第56話 今度こそ二人で結衣をぶちのめそう
「かなたちゃん、久しぶりー! 見ない間にお姉さんになったね!」
玄関のドアを開けると、懐かしいはつらつとした声と、あの頃と変わらない明るい笑顔の律さんが立っていた。その後ろには悠里がいる。
「律さん、お久しぶりです。来てくれて、ありがとうございます」
結衣さんと会ったあの後すぐに、私は結衣さんの会社に行くと決めて、後日行われた人事面談でも迷わずにそう告げた。
それで、オフィスの近くに引っ越すことになったのだけど、荷造りが大変だと悠里に愚痴をこぼしたら手伝ってくれることになって――その流れで、律さんまで来てくれたというわけだ。
後から聞いた話だと、驚くことにWEB制作事業部のほとんどのメンバーが、新しい会社に行くことを決めたそうだ。もちろん、三ツ矢さんもそう。
それもそのはず、面談で提示されたお給料は、今の会社の基本給よりも、三万円も高かったんだから。
告知された後はざわついていた社内も徐々に落ち着いて、業務の引継ぎも終わり、とんとん拍子で転籍の日が決まった。
私のアパートは1LDKで、決して広いわけではないけれど、大学三年からここに住んでいるからそれなりに荷物はあるわけで。転居先も同じく1LDKだけど、これを機に、要らない服とか、本とかはまとめて処分しちゃおうと思っていた。
リビングに二人を通して、アイスティーをグラスに注ぐ。悠里とは頻繁に会っていたけど、律さんとはあれっきりだったから、会うのは四年ぶりだった。
「律さん、東京にはいつ帰ってきたんですか?」
「三月末に引っ越してきたよ。大阪も楽しかったけど、東京の方が友達多いから異動になってラッキーだったわ。結衣にもこの前久しぶりに会ったんだけど、かなたちゃんの話聞いて、本当にびっくりしたよ」
そう言って律さんはけらけらと笑う。緩く巻かれている髪の長さは相変わらずだけど大学時代は明るかった髪色も、今では落ち着いたダークトーンに変わっていた。優しい垂れ目もそのままで、懐かしい気持ちが蘇ってくる。
「私もびっくりしました。まさか、結衣さんにこんな形で再会する日が来るなんて、思ってなかったから」
巡り合わせというのは本当にあるのかもしれないと思ってしまう。
「そのことなんだけどさ、かなたに、聞きたかったんだけど……本当に先輩の会社で働くって決めて、よかったの? だってまだ、婚約破棄できてないんでしょ? 近くに居て、つらくない?」
アイスティーに口を付けながら、突然悠里がぽつりとこぼした。表情から、何となく言いづらそうにしてて、すぐに私を心配してくれているのだと言うことに気付く。
すると私が返事をする前に、律さんが悠里に向き直って言った。
「結衣を信じて大丈夫よ。あいつ、かなたちゃんにフラれてから本当に変わった。あれから、目も当てられないくらい落ち込んで……。でも、必死で勉強してたし、死ぬほど努力したんだから。あの結衣がよ? 信じていいよ、絶対に大丈夫」
普段悪態ばかりついているけれど、律さんは何だかんだで結衣さんのことを本気で大事に思っているのがよくわかる。だって、こういうとき、律さんはいつも結衣さんのこと庇うんだよね。
すると悠里も負けじと、でも、と律さんの言葉を遮った。
「律さん。私は一ノ瀬先輩が、またかなたのこと傷付けたりしないか、心配なんですよ。かなただって、先輩と離れてから本当に落ち込んでたんですからね! こんなに可愛いのに、ずーっと先輩のこと引きずって、恋人の一人も作らないで、ずっと……」
悠里の口から「可愛い」って言われてちょっとびっくりした。放っておいたらこれ以上ヒートアップしそうな悠里の腕を慌てて掴む。そんな風に思われていたのかと思うと、ちょっとだけ恥ずかしい。
「あ、あの、悠里、落ち着いて……」
すると律さんが、嘘ぉ、と驚いたように目を丸めた。
「え、一人も? かなたちゃん、あれから誰とも付き合わなかったってこと? 四年もずっと?」
「そうですよ! ね、かなた」
「え、あ……うん……そう、だけど……」
そんなに驚かなくても……。おかしいかな。ていうか、悠里は私が結衣さんのことずっと引きずってるってこと、知ってたんだ……。
自覚は全くなかったけど、本当に私はわかりやすいタイプらしい。顔とか態度にでてるのかな。ぷしゅーと、音が鳴ってしまいそうなくらい、頬が熱くなっていくのがわかる。
「健気ねぇ……。確かに、悠里が心配する気持ちも頷けるわ……」
「そうでしょう!? 次、かなたのこと泣かせることがあったら、いくら律さんの親友でも、私は許しませんからね」
ドン、とアイスティーのグラスをテーブルに叩きつけて、悠里が高らかと宣言する。いい友達を持って私は幸せだと思ったけど、私が今も結衣さんのことを好きだってこと、悠里は知っていたってことだし、今の話の流れから、つられてたぶん律さんも察してしまったに違いないと思った。
恥ずかしくなって両手で赤くなった顔を覆う。
「オーケー。もし万が一そんなことがあったとしたら、今度こそ二人で結衣をぶちのめそう。タコ殴りにしよう。本気で」
がっしりと強く手を握り合って、律さんと悠里が不穏な協定を結んだ後に、和解した。当事者は私のはずなのに、なんだか置いてけぼりを食らってしまったみたい。
居たたまれなくなって、なんとか話題を逸らそうと、私もアイスティーで口を湿らせた後、弱々しい声で二人に告げた。
「あの……そろそろ荷造りの方を……」
「「あ、ごめん、忘れてた」」
二人揃ってそんなことを言うから、拍子抜けして私はがっくりと肩を落としたのだった。
***
それから、二人の協力の甲斐もあって、無事引越しも終えて、あっという間に記念すべき初出社の日が訪れた。
今日だけはあまり着慣れないスーツに身を包んで、オフィスまでの道のりを行く。そろそろ夏の気配を感じそうなほど暖かな陽気。日傘を持ってきて正解だった。
連絡がこなかったことに対して拗ねたあの日から、結衣さんは毎日メッセージをくれるようになった。
おはようとか、おやすみとか、夕飯は何を食べたとか、そんな程度の他愛のないものだけど、結衣さんが忙しい合間を縫って私を想ってメッセージをくれることが、すごく嬉しかった。
昨日の夜も、結衣さんからメッセージが届いた。
『明日会社でかなたに会えるの、楽しみにしてる』
絵文字も何もない、いつもシンプルなメッセージだけど、それでもいい。だってきっと、私だけだ。あの連絡無精な結衣さんが、毎日メッセージを送る相手なんて。
今日から、私たちの関係は社長と一従業員。きっと社内で気軽に話なんてできない。それでも、視界の片隅にでも毎日あなたがいてくれるなら、きっと今までよりも楽しい社会人生活になる。そう思えた。
「青澤ちゃん、おはよう」
「おはようございます、三ツ矢さん」
初めて訪れた結衣さんの会社は、私が今まで働いていたビルの軽く倍はある大きさだった。一ノ瀬グループ所有のビルらしくて、オフィスはこのビルのフロアを三つ、借り切っている。他のグループ会社も、このビルの別のフロアに入っているらしい。
建物について軽く説明を受けた後、大学の大講義室みたいに広い会議室で待機する。
三十人近く居る私たち旧WEB制作事業部の社員たちは、制作チームの人たちは新設される新しい部署に、そして営業や管理の人たちは、それぞれ適性に合った部署へと配属されると事前に説明を受けていた。
今日は入社式の後に辞令交付がある。その後にオリエンテーションがあって、各部署に配置されるのはまた後日になる。
「給料増えるからと思って迷わず来ちゃったけどさ、やっぱりちょっと緊張するね」
「そうですね……」
結衣さんと元々知り合いだということは、社内では内緒にしようと決めていた。そうしないと結衣さんもやりづらいだろうし。とはいえ、一従業員が社長と話す機会なんてほとんどないとは思うけど。
定刻五分前、会議室のドアが開いた。結衣さんが現れると、ざわりと会議室がどよめいた。
「あの人が、社長? うわ、めっちゃ綺麗だね……」
三ツ矢さんも驚いたように呟く。そうでしょう、結衣さん、すっごい綺麗でしょう、なんて、自分のことじゃないのに誇らしく思う。
私も初めて結衣さんに会ったとき、本気で驚いたもん。私服姿も好きだけど、スーツ姿も、とっても素敵。そんな風に思いながら、登壇する結衣さんを目で追った。
顔を上げた結衣さんと、一度だけ、ぱちっと視線が合った気がする。結衣さんは柔らかく微笑んで、マイクを握った。
***
「天は二物を与えず、っていうじゃない? でも、いるんだね、二物も三物も与えられる人。世の中、理不尽だよね……」
緊張と疲れで凝り固まった肩を労わるように撫でながら、三ツ矢さんはため息と共にそう言った。
入社式と辞令交付、オリエンテーションを終え、一日はあっという間に過ぎていった。
結衣さんと話す時間なんてなかったけど、結衣さんが私に辞令を手渡してくれた時に、私の目をじっと見つめて微笑んでくれたから、今日はそれだけでも満足だった。
「でも、また同じ部署でよかったですね。経営管理部」
「そうだね。青澤ちゃんと一緒でよかったよ」
旧経営管理チームのマネージャーは、結衣さんの会社には行かずに社内での配置転換を希望したらしい。だから、経営管理部に配属になったのは私と三ツ矢さんだけだった。
仕事内容もさほど変わらないと聞いている。しかも座席表を見たところ、デスクは、社長室のすぐ近くだった。別のフロアだったら残念だな、なんて思ってたけど、管理系の部署は社長室の近くに固められているらしく、幸運だったと思う。
確かに初日は疲れたけれど、気分はすごく晴れやかだった。
だって明日から、毎日結衣さんに会える。
それだけで、これからの不安なんてどこかに行ってしまう。
足取りは軽い。四年の間止まっていた歯車が、また、動き出しそうな予感がしていた。
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