第53話 もしかして運命なのかなって思っただけ
手を引かれて連れてこられたのは、結衣さんの行きつけの如何にも高級そうな店構えのお寿司屋さんだった。店内に入る前は正直尻込みしてしまっていたけど、いざカウンターに腰を落ち着けたら酢飯のいい匂いにお腹がぐーっと鳴いた。
何から食べたらいいのかなんてわからないから、お任せでと頼んだ最初の一貫。ツヤツヤと透き通るような光沢がある白身にちょんとお醤油をつけて、思い切って頬張ってみる。
一口食べて、思わず目を見開いた。
「んー、おいしい……!」
思わず唸ってしまった私に、隣に座る結衣さんが嬉しそうに微笑んだ。
「かなたは相変わらずおいしそうに食べるね。かわいい」
かわいい、と、そう言われて思わず胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚がする。慌てて視線を逸らすと、結衣さんは笑って同じくお寿司を口に運んだ。
「結衣さんって、いつもこんなに美味しいもの食べてるんですね……」
さすが、社長なだけある。お給料だっていっぱい貰っているんだろうし、こうして改めて今の結衣さんを見ていると、あの頃より大人の余裕が加わった気がする。
関心していると、結衣さんが笑って首を振った。
「こういうの、いつも食べてるわけじゃないよ。特別な日だけ。仕事が一息ついたときとか、自分へのご褒美に」
カウンターの向こうから、握りたての新しいお寿司がやってくる。今度はイカかな。次から次へと美味しいお寿司が出てくるから、ここはまるで天国みたい。
「それならどうして今日は連れてきてくれたんですか? うちの会社との商談が上手く行った、とか?」
ぱく、ともう一口頬張ると同時に、ちょっとだけ探りを入れてみた。結衣さんの会社とうちの会社との接点なんて、正直私には皆目見当もつかない。
教えてくれるかどうかはわからないけど、試しに聞いてみたら、結衣さんはまた笑って首を横に振った。
「ううん。そうじゃなくて……かなたとまた会えたから。私にとって今日は特別な日」
私の目をじっと真っすぐに見つめて、結衣さんはさらりとそんなことを言う。あぁ、もう。そんなこと言われてしまったら、私の意思に反して勝手に高鳴る心臓が止められない。
この人はこういうことを平然と言う人だって、知っていたはずなのに。四年の間に失われた免疫を取り戻すには、もうしばらくかかりそうだ。
「あの……結衣さんは、どうしてうちの会社にいたんですか? 今まで、取引ありませんでしたよね」
こうなったら仕方ない。思い切って聞いてみることにする。
昼間、私の顔を見た瞬間、結衣さんは本当に驚いていた。だから、私がこの会社で働いていることは知らなかったに違いない。
神様のいたずらとしか思えないほど、本当に偶然の再会だった。
「今のところ、かなたの会社との取引はないね。なんでいたかは、まだ秘密」
やっぱり教えてくれないか。確かに、今後取引が発生するようなことがあるなら、私は取引先の社員ということになる。だから、不用意に情報を漏らすわけにはいかないということは、わかっているけど。
「誰にも言わないのに……教えてくれてもいいじゃないですか、結衣さんのけち」
「ごめんね、拗ねないで。今は言えないけど、そのうちわかるから」
本当かなぁ。疑うように視線を向ければ、結衣さんは笑って、ごまかすようにまたお寿司を頬張った。私も釣られて、ぱくりとまた一口。脂の乗った大トロは、ほっぺが落ちるんじゃないかってくらい極上の味だった。
今更だけど、美味しいものを食べながら話すのはよくないなと思う。この美味しさに、全部全部ごまかされてしまいそうになる。
ふと、思い出したように結衣さんの左手を見つめた。ネイルの乗った少し伸びた爪。白くて長い薬指に、やっぱり指輪はない。
さっき、指輪をしていなかったから安心してしまったけど、結衣さんのことだし指輪をしていないだけっていう可能性も捨てきれない気がする。
気になってしまったから、思わず、心の中で留めておくべき言葉が飛び出してしまった。
「……まだ、結婚してないんですね」
「ん? あー、うん」
左手の薬指を見つめる私の視線に気づいたのか、結衣さんはなんでもないような顔でそう答えた。
「いつ……するんですか?」
聞きたくないけど、聞きたい。自分でも矛盾していると思う。するとその黒い瞳が、私の心の内を透かし見るように、私の目をじっと見つめる。相変わらず、その黒い瞳は何を考えてるんだかわからない。
「しないよ。結婚する気、ないから」
「えっ……? こ、婚約はどうなったんですか? 破棄したってことですか?」
「ううん、まだ。でも、今期の決算を終えたら、お父さんには言うつもり。自分の意見を押し通したいなら、実績もなしに手ぶらってわけにはいかないでしょ? この会社、ずっと業績が低迷してたからチャンスだと思ったんだよね。三年で結果を出すから経営を任せて欲しいってお願いしたんだ。で、今年で三年目なんだけど……ちゃんと結果を出して、慎二がいなくても大丈夫だって証明して見せようと思って」
はっきり言って、意外だった。だって結衣さんは、大学時代はあまり会社経営に乗り気じゃなかった。興味があるようにも思えなかった。すごい。この四年間で、人はここまで変わるものなんだ。
「……結衣さん、すごく努力したんですね」
四年間の、結衣さんの努力と苦労を想う。私がうじうじ泣いて、思い出にすがりついている間にも、結衣さんは努力を重ねて、ずっとずっと前に進んでいたんだ。私だけが、あの頃に取り残されたままなのかもしれないと思うと、なんだかすごく切なくなる。
「かなたに振られて、目が覚めたんだよね。諦めたら欲しいものなんて何も手に入らないんだって気付けたのは、かなたのおかげだよ」
私のおかげ、か。結衣さんが欲しいものってなんなんだろう。
婚約破棄して、そのあとは? 新しい恋がしたいとか、そういうこと……なのかな。
あれから、四年も月日が経ってしまった。結衣さんの心の中に、私は、もういないのかな。
「私……結衣さんのこと、振った覚え、ないんですけど」
確かに離れるとは言ったけど、私はちゃんとあなたに好きだと言った。だから、私の中では振ってない。
苦し紛れにそう言えば、結衣さんはあはは、と声を出して笑った。
お店を出た後、あたりはすっかり暗くなっていた。ほんのちょっとだけ期待していたけれど、次のお店には誘われなかった。
それもそうか、明日も平日だし、結衣さんは私と違ってきっと忙しいんだろう。
「かなた、家まで送っていくよ。車、近くに停めてるから」
「え、いいですよ、そこまでしてくれなくても。電車で帰れますから」
悪いなと思って左右に首を振ると、結衣さんが少し屈んで私の顔を覗き込んできた。いたずらな瞳が、私の瞳の奥をじっと見つめる。
「……そんなに警戒しなくても。別に襲ったりしないよ?」
「そ、そういうんじゃないですよ! ただ、結衣さん、忙しいと思って……」
「そんなことなら、気にしなくていいから。ほら、行こ」
そう言って、手を引かれる。あの頃と変わらない温かい手のひら。振りほどくことなんてできずに、私は黙ってその手に引かれるしかなかった。
駐車場に停められていたのは、記憶の中の結衣さんの車とは違っていた。白い高級セダン。今度は、日本車じゃないみたい。
「……結衣さん、車変えたんですね」
「ん? あぁ、そうだね。でもこれも雪にぃのおさがりだけどね。私は別に走ればなんでもいいから」
そう言って、助手席のドアを開けてくれるのも相変わらず。でも、慣れない車に乗り込むと、記憶とは違う匂いがした。
少し遅れて運転席に結衣さんが乗り込む。あれ――と思う。さっきは気が付かなかったけど、密室で二人きりになると、あの頃と違う香りがする。
そっか、結衣さん……香水、変えたんだ。
車は緩やかに走り出す。
四年の間、私は何一つ変わらなかった。でも、結衣さんは違うんだ。なんだか急に切なくなって、胸の奥がちくちくと痛んだ。
「ここで大丈夫です。あれが、私のアパートなので……」
ハザードランプを付けて、アパートの脇に停車する。次の約束もないまま、もう家についてしまった。
もしかして、本当に結衣さんの中では私は思い出になってしまっているのかな。偶然会えたことに対して驚いて、懐かしかったから夕飯に誘ってくれただけで、本当にもう、何の感情もないのかもしれない。
結衣さんと会えるのも、これが最後になるのかな。逃げるようにシートベルトを外すと、結衣さんが私に向き直った。
「そうだ、かなた。名刺、持ってる? 私のもあげるから、ちょうだい」
「えっ、と、名刺、ですか?」
いつも持ち歩いてはいなかったけど、確か財布に一枚だけ入れていたはずだ。
慌ててバッグから名刺を取り出すと、結衣さんは内ポケットから名刺入れを取り出して、私に一枚差し出してくれた。
そして、私が手渡した名刺を、結衣さんはまじまじと見つめる。
「WEB制作事業部……経営管理チーム……」
私の所属を読み上げた後、結衣さんはふっと嬉しそうに笑った。
「あの、どうしました?」
「ううん、なんでもない。こうしてかなたにまた会えたのも、もしかして運命なのかなって思っただけ」
そう言われて、どくんと心臓が跳ねあがった。運命、なんてそんな軽々しく言わないでほしい。
あなたはその気がなかったとしても、私にとってその言葉は本当に大きな意味を持ってしまうんだから。
「……結衣さん、そういうところ、相変わらずですね。女たらし」
拗ねるようにそう言えば、結衣さんは笑って私に手を伸ばした。驚いて固まってしまうと、そっと耳の淵を撫でられる。
「ずっと言おうと思ってたんだけど……まだ、そのピアスしてくれてるんだね」
思わず、はっとする。結衣さんから貰ったこのピアスをすることが私にとって当たり前になっていて、今日もつけているってこと、全然気づいていなかった。恥ずかしくなって、頬が熱くなってくる。
「い、いけませんか? ……だって、これ、気に入ってるから、べつに深い意味はなくて……」
「ううん、だめじゃないよ。すごくうれしい」
そっと、耳を撫でた手が離れて、それから私の手をぎゅっと握った。
なんで? どうして? 手を握ったりなんかするの?
真意を計りかねておずおずと結衣さんを見つめれば、その瞳が優しく細められた。
「ね、かなた。……また、会ってくれる?」
あの頃と変わらないどこまでも深く黒い瞳が、私の心を捉えて離さない。
四年間、私はあまりにも孤独で、さみしかった。言い訳かもしれないけど、一度手放したはずのその手のぬくもりを再び感じ取ってしまったせいだと思う。
いけないとわかっていても、私は、黙って頷くことしかできなかった。
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