第52話 お寿司、食べたくない?

 見つめあったまま固まってしまった私たちの静寂を切り裂いたのは、私もよく知る声だった。


「青澤さん、廊下を走ったらだめだよ。危ないじゃないか」


 はっと、結衣さんの影になっていて気が付かなった方向に視線を向ける。紺色のスーツを身にまとった男性は、私が働くこの会社の社長だった。


「す、すみません……」


 とっさにそう謝って、転びそうになって結衣さんに体重をかけたままだった身体を何とか持ち直す。

 さっきからずっと混乱しっぱなしだ。なんで、結衣さんがうちの会社にいて、社長と一緒にいるの? どういうこと?


、大丈夫ですか? うちの社員が、申し訳ございません」


「えっ……社長……!?」


 今、なんて言った? 一ノ瀬社長……!? 思わず声を上げてしまうと、結衣さんが、私を見下ろしてくすっと笑った。

 あの頃と同じ。その黒い瞳も、艶のある長い髪も。でも、あれから少しだけ大人になって、さらにその美しさに磨きがかかっている、気がする。


「大丈夫ですよ、気になさらないでください。かなたも、大丈夫? 怪我してない?」


 あの頃とまるで変わらない優しい声に、思わずこくりと頷いていた。すると社長が、驚いたようにきょとんと目を丸める。


「え? 一ノ瀬社長、青澤さんとお知り合いなんですか?」


「大学時代の先輩後輩なんです。まさか、こんなところで会えるなんて思わなかった」


 そう言って、結衣さんが呆然としたままの私の手に触れた。驚きでどくっと心臓が跳ねる。あっけにとられていると、結衣さんは、私が手に持っていたスマホをするりと奪った。


「あっ」


「かなた、怪我がなくてよかったけど、歩きスマホは危ないよ。ちゃんと前見て歩かないと」


 そう言いながら、結衣さんは取り上げた私のスマホに親指をすいすいと滑らせる。


「えっ、ちょ、ちょっと、結衣さん、何して……」


 さっき、三ツ矢さんにメッセージを送ろうとしていて、画面が開きっぱなしだったのを思い出す。

 結衣さんが私のスマホで何か操作をした後、すぐに結衣さんのジャケットの胸ポケットから着信音がして、間を置かずに一瞬で切れた。

 私のスマホから電話をかけたらしいと、少し遅れて気が付く。


 そうか、電話番号――あの頃から、変えたから。相変わらず、結衣さんはそういうところ、本当に抜かりがない。


「はい」


 そう言って、私の手元にスマホを返してくれた結衣さんは、動揺する私の目を見つめてにっこりと微笑んだ。


「……じゃあ、またあとでね」


 スマホをぎゅっと胸元に抱きしめたまま呆然とする私の頭をぽんと一度撫でて、それから結衣さんは社長に向き直って、行きましょうか、と声をかけた。


 あとでって、何、どういうこと。言葉の意味を問いただす暇も与えてくれず、あっさりと私を置いて行ってしまった二人の背を見送りながら、私の心臓は壊れたようにずっと脈打っていた。






 それから、思い出したように慌ててエントランスに向かって、三ツ矢さんに遅れたことを謝罪したあと、いつもの定食屋さんに足を運んだ。


 突然あんなことがあったせいで、せっかく頼んだアジフライ定食の味も、全然わからなかった。ランチの間、三ツ矢さんと何を話していたのかも、正直ほとんど覚えていない。


 それくらい私は突然の再会に動揺していて、午後、机に戻ってからも全く仕事が手につかないくらい、ずっと結衣さんのことを考えていた。


 それに、、って。結衣さんはまだ二十五歳だ。いくらなんでも、こんなに早く社長になっているなんて、思わなかった。


 知りたい。結衣さんが、今何をしているのか。一度気になりだしたら、止まらなかった。


 午後から三ツ矢さんはミーティングで不在にしているから、今デスクの周りには私しかいない。きょろきょろと周りを見渡した後、そっとパソコンのブラウザを開いた。


 今まで、結衣さんが今何をしているのか、敢えて調べないようにしてきた。会いたくならないように。寂しくならないように。それは私にできるたった一つの自己防衛手段だった。


 でも、こうしてまた出会ってしまった今、検索する指は止められない。


 一ノ瀬結衣、そう検索エンジンに入力して、エンターキーを押す。するとすぐに、知りたかった答えは返ってきた。


「一ノ瀬グランドホテル株式会社……代表取締役、一ノ瀬結衣……」


 その社名を見た瞬間、忘れかけていた記憶が、突然フラッシュバックする。あの夏、一緒に花火を見たあのホテル。確かに、書いてあった。入口に、「一ノ瀬グランドホテル」って。


 一ノ瀬グループは、もともとたくさんの会社がある。純粋持ち株会社である一ノ瀬ホールディングスの現社長が、結衣さんのお父さん。

 そして結衣さんは、その傘下にぶら下がっている子会社の社長に就任した、というわけだ。


 でもだからってなんで、うちの社長と会っていたんだろう……? 商談ってわけじゃないと思う。もしそうだったら、こちらから出向いていくのが筋だ。結衣さんが、わざわざこっちの会社に出向く必要なんてないはずだ。


 うちはIT企業だし、一ノ瀬グループとの取引なんて今までなかった。結衣さんが経営しているホテル事業との関連性なんて、何一つ見いだせない。


 何が起こっているんだか全然わからなくてため息をつくと、突然スマホが震えたから慌てて背筋を伸ばした。画面に、メッセージが浮かぶ。


『十八時に、入口で待ってる』


 そのメッセージを見た瞬間、心臓がまた、いとも簡単に鼓動を速めて、止まらなくなる。


 この四年間、結衣さんのことを忘れた日なんてない。ずっと会いたかった。会いたくて会いたくてたまらなかった。でも、今は逃げ出したいと思っている自分がいる。


 だってもし、結婚してたら――どうしよう。


 さっき、指輪をしているかどうかを確認できるほど余裕なんてなかったことが悔やまれる。


 結衣さんは私に会って、何を話すつもりなんだろう。感情がぐちゃぐちゃになってしまって、届いたメッセージに返信なんてできないまま――無常にも時は過ぎ、あっという間に定時になってしまった。




***




「お疲れ様でした……」


 消え入りそうな声でそう挨拶をして、出退勤システムの端末にIDを翳したあとオフィスを後にする。エレベーターに乗っている間も、エントランスから出口に向かう間も、ずっと心臓がばくばくしっぱなしで、落ち着かなかった。


 待ってるって言ってたけど、本当に結衣さん、いるのかな。


 緊張してぎゅっとバッグの取っ手を握りしめながら外に出ると、心臓がきゅっと縮まるような感覚がした。


 やっぱり、夢じゃない。私を待っていたらしいスーツ姿の彼女が、私に向かって手を挙げて微笑んだ。その胸に、あの日と変わらぬ一粒ダイヤのネックレスが光っている。


「かなた、お疲れ様」


 どうしよう、見とれてしまう。一年間一緒に住んでいて、この人のすば抜けた美しさには多少免疫が付いたはずだったのに……そんな免疫は四年間の間にどこかに行ってしまったらしい。


 やっぱり、結衣さんはきれいだ、ものすごく。こんなきれいな人、私は結衣さんの他に知らない。


 心臓がどきどきして、顔が熱くなっていくのがわかって、気付かれたくなくて思わず顔を背けた。そして、逃げるように歩き出す。


「あれ、かなた、どこ行くの? 無視しないでよ」


 そう言って、彼女が後ろから追いかけてくる。赤くなった顔を見られたくない。そのためには私は前に進むしかない。


「どこって、家に帰るんですよ。最寄り駅、こっちなので……」


「そんなこと言わないで、夕飯一緒にどう? せっかく久しぶりに会えたんだし」


 隣に並んだ彼女が、平然と私の顔を覗き込んでくる。夕飯を一緒に食べになんて行ったら、絶対に、近況報告は避けられない。


 もっと話したい。でも、怖い。結衣さんの口から結婚した、なんて聞いたら泣いてしまいそうで、怖い。


 四年経った今もまだあなたのことが好きなんて、そんなこと知ったら結衣さんは笑うかな。


 なんて答えたらいいのかわからずに視線をさまよわせると、結衣さんがダメ押しのように私の手をつかんだ。


「お寿司、食べたくない? 実はもう予約しちゃったんだけど」


 え、お寿司? 思わず、ぴたりと足が止まってしまって、あ、やっちゃった、と思った。食べ物につられてしまった単純な私に結衣さんはにっこりと笑って、そっと私の手を引いた。


「お腹いっぱいになるまで、好きなもの食べていいよ。だから行こうよ。ね?」




 黙って結衣さんの手に引かれて付いて行ってしまったのは、私が食い意地を張っているからってだけじゃない。


 私の手を引いたその左手に、固い指輪の感触がなかったから。


 だから私は心の底からほっとして――思わず、私の手を引くその手を、受け入れてしまったのだった。

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