飲んだ。


 横目でちらりとテーブルを見る。まだ瀬野さんは、結衣さんの腕を掴んでいた。


 胸の奥がチリチリする。なんで振り解かないの、なんて、言えるわけないけど……。


「よかったらこっちで飲もうよ」


 こうなったらもう、やけ酒だ。新山さんにそう提案されて、黙って頷いた。


 だって、目の前であんな風にくっつかれて、顔に出さないでいることなんて私には、絶対に無理だった。







 それから、どれぐらい経ったのかわからない。新山さんの話を聞きながしながらお腹いっぱい料理を食べつつお酒で胃に流し込んでいたら、気が付いたらまっすぐ歩けなくなるくらいふらふらになっていた。


 閉会の挨拶が終わって、一同が帰路につき始めてからも、壁際に寄りかかったままだった私に三ツ矢さんと瀬野さんが気付いてくれたらしい。


「ちょっと、なんで青澤ちゃんにこんなに飲ませてんの?」


「えっ、俺のせい? ごめん、お酒弱いなんて知らなかったから」


 ちょっと怒ったような声で三ツ矢さんが新山さんに詰め寄る。


 新山さんは悪くない。ガブガブ飲んだ私が悪い。ずるずると座り込むようにしゃがむと、瀬野さんが肩を優しく撫でてくれた。


「青澤さん、大丈夫?」


 瀬野さんは、当然だけど私が結衣さんのこと好きだって知らない。だから、仕方ないことだとわかってるし、嫉妬心を向けるのは間違っていると思うけど……あの態度を見てしまったら、もしかしたらって勘繰ってしまう。


 だって、「お金持ちが好き」って言ってたし、「男女で態度を変えてるわけじゃない」って……女の人でもいいってことなのかな。それとも単に距離が近いだけ? わからない。瀬野さんがどんな人なのか私はまだ知らないから。


「あ、そうだ。俺、青澤さんのこと家まで送っていくよ」


 頭上でよくわからないやりとりが行われてる。送って行くって、私のこと?


 いやだなぁ、新山さんに家を知られたくない。一人で帰れますって言おうと顔を上げた瞬間だった。落ち着いた声が、響いた。


「私が送って行くから、皆さんはもう帰っていいですよ」


 それが結衣さんの声だと、私はすぐにわかった。人垣をかき分けて現れた結衣さんが、しゃがんで私に目線を合わせてくれる。


「大丈夫? 立てる?」


 大好きな優しい声に、思わず、うん、と頷く。すると結衣さんはふっと笑って、私の手を引いて立ち上がらせてくれた。


 それでも足元がふらついてしまって、抱き抱えられるように支えられる。


 ドキドキするのは、アルコールのせいなのか、結衣さんのせいなのか、これじゃわからない。


「社長、大丈夫ですよ。私が送って行きますから」


 気遣って三ツ矢さんがそう提案してくれたようだけど、結衣さんはにっこりと笑顔を浮かべて首を振った。


「ううん、大丈夫。タクシーで帰るから、心配しないで。今日は皆さん、お疲れ様でした」


 そこまで言い切って、結衣さんは私を支えながら手を引いた。







 タクシーの後部座席で、結衣さんの肩にもたれながら目を瞑る。三ツ矢さんにも、瀬野さんにも、悪いことしちゃったなぁ。


 でも、結衣さんが私のこと気にかけてくれたのは嬉しかった。来てくれてほっとした。


「かなた、大丈夫? 気持ち悪くない?」


 心配そうに私を見つめる黒い瞳。嬉しくて、思わずふにゃりと笑顔になる。


「大丈夫……です」


 明日はデートの日だから、飲みすぎないようにって言われてたのになぁ。

 でも、これで家に着くまでは結衣さんと一緒にいられる。


 さっき瀬野さんに奪われたその腕を取り返すようにギュッと抱きしめて、安心してもう一度目を瞑った。


 瀬野さんの胸を意識してたことについても、文句は後で言ってやろう。お家に着いて、タクシーを降りたら、その時に。



 そう思っていたのだけど、この時の私は本当に酔っ払っていて、まさかタクシーが私の家じゃなくて結衣さんのマンションに向かっているなんてこと、まったく気が付いていなかった。

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