第57話 じゃあ……土曜の夜も、楽しみにしてていい?
「社長、おはようございます」
朝のオフィス。入口からそんな挨拶が聞こえて、モニターからそっと視線を上げた。社員に「おはよう」と声をかけながら、颯爽と現れた結衣さんは、その手に駅前のミルクティー専門店のドリンクカップを持っている。
社長室に行くまでの動線上に、私のデスクはある。
毎朝、私の横を通り過ぎる結衣さんの顔を見つめて、「おはようございます」と、そう声をかける。
「うん、おはよう」
私の目をみて、にっこりと微笑んでくれる結衣さんが社長室に消えていくのを見届けてから、私の一日が、始まる。
入社してから、早くも三週間が経とうとしている。みっちりと詰まっていた一週間の入社研修も無事終わり、先週から、同じ部署に配属になった三ツ矢さんは、持ち前のスキルでどんどん仕事を任され始めてあっという間に即戦力と化した。
一方で私は新卒二年目ということもあり、先週から半年間のOJT研修期間に入った。今は、私が所属する経営管理部予算管理課の
彼女は三十代後半ぐらいで、子育て真っ最中のワーキングマザーだ。おっとりしていて優しくて、九時から十六時までの時短勤務をしている。一年間の育休から、半年前に復帰したばかりらしく、デスクには、旦那さんと可愛い赤ちゃんの写真が飾られていた。
予算管理課のメンバーは、私と三ツ矢さんの他にもう一人いる。斜め前の席に座る、明るいブラウンの髪をゆるくまとめている女性、
ぽってりした厚めの唇と、まん丸の瞳が印象的で、三ツ矢さんと結衣さんと同い年の、今年二十六歳。
どこか幼げに見える顔つきの割に、体つきは出るとこ出ていて、色気がある。印象は――ちょっとあざといというか、計算高そうというか。
男性社員にはすごく人気みたいなんだけど……三ツ矢さんとの相性は悪かった。
私たちが入社したことで、この部署から玉突きで異動になった二人の社員は役職がついて、別の課に移ったらしい。
瀬野さんだけが出世せずに残ったことについて、三ツ矢さんは「そりゃそうでしょ、あの人やる気もないし、仕事遅いし」とばっさりと切り捨てていた。
三週間経って思ったことは、この会社はすごく働きやすい。一時間に一回は軽めの休憩を取ることが推奨されているし、ちょっと離席しても全くお咎めはない。とにかく自由だ。喫煙者の三ツ矢さんは、そのことをすごく喜んでいた。
もちろん非喫煙者にも恩恵はある。休憩室はいつ使ってもよくて、一杯十円で飲めるカップ式の自動販売機もある。社員証を翳せば自動で給与天引きされるシステムだから、お金を持ち歩く必要もない。
山里マネージャーが、作業効率を上げるために、社長が変わってから導入されたんだよ、と教えてくれた。
前任の社長は、いつまでも昭和を引きずっているような、怖い人だったらしい。業績も悪化していく一方で、社内はいつもぴりぴりしていたと。
初めは、あまりにも若い結衣さんの社長就任に賛否両論あったらしいけれど、今では皆口をそろえて、「社長が変わってよかった」と言っているそうだ。
離れている間の結衣さんの努力が、この会社には所狭しと詰まってる。私も一日でも早く仕事を覚えて、結衣さんの力になれたら。そんな風に思った。
「そろそろ疲れたでしょ。ちょっと息抜きしておいでよ」と山里マネージャーが言ってくれたから、私は空になっていたティーカップと大きめなポーチを持って、給湯室へ向かった。
社員はみんな休憩室の自動販売機を利用するからか、給湯室はいつも誰もいない。そりゃあ、十円だし、ボタン一つでコーヒーが飲めるんだから、そっちのほうが楽だし当たり前と言えば当たり前だ。
ポーチから、小さな一人用のティーセットを取り出す。給湯室にはウォーターサーバーがあるし。お湯があるなら私はコーヒーより紅茶一択だった。
サーバーの赤いボタンを押して、ティーポットにお湯を注いで温める。持参した茶葉の缶を開けたところで、物音がして振り返った。
「あれ、かなた?」
ばったりと、マグカップを片手に持った結衣さんに鉢合わせて、どきっと心臓が跳ねあがった。視線が合うと、結衣さんが嬉しそうに柔らかく笑う。
「今からティータイム?」
結衣さんは私の隣に並ぶとマグカップを置いて、ティーバッグの包装紙を破りながら、顔を覗き込んできた。
「結衣さんこそ……紅茶、飲むんですか? コーヒーのほうが好きでしたよね」
休憩室に行けば、簡単にコーヒーが飲めるのに。大学生の時は、結衣さんは紅茶よりもコーヒー派だったと記憶している。私のバイト先のコーヒー豆が好きだった。
そういえば――朝にも違和感があった。結衣さんが手に持っていたのは、コーヒーじゃなくてミルクティーだったから。
マグカップにぽい、とティーバッグを入れた後に、結衣さんはウォーターサーバーの赤いボタンを押してお湯を注いだ。
「あー、うん。そうだったんだけど……かなた、家にたくさん紅茶置いて行ったでしょ。無駄にしたくなくて飲んでたら、いつの間にか好きになってた」
そんな風に言われて、四年前のことをぼんやりと思い出す。結衣さんの家のキッチンに、私はいつも、アフタヌーンティーを楽しむために紅茶を常備していた。
置いて行った紅茶、飲んでくれたんだ、と嬉しい気持ちと同時に、あの家でひとり、私の残した紅茶を淹れていたのであろう結衣さんの姿を思って胸がちくりとする。
「……アールグレイですか?」
マグカップから立ち込めるベルガモットの香り。指摘すると、「さすが、匂いでわかるんだ。すごいね」と結衣さんは笑った。
「結衣さん、ふたは……?」
私も、一度温めていたポットのお湯を捨てて、それから茶葉をポットに入れながら、そう聞いてみた。
「ふた?」
「マグカップの、ふた。蒸らしたほうが、美味しいのに」
もっと言うと、ティーポットで淹れたほうが美味しい。お湯を注いだ後、ポットの蓋をそっと閉じてから、ぴっとタイマーを押した。
結衣さんはきょとんと目を丸めて、「そうなんだ」と呟いた。もう。紅茶の淹れ方ぐらい、調べればすぐわかるのに。
でも、ちょっと嬉しかった。私が好きなものを、私の影響であなたも好きになってくれたことが。そうなら、できるならもっと美味しく飲んでほしい。
一般的に売っている紅茶だって美味しいけれど、もっと美味しい茶葉を取り扱っているお店だってあるから。
「結衣さんも紅茶、好きになってくれたんなら……おすすめの茶葉屋さん、ありますよ。今度、一緒に行きますか……?」
何気なくそう聞いてみたら、結衣さんがぱっと笑顔になった。仕事しているときは凛々しくてかっこいいけど、二人きりの時は学生に戻ったころのように笑ってくれるから、胸がぎゅうって締め付けられる。
「いいの? 待って、スケジュール確認するから」
すぐに結衣さんはポケットからスマホを取り出した。そういえば、とふと疑問に思う。
「結衣さんって、スケジュール管理自分でやってるんですか?」
これだけ規模が大きい会社なんだから、秘書のひとりやふたり、いたっておかしくないと思うけど。
「うん。そろそろ、自分でやるのも限界かなとは思ってるけど……。あ、今週の土曜なら空いてる。かなたは?」
平日の仕事帰りじゃなくて、休日なんだ。それなら長い時間一緒にいられる。嬉しさが顔に出そうになるのをぐっと我慢して、「空いてます」と答えたら、結衣さんはまた嬉しそうに笑った。
「……かなたとデートするの、久しぶりだね」
「デ、デート?」
結衣さんって、その気がなくてもそういうことを平然と言う人だから、それが本気なのか冗談なのかわからない。
そんなつもりじゃないんです、と慌てて否定しようとしたところで、ぴぴぴ、とタイマーが鳴ってくれたから、ごまかすようにポットを取った。
「あ……結衣さんもそろそろティーバッグ取らないと、渋くなりますよ」
「そうだった、忘れてた」
ティーカップに、紅茶を注ぐ。結衣さんも、ティーバッグの紐をつまんでマグカップから取り出した。その色を一目見ただけで、これは渋くなるだろうな、とわかる。
茶葉を買いに行くついでに、紅茶の淹れ方も教えてあげないと。そう思った。
「かなた。金曜日の歓迎パーティ、デートに支障がないようにあんまり飲みすぎないようにしてね」
金曜日は、自社のホテルで私たち旧WEB制作事業部社員の歓迎会が行われる予定だった。立食形式のパーティになるらしいんだけど、アルコールも飲めるらしい。仕事は十六時に切り上げていいって通達が来ていたから、私もちょっと楽しみにしていた。
「大丈夫ですよ、私も多少はお酒飲めるようになりましたし……」
「そうなの?」
あの頃よりは、少しは強くなった。相変わらず他の人よりは弱いみたいだけど。強がっているのを知ってか知らずか、結衣さんが笑って私の耳元に唇を寄せた。
爽やかな柑橘系の香水の匂いがする。
「じゃあ……土曜の夜も、楽しみにしてていい?」
囁くように言われて、慌ててばっと距離を取る。楽しみって、何が? アルコールについては、私には前科がある。
初めて結衣さんと体を重ねた夜だって――酔っ払って、私から迫ったってこと、忘れたわけじゃない。
ぼっと顔を赤くさせた私に、結衣さんはけらけらと笑った。それでようやく、揶揄われたのだと気づいて、思い切り結衣さんの肩を押す。
「ほんっと……結衣さん、そういうところ、全然変わってない!」
「冗談だよ。一緒にお酒飲もうって、誘ってるだけ。深い意味はないから」
むっとするけれど、それは何となく本当なのかなとも思う。再会してから気づいたけれど、結衣さんは大学時代と違って、爪を短く整えていない。だから今は女性と関係を持っていないのだと……わかる。
それは嬉しいけど、でも、昔の結衣さんと違うところ、もう一つすごく気になることがある。
「あの、結衣さん、そういえば」
「ん?」
マグカップに口をつけて、一口、結衣さんが紅茶を飲みながら私を見た。
「……香水、変えたんですね。どうしてですか?」
大学の時とは違う。あの香水じゃないのが、どうしても気になってしまう。
「香水? あー、そうだね。前とは違うの使ってる」
「なんで?」
じっとその黒い瞳を見上げれば、結衣さんが困ったような顔をした。なんでって言われても、って。そう顔に書いてある。
「かなた、この匂い、嫌い?」
「嫌いじゃないけど……なんか、違う人みたい」
「前のほうがよかった?」
素直に、頷いた。絶対に言わないけど、私は離れている間、結衣さんと会えなくて寂しくてたまらない夜をあの香水で乗り超えてきた。それなのに、再会したあなたは全然違う香りをまとっているんだもん。面白くない。
「……私、変えてほしくないって、言ったのに」
結衣さんの誕生日に何をあげるか悩んでた時期だったと思う。結衣さんが香水を変えるって言ってたのを、私は止めた。変えてほしくないって、確かにあの時言ったのに。
自分から離れておいて、離れている間もそうしてほしいなんて自分でもかなりわがままで理不尽なことを言っていると思う。
そんな私に結衣さんは笑って、そっと私の頬を撫でた。
「ごめんごめん。……かなたがそう言うなら、戻そうかな」
勘違いしてしまいそうになる。その愛しそうに私を見つめる瞳が、あの頃と変わっていないんじゃないかって。ずっと私と同じ気持ちだったんじゃないかって、思ってしまいそうになる。
名残惜しくもその手は離れて行って、それから、マグカップを掴んだ。
「……さ、そろそろ戻らないと。土曜日、楽しみにしてるね」
そう言うとにっこり笑って、結衣さんは行ってしまった。
私はそのままふう、とため息をついて、少し冷めてしまった紅茶に、口をつける。
今日はまだ月曜日。今週は、長い長い一週間になりそうだ。
それに土曜日になる前に、新しい服をどこかで買いに行かないと。そんなことを思いながら、私も給湯室を後にした。
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