ロンドンより愛をこめて

 記憶というのは本当に恨めしいもので、時と共に忘れたくない思い出は、手のひらから零れ落ちていくように失われていく。そのことに気付いたのは、別れを選んだ春を超え、夏を過ぎ、秋になったときだった。


 時間というのは残酷だ。隣にあなたがいないだけで、こんなにも私の世界は色を失って、季節は、風のように駆け抜けていった。


 イギリスの天気はいつもどんよりとして分厚い雲に覆われている。まるで自分の心模様をそのまま写しているようで、気落ちする毎日が今も続いていた。


 何もすることがない日曜日。ベッドの上で、抱きつぶしてくたくたになってしまったシャチくんを抱えなおす。


「……会いたいなぁ」


 ベッドサイドに置いたままの、ピンク色の香水を手に取った。寂しくてたまらない夜が続く日は、あの香りに包まれて眠りたい。そう思って買ったそのリボンのデザインが可愛いボトルは、私にとっての睡眠導入剤だった。


 シュ、という音とともに広がるその香り。確かに結衣さんの香り。だけど違う、何かが足りない。やっぱり本人じゃないと。そんなことを思うたびに、打ちのめされたような気持ちになってベッドに沈んだ。


 後悔しない。してはいけない。正しいことをしたんだ。きっとこの傷もいずれ癒える。自分を納得させるように、そんなことをずっと、考えている。




 物理的な距離が広がれば、諦めがつくと思った。この気持ちを忘れたくない。そう思うと同時に、いつまで続くかわからないこの苦しみに辟易としている自分もいた。


 いつまでもうじうじして、こんな私は、まるで結衣さんが嫌いな「めんどくさい女」を体現したかのようだ、と思う。

 今頃結衣さんはどうしているだろう。もう、私のことなんて忘れちゃったかな。


 離れていると、そういう良からぬ考えばかりが浮かぶ。もういいや、やることないし、お昼寝しよう。

 ため息をついて目を瞑ったとき、自室のドアがこんこん、とノックされた。


「ねーちゃん、あけていい?」


 ドアの向こうから、弟の、かなめの声がした。「いいよ」と声をかけると、ひょっこりとドアの隙間から顔を出す。

 離れている間に、要は高校生になった。身長も、会わない間ににょきにょき伸びて、帰ってきたときには反抗期も終わってまるで別人のようになっていた。


「どうしたの?」


 するりと私の部屋に体を滑り込ませると、後ろ手でそっとドアを閉めたから、不思議に思って首をかしげる。


「……あれ、なんかいい匂いする。ねーちゃん、香水なんてつけてたっけ」


「えっと、うん……たまに」


 嘘だ。自分がつけたことなんてない。これは私の好きな人の匂い、なんて言えなくてごまかすように言えば、要はとくに気にすることもなく、まあいいや、と言って私のデスクの椅子を引いて腰を落とした。


「あのさ、折り入って相談があるんだけど」


「え、なに?」


 神妙な顔をして言うから、よっぽど言いづらい話らしい。お父さんやお母さんじゃなくて、私に相談しにくるなんてことは今までほとんどなかった。


 真意を探りたくて、私と同じその薄茶色の瞳を真っすぐに見つめ返す。


「実は、おれね、彼女ができたんだけど……」


「彼女」


 衝撃的すぎてそのフレーズを繰り返した。照れくさそうに、そわそわとたいして長くもない襟足を撫でる弟を、呆然と見つめた。


 お姉ちゃんは人生最大の失恋を経験して、心の傷がまだ癒えていないというのに、この子ときたら。最近まであんなにちっちゃかったのに、まさか彼女ができるなんて、と頭を抱えそうになる。


「それで、今月、彼女の誕生日なんだ。その……何をあげたらいいかわかんなくて」


 なるほど、読めた。体はずいぶん大きくなったのに、中身はあんまり変わってないみたい。言いづらそうにそわそわとする弟に、優しいお姉ちゃんは助け舟を出してあげることにした。


「……誕生日プレゼント、一緒に選べばいいの?」


 ぱっと顔を上げて、キラキラした目で頷くから、毒気を抜かれてしまった。「いいよ」と言えば、要は嬉しそうに笑って、さっそく今から行こうと立ち上がった。


 これも姉の務めだと、立ち上がる。今日は出かける予定はなかったけど、仕方ない。土曜日から、自堕落にごろごろしていたせいで、めくり損ねていた部屋のデイリーカレンダーを二枚めくった。


 どうしてこんな日に限って、と思わなかったわけじゃないけれど。


 今日は、十月九日。明日は結衣さんの、二十二歳の誕生日。





 狭い地下鉄に揺られて数駅。連れて行った百貨店で、いろんなお店を何周も何周もして真剣にプレゼントを選ぶ弟の姿が自分と重なる。

 私も、バレンタインの時に、結衣さんにあげるチョコレートを決められなくて、お店を何周もして悠里にからかわれたっけ。


「……遺伝って怖いね」


「え、なに?」


「なんでもない。要は私にそっくりだなと思って」


「……そりゃ、姉弟なんだから似るのは当たり前じゃん」


 それもそうか、結衣さんだって雪哉さんとそっくりだもんね。私の身長をとっくに超えてしまったその頭を撫でてやることはできなくなったけど、弟はやっぱりいくつになっても可愛いものだ。


 迷いに迷って、たどり着いたアクセサリーショップで、要はネックレスを手に取った。わが弟ながらなかなかいいセンスをしてる。それ、すごくかわいいと思うよ、と後押しすれば、それを購入することに決めたらしかった。


 かわいい弟のためだけど、胸の奥がずっとちくちくするのはなぜだろう。行く先々で、見るもの聞くものすべてが、思い出の引き出しをこじ開けて、胸が苦しくなる。


「……ねーちゃんは、彼氏いないの? もしかして日本に置いてきた?」


 突然そんなことを聞かれて、ほんの一瞬言葉に詰まった。


 彼氏はいないし、日本に置いてきたのは男性じゃない。笑って首を振って、「お姉ちゃんは、モテないの」と言えば、そんなことないと思うけど、と要は言った。


 少ないお小遣いの中で、お礼にと要は私に紅茶を奢ってくれた。それから帰りにケーキ屋さんによって、ショートケーキを一つだけ買って帰った。




 こっちに帰ってきてから、お父さんも、お母さんも、私に深くは聞かなかった。何かがあったのだろうということはきっとわかっているに違いない。でも、私はこのことを誰かに話すつもりはなかった。


 怖かった。誰かに話して、この痛みを分かち合って、そしてこの想いが思い出になって、いつか跡形もなく消えてしまうことが。


 矛盾していると自分でも思う。胸が痛くて苦しいのに、この気持ちを忘れたくない、なんて。





 去年、結衣さんの誕生日にした約束。守れなかったことが、心のこりだった。


 自室に戻ると、買ってきたショートケーキにろうそくを立てて、火を灯した。日本はこっちよりも時間が進んでいるから、間もなく日付が変わるころだ。


 秒針をじっと見つめる。結衣さんは今、誰といるんだろう。たった一人で家にいるのかな。少しでも、私を思い出してくれただろうか。そんなことを思いながら。


「……結衣さん、誕生日、おめでとう」


 秒針がてっぺんを指すと同時に、ろうそくの火を吹き消した。


 どうかこの想いが、この世界中の誰よりも速く、あなたに届きますように。

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