社会人二年目、春。
第51話 今日のランチはしじみ汁で決まりだね
「それじゃあ改めて。かなた、誕生日おめでとー!」
差し出されたビールジョッキに、並々と注がれたレモンサワーのジョッキを掲げてぶつける。
かしゃん、と小気味いい音が響いたあと、悠里はごくごくとビールを胃の中に流し込んだ。
大学時代は金とか銀とか色んな色に染め抜いていた悠里の髪は、社会人になってすっかり落ち着いた色になって、私たちはあの頃から少しだけ変わった。
「今年もお祝いしてくれてありがとう」
「いーのいーの。じゃんじゃん食べて飲もうよ。今日は私の奢りだから」
疲れた身体にアルコールが染みる。社会人二年目の春、二十四歳になった私は、相変わらずビールは飲めないままだけどそれなりに大人になっていた。社会人一年目の時と比べると、多少なりとも余裕も出てきたと思う。
「かなたは最近、仕事どうなの? 忙しい?」
「んー、月初はちょっと忙しいけど、それ以外は定時で帰れてるよ。悠里は?」
「私はね、相変わらず残業は多いけど、楽しいからなんとかやっていけるかなぁ」
一年の留学を経て日本に帰ってきた私は、大学を卒業してからIT関係のベンチャー企業に就職した。とは言っても、配属は管理部門の部署だから、そこそこ余裕のある社会人生活を送っている。
私と悠里は大学を卒業してからも相変わらず仲が良くて、どんなに忙しくても必ず月に一回はこうして顔を合わせている。
愚痴を言い合ったり、慰め合ったりして、怒涛のような社会人一年目をなんとか乗り越えてきた。
仕事終わりに飲むお酒は本当に美味しい。私よりアルコールに強い悠里のジョッキは、もうすでに半分ほどになっている。
テーブルにジョッキを置いた後、悠里は何かを思い出したように、突然ぽんと手を叩いた。
「そういえばさ、この間、律さんに久しぶりに会ったんだー。転勤でまたこっちに戻ってきたんだよ。相変わらず忙しいみたいで、ひーひー言ってた」
「そうなんだ。律さん、東京に帰ってきたんだね。私も会いたいなぁ……」
大学卒業後、律さんは大手銀行に就職して、最初の赴任地は大阪だったらしい。悠里は何度か会いに行っていたみたいだったけど、私は日本に帰ってからも会えずじまいだった。
時間が経つのは本当に早い。私がイギリスに帰ってから、もう丸四年の月日が経とうとしている。
結衣さんと離れてしばらくは、地獄のような日々だった。
それでも、時間と共に徐々に薄れていった痛みは、綺麗な思い出だけを残して、今も胸の中にある。
いつまでも引きずってないで新しい恋しなよと悠里に言われて、日本に帰ってきてから何度か合コンに参加させられたけれど、あれ以来私の心は完全に凍てついてしまったようで、どんなに容姿が恵まれた異性に口説かれても、ぴくりともこの心は動かなかった。
「悠里、来年も私の誕生日よろしくね」
そう言えば、悠里は意地悪くにやりと笑う。
「……かなたもさ、いい加減、彼氏作れば?」
「そんなに簡単に言わないでよ。作ろうと思ってできるものでもないってば」
悠里は律さんと仲が良いから、きっと結衣さんが今何をしているか、知らないわけではないだろう。
でも、日本に帰ってきてから一度だって、私たちは結衣さんの話題を口に出したことはなかった。
今年の秋に、結衣さんは二十六歳になる。考えたくはないけど、もう結婚してしまったかもしれないし、悠里の言うとおり先に進んだ方がいいのはわかってる。
それでも私は今も変わらず、くたくたになったシャチを抱きしめて眠る日々を過ごしている。
レモンサワーをぐいっとあおって、嫌な気持ちは消し飛ばす。春になると、忘れたはずの痛みが時折蘇る。
知ってか知らずか、目の前にいる悠里は、毎年こうして私の誕生日を祝ってくれるから、私は、そんな彼女の優しさに心から救われていた。
***
翌日、久しぶりに悠里と会ってはしゃぎすぎて飲みすぎた私は、例に漏れず二日酔いで、痛むこめかみを押さえながら出社するはめになっていた。
会社に着いたのは八時五十三分、最寄駅からゆっくり歩いてきたから、結構ギリギリだった。
従業員IDカードを出退勤システムの端末に翳して、オフィスのドアを開ける。
「おはようございます……」
「あ、青澤ちゃん、おはよー」
私のデスクの隣に座る女性、三ツ矢さんが手を上げた。彼女は私の二年先輩で、去年一年間、私の教育係をしてくれた。
この会社は服装自由だから基本的に何を着てもいいのだけど、三ツ矢さんはいつもパリッとしたジャケットを羽織っていて、肩まであるダークブラウンの髪は、つやつやでいつも毛先がしっかり揃ってる。印象は、いかにも仕事ができる女性って感じ。
切れ長のその瞳が最初はちょっと怖かったけど、そんな印象は入社一週間で吹き飛んでしまった。気さくで、とてもいい人だ。
「おはようございます、三ツ矢さん」
「なんか元気ないねー。具合悪いの?」
「ちょっと二日酔いで……」
「じゃあ、青澤ちゃんのために今日のランチはしじみ汁で決まりだね」
そう言って、三ツ矢さんは白い歯を見せてニカッと笑った。
しじみ汁かぁ、って事はいつも行ってるあの定食屋さんかな。それなら今日はアジフライ定食にしよう、なんて考えながら、ノートパソコンの電源ボタンを押した。
「青澤ちゃん、経理からデータ上がってきたから、共有するね。月報、午前中にマネージャーに提出できる?」
「はい、大丈夫です。お昼前には終わります」
私が所属する経営管理チームは、経理課から上がってきた各種財務諸表の分析をしたり、予算を管理することが主な業務だ。
経理締めが終わり、データが上がってくるこのタイミングが一番忙しい。
共有されたデータを確認して、思わずため息が溢れた。やっぱり、今月も赤字かぁ。
この会社はITに関わる複数の事業があるけれど、私が所属している「WEB制作事業部」は、入社する前からずっと営業赤字が続いていた。
販管費は毎月予算通り推移しているけれど、肝心の売上が全然だめ。予算を平気で一割も下回ってくる。
私たちの仕事は予算管理だから、そもそもの土台が崩れてしまっている時点で、お手上げだった。
「今月も、相変わらずですね」
「そうだねぇ。テコ入れはしてるみたいなんだけど、いまいち効果は見えないよね。もう三年目だし、そろそろ私も異動願でも出そうかなぁ」
「えっ?」
急にそんなことを言い出すから、思わずキーボードを叩いていた手を止めて振り返った。
異動なんて、そんな。WEB制作事業部は、他と比べてかなりこぢんまりしていて、その中でも経営管理チームは、マネージャーを筆頭に私と三ツ矢さんの三人しかいない。
と言うのも、この事業部は年々縮小しつつあって、会社全体からしてみたら業務のウェイトがあまり重くない部署だから、新人教育もかねて若手が配属されやすい部門だったりする。
「そんな……三ツ矢さん、私を置いていかないでくださいよ」
縋り付くように言えば、彼女は一瞬周りをきょろきょろと見渡した後、ちょいちょいと私を手招いた。なんだろうと慌てて椅子を引いて距離を縮めると、三ツ矢さんは私の耳元でこそこそと話し出した。
「ここだけの話なんだけどさ……うちの事業部、結構やばいらしいのよ。事業廃止するとか、売却するとか、色んな噂が出てるんだよね」
「へっ!?」
一年経ってやっと仕事を覚えてきたと思ったのに、突然そんなことを耳打ちされて思わず大きな声が出てしまった。しーっと、三ツ矢さんが私を窘めるように人差し指を立てて言うから、慌てて両手で口を押さえる。
「青澤ちゃんも早いうちに異動願出しておいた方が良いよ。次の人事面談の時にでも」
そんなこと、言われても。がっくり肩を落としたまま、もう一度パソコンに向き直る。この会社は自由な社風で風通しもよくて、働きやすさはあるけれど、どうやら私は配属先には恵まれなかったらしい。
私の立場、どうなっちゃうんだろう……なんて思いながら、ブルーな気持ちのまま午前のタスクを淡々とこなすしかなかった。
「青澤ちゃん、そろそろお昼出れる?」
時計の針が十二時を指したと同時に、三ツ矢さんがノートパソコンをぱたりと閉じた。それに釣られて私もパソコンを閉じる。
「あ、三ツ矢さん、すぐに追いかけるので先に行っててください。マネージャーから経理課にお使いを頼まれてるので、寄ってから行きます」
「オッケー、じゃあ、エントランスで待ってるね」
さっき、マネージャーに月報を提出したついでに渡された領収書を、クリアケースに纏めて入れて、小脇に抱えてひとつ下のフロアへと急ぐ。
うちのマネージャーは経理課の人たちとは相性が悪いみたいで、いつも私は伝書鳩みたいに上と下のフロアを行ったり来たりしている。おかげで経理課の人たちとは仲良くなれたけど。
今日も領収書を出すだけのつもりだったのに、軽く世間話をしてしまったせいで少し時間を食ってしまった。
三ツ矢さんを下で待たせてるから急がないと。メッセージを入れようと、スマホをポケットから引っ張り出して、小走りでエレベーターへ急いだ。
スマホの画面を注視していたせいで、曲がり角から誰かが現れたことに気付くのが遅れてしまった。出会い頭に思い切り、どん、と真正面からぶつかって、思わずよろける。
「わぁ!」
何が起こったのかわからないまま、身体を抱きとめるように支えられて、慌てて謝罪する。
「ご、ごめんなさい……!」
「大丈夫ですか?」
優しく問いかけられたその声に。心臓がギュッと、縮まるような感覚がした。
知ってる。柔らかくて、優しい、この声を。この声に名前を呼ばれる瞬間を、この四年間、何度夢に見たかわからない。
私が、聞き間違えるわけがない。
でも、どうして……? だって、こんなところに、いるはずないのに。混乱したまま、徐に顔を上げる。
スローモーションみたいに時間がゆっくりになって、私を抱きとめる彼女と視線が合った瞬間、切り取られたように時が止まった。
忘れるわけがない。その、どこまでも深い、夜の海みたいな黒い瞳を。
「かなた……?」
驚いたように見開かれた瞳。凍てついたはずの私の心臓が、突然生き返ったように脈打ち出して、止まらない。
今私は、夢を、見ているんだろうか。
だって今、目の前に——あの頃より少し大人になった、あなたがいる。
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