第55話 メッセージくらい、三秒もあれば、送れると思うんですけど

「お疲れ様でした!」


 十八時一分。出退勤システムに従業員IDを叩きつけるように翳して、急いでエレベーターへ向かう。


 廊下は走らないようにってこの間社長に注意されたばかりだけど、そんなのもう知ったことじゃない。


 エレベーターの「下」ボタンを何度も押して、それから息を整える。こんなときに限ってエレベーターは、私のいるフロアの遥か上にいて、ため息がこぼれそうになる。


 早くこないかな。そわそわと待っていると、突然後ろから声をかけられて驚いて背筋を伸ばした。


「青澤さん、もう帰り?」


 振り返ると、制作チームの新山さんがコンビニのアイスコーヒー片手に立っていた。もう定時だっていうのに、今から仕事に戻るところのようだ。


 彼は私より三年先輩の二十七歳で、私が入社した頃からずっと、制作チームにいる主力社員だ。


「はい。定時なので……帰ります」


 あー、嫌な人に声をかけられたな、と思う。こういう時に限って、エレベーターは上の階で止まってしまって降りてこない。新山さんは、へぇ〜、と目を細めて私をじっと見た。


 私の知る限り、新山さんは毎日のように残業していて、定時で帰っているところなんて見たことがない。


 定時帰りはいいことだ。今時、残業なんて流行らない。私自身そう思ってはいるものの、なんとなくこの人はそれをよく思ってないんじゃないかと思う時があるから、正直に言うと、私は新山さんがちょっと苦手だった。


「そんなに慌てて帰るなんて、彼氏とデート?」


「……違います。彼氏なんていません」


 彼氏じゃない。デートでもない。でも、私の好きな人が今、下で待っている。だからあなたと話してる暇なんてない。


 ちょっとムッとしそうになったけどなんとか我慢して平静を装うと、やっと待ちに待ったエレベーターが来たから、私は新山さんを無視して乗り込んだ。


「ねえ、青澤さん。彼氏いないんだったら、今度、俺ともデートしない?」


 にや、と片頬を釣り上げるように笑うこの人が、本当に苦手。照明を反射するくらいぺたぺたにワックスで固めた髪型も、私は全然好きじゃない。


「……お疲れ様でした」


 その誘いには答えずに、問答無用で「閉」ボタンを連打した。


 この四年で私もそれなりに変わった。今までだったら押し切られてしまっていたであろう押しの強いお誘いも、今ではちゃんと断ることができるようになりつつある。



 エレベーターの中の鏡に自分の顔を映して、慌てて髪を整える。退勤前に化粧室でこっそりメイクは直しておいた。だから大丈夫、なはず。


 どきどきと絶え間なく打ち続ける鼓動を落ち着かせるように胸に手を当てて、一呼吸。エレベーターがやっと一階にたどり着いて、私は何でもないような顔で会社を後にした。





 三週間、私をほったらかしにしていた憎らしい想い人は、相変わらずの笑顔で私を待っていた。


「かなた、お疲れ様」


 先日会ったときは商談があったからか結衣さんはスーツを着ていたけど、今日はカジュアルな私服姿だった。相変わらずスタイルいいなぁ。見惚れてしまいそうになる。


「……お疲れ様です」


 事業売却を伝えらえた日の夜、結衣さんからシンプルなメッセージが届いた。


 『金曜の夜、会えない?』って、たったそれだけ。他にも何か言うことあるんじゃないの、と言いたかったけど、文句は顔を見てから言ってやろうと決めていた。


 会えてうれしい。けど、やっぱり私はちょっと拗ねている。結衣さんは、私の一言目の声のトーンで、今あまり機嫌がよくないと察してくれたらしい。首をかしげて私の顔を覗き込むから、ふいと視線を逸らしてやった。


「結衣さん、あれからずいぶん忙しかったんですね……」


「あー、うん、ここ最近ずっと、仕事が立て込んでて……」

 

「ふーん……」


 社長さんだもんね。売却の件もあるし、学生時代と違って当然時間もないだろう。結衣さんと私は、今では立場が全然違う。でも、それでもだ。


「……メッセージくらい、三秒もあれば、送れると思うんですけど」


 嫌味っぽくそう言えば、結衣さんが、ふっ、と声を出して笑った。なんで笑うの、と文句を言おうと結衣さんの顔を見上げる。するとあまりにも優しい瞳が私を見つめていたから、何も言えなくなってしまった。


「連絡、待っててくれたの?」


「……だって、結衣さんが、また会ってって言ったんですよ。それなのに、全然……メッセージのひとつもくれないから……」


 あれ、もしかして私今、ものすごく「めんどくさい女」になっていないだろうか。今更その事実に気づいてしまってちょっとだけ弱気になって、どんどん声が小さくなっていく私の手を、結衣さんが笑って握った。


「うん、そうだよね。気が利かなくてごめんね。今度から気を付ける。お詫びに、今日はかなたの好きなもの食べに行こう。なんでもいいよ。何が食べたい?」


 胸の奥が、むずむずする。昔から私は、くだらないことで簡単に拗ねてしまう私の機嫌を文句も言わずに取ってくれる、あなたのことが好きだった。


「なんでも?」


「うん、なんでも」


 優しく私を見つめるそのまなざしが懐かしくて、胸の奥がきゅっとなる。


「じゃあ……だし巻きたまご、食べたい。居酒屋の」


 ねだるようにそう言えば、結衣さんは「そんなのでいいの?」と私に聞き返してきた。そんなので、いい。私は別に、あなたがいればチェーン店の居酒屋だってかまわない。


 うん、と頷けば、結衣さんは「わかった」と笑って私の手を引いた。





***





「社長から、もう聞いた?」


 お出汁が香るふわふわのだし巻きたまごに大根おろしを乗せているときに、突然そんなことを言われて目の前に座る結衣さんに視線を向ける。


 聞いた、というのは、例の事業売却の件だろう。こくりと一度頷いて、それからだし巻きたまごを一口に頬張った。うん、やっぱり居酒屋のだし巻きたまごは最高に美味しい。


「まさか、かなたがあの事業部にいるなんて思ってなかったから、本当にびっくりした」


「……私のほうが、びっくりですよ。だって、結衣さんそんなこと、一言も言ってくれなかったから」


「ごめんね。本当はもっと早く言いたかったんだけど、こういうのは外部の人間からじゃなくて、社長の口から伝えるのが筋だと思ったから。社員に公表したって聞くまでは黙っていようと思ったんだ」


 まあ、今思えば仕方ないよね、と思う。今からあなたのいる事業部を買収します、なんて、言えるわけないもん。


「そうだったんですね……。来週から、面談が始まるって聞きました。給与条件についてとか、色々。もし残りたいって希望があるなら、可能であれば最大限配慮するとは、言われましたけど……」


 制作部門の人間は、問答無用で結衣さんの会社に行くことになる。ただ、営業部門や管理部門の人間は、個々の条件によっては残留もあり得ると聞いた。要望が通るかはわからないけれど。

 結衣さんが欲しいのは、おそらく制作チームの人間だろう。営業や管理に関しては、オマケみたいなものだと思う。


「……かなたは、どうしたいと思ってる?」


 その黒い瞳が、真剣に私を見据える。本気で聞いてきているのがわかったから、私も食べる手を止めて、結衣さんを見つめ返した。


「正直、迷ってます。だって、入社したばっかりだし、今の仕事も、この会社も、好きだったし……」


「かなたは、経営管理チームだったよね。うちの会社にも経営管理部があるから、もし来てくれるなら同じ部署に配属するつもりだよ」


 はっきりとそう言い切られて、もしかして、自惚れじゃなければ結衣さんは私に来てほしいと思ってるのかな、と思った。


「あの、結衣さんは、嫌じゃないんですか? 私がいたら」


 恐る恐るそう聞けば、結衣さんはそんなこと言われるなんて思ってなかったというように、驚いたように目を丸めた。


「まさか。むしろ、嬉しいよ」


 気まずくないのかな。元カノではないにしろ、昔関係があった女性を自分の会社に招き入れるのって、抵抗はないんだろうか。


 私は――結衣さんのもとで働くのは嫌じゃない。でも、条件が悪くなる部分もある。例えばオフィスの立地の問題とか。


「そうですか。……でも、やっぱりちょっと迷います。家も遠くなるし」


「引っ越せばいいじゃん。会社の近くにマンション買ったから、そこに住んでもいいよ?」


「えっ」


 突然そう言われて、今度は私が目を丸める番だった。マンションを、買った? 会社の近くに?


「結衣さん、あの家、もう住んでないんですか……?」


 私と結衣さんが一年暮らしたあの家はどうなったんだろう。いつもソファでくっついて映画を観ていたのが懐かしい。もし本当に住んでいないのだとしたら、さみしいなと思った。結衣さんはいつもあの家に、いてくれると思っていたから。


 そう思って尋ねると、結衣さんは左右に首を振った。


「マンションに泊まるのは仕事が忙しいときだけ。あくまで仕事用。だから、かなたが住んでもいいよ。部屋余ってるし」


 そんなことを平気で言う結衣さんに思わず苦笑いする。この人が私を甘やかしてくれるのは、どうやら今も変わっていないらしい。嬉しいんだけど、でも。


「……従業員を特別扱いして、いいんですか?」


 そう指摘すれば、結衣さんはにっこりと笑った。


「今はまだ、従業員じゃないでしょ。従業員になる前に、引っ越せばいいじゃん」


 そう言ってくれるのは、正直魅力的だし嬉しいけれど……だめ、一緒には住まない。左右に首を振ると、結衣さんのその手が伸びて、ダメ押しのように私の手をそっと掴んだ。


 それだけで、面白いくらい心臓が跳ねる。


 学生の頃の結衣さんは、もっと迷っていたように見えたのに。前に会ったとき、結衣さんは「結婚するつもりはない」と言い切った。だからだろうか。今も彼女に婚約者がいるという事実は変わっていないのに――そのたった一言で四年前には確かにあった、私の心のブレーキが壊れてしまったみたい。


 手を振りほどくことなんて、できなかった。


「……かなたに、今の私を見てほしい。もう、学生の時とは違うから」


 真剣なまなざしに、呼吸も忘れそうになる。


「私のマンションに住むのが嫌なら、会社の近くに社宅用意するから。だから私の会社に来てよ。お願い。……もう一度、チャンスをくれたっていいでしょ?」


 チャンスって、なんの……? そう問いたくなる気持ちをぐっと抑えて飲み込んだ。今はまだ、それを聞くのは怖い。


「もう、失望させない。……見直してもらえるように、頑張るから」


 胸が、高鳴る。


 結衣さんに再会して、思い知った。どんなに離れていたって気持ちは変わらなかったし、何度だってきっと私はあなたに恋をする。そういう、運命なんだと思う。


「……考えて、おきます」


 そう言えば、結衣さんはほっとしたように笑って、ありがとう、と呟いた。




***





 前も思ったけど、結衣さんと別々の家に帰るなんて、なんだかすごく変な感じがする。私を送るためなのか車で来てくれていた結衣さんはお酒を一切飲まなくて、申し訳ない気持ちになった。


 まだ慣れない車の助手席と、彼女の新しい香水の匂い。嫌いじゃないけど、思い出と違うから違和感がある。元に戻してくれたらいいのに。そんなことを思いながら、走り出す車に身を任せた。


「そういえば……私の部屋、どうなってますか?」


 あの家の話が出たせいで、ちょっとだけ気になってしまって、そう尋ねる。


「そのままだよ。かなたがいつ帰ってきてもいいように」


 そんなことを言われてしまうと、うれしさと切なさが入り混じった、言葉にできない感情がこみあげてくる。本当にずっと待っててくれたんだろうか。私の帰りを、あの家で。


「また一緒に映画観ようよ。なんなら、明日休みだし、今から来る?」


「えっ……? き、今日は、行きません。こんな時間に結衣さんにお家に誘われると、なんか……」


 やらしいこと考えてるんじゃないかって、勘ぐっちゃう。口に出すのを渋っていると、私の言いたいことを察したのか結衣さんはちょっとだけ笑いながら口を開いた。


「……何もしないよ?」


「……結衣さんの“何もしない”は、信用できないんですよ。だって、いっぱい前科あるもん……」


 そう指摘すれば、結衣さんがあはは、と声を出して笑った。ほらね、そうやって笑ってごまかすところも、相変わらず変わってない。


「それは、かなたが可愛いのがいけないんだよ」


 ……また、可愛いって言った。頬が緩んでしまいそうになるのをこらえて、気付かれないように窓のほうを向いた。ああ、もう間もなく、私の家についてしまう。


 帰りたくない。もっと一緒にいたい。そう思ってしまう心は、止められない。


 彼女の会社に行くこと、さっきは「考えておきます」、と言ったけど……私の心はもう、決まっていた。




 私も、結衣さんも、あの頃とは違う。もしかして、四年前とは違う未来を描けるかもしれない。


 もう一度、夢見てもいいのかな。そう期待し始めている、私がいた。





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