幕間
こたえあわせ
女性の身体が好きだと気付いたのは、高校生一年生の時だった。
家庭教師として、家にやってきた大学生の彼女は、初めて見た時からとても可愛いらしい人だと思ってた。
週に二回、彼女は私の家にやってくる。兄も独立して家を出て、父も仕事が忙しく満足に帰ってこないこの家で、私と彼女はいつも、二人きりだった。
彼女が、私と同じように同性愛者だったのかは知らない。
好きになってしまったから、ただ、一直線に好きを伝えた。気持ちが通じ合えたと知った時は、天にも登る気持ちだった。
机に向かって勉強なんて、しなかった。いつも私を窘めようとする彼女に愛を囁いて押し倒して、二人の時間の殆どを、ベッドの上で過ごした。
どうせ内部進学するんだから、勉強なんてしなくたっていいと思ってた。
だって、四歳年上の彼女は、私が大学一年生になった年に、卒業してしまうんだから。
そう思っていたけど、同じ大学を受けるように勧められて、私はあっさり進路を変えた。それぐらい、私は彼女のことが好きだった。
今でも、夢に見る記憶がある。十八の誕生日。お父さんから、婚約を告げられた日。
女性が好きだと言うことを、たった一人で育ててくれた父親にどうしても伝えることができなかった。膝の上で握りしめた手のひらの痛みを、今も鮮明に覚えている。
伝えれば、もしかして受け入れてくれるかもしれない。でも、そうじゃなかったら?
今の日本では、同性同士で結婚はできない。当然、子供も作れない。本当に反対せずに受け入れてくれるだろうか。想像もできなかった。
これ以上、お父さんを傷つけることになるんじゃないだろうか。ただでさえ、お母さんを失ったこと、そして、雪にぃと仲違いしてしまったこと、強く後悔しているはずだから。
結婚は、仕方ないことだと理解している。両親も、祖父母も、ずっとずっとそうやって結婚してきたんだから。
浮かない顔していたのが、伝わったのかもしれない。お父さんは、私を諭すようにこう言った。
「結衣、今は複雑に思うかもしれない。でも安心しなさい。お父さんとお母さんも、親が決めた結婚だったけど、確かに愛し合っていた。僕は、彼女と一緒になれて本当に幸せだった。だから、結衣も絶対に幸せになれるよ」
そう言われてしまったら——もう何も、言えなかった。
婚約することになったと伝えた時、彼女は複雑そうに笑った。
嘘をつきたくなかった。それに結婚するのなんてまだまだ先だしと、深く考えていなかったせいもある。
十八歳の私にとって、大学を卒業してから社会人になって、さらに数年後の約束、なんて、想像もできない遠い遠い未来の話だった。
大丈夫、時間はある。まだ、一緒にいられる。本気でそう思っていた。
大学四年生の彼女にとってはそれがまさに目前に迫ってきているリアルなのだと、なぜ気付くことができなかったのか。
その幼さが多分、私の敗因だった。
色の乗ったリップの味も、女性らしい柔らかな身体つきも好きだった。しがみついてくる指が、ブラウス越しに背中に食い込むのもたまらなかった。
付き合うと約束したけれど、私たちがしていたのはセックスだけで。
高校生の私が彼女にしてあげられたことなんて、殆どない。
私にできることならなんでもしてあげたいと思った。早く大人になりたいと願った。
そう思っていたはずなのに、彼女が私の元を去った夜でさえ、不思議と涙は出なかった。
あの日。泣きながら、別れを告げられた時のことを覚えている。
「結衣ちゃんと私では釣り合わない」
釣り合わないって何が。大好きだったその瞳から涙がこぼれ落ちるのを、拭ってあげることもせずに黙ってみていた。
ああ、そうか。私じゃこの人を幸せにできないのか。
それもそうか。将来も約束できない、期限付きの恋なんて、誰も好んでしたりしない。
現実を、突きつけられた気がした。
昔から私は物分かりがよかった。あっさり離れて行った彼女に、追い縋ることもしなかった。
覆水盆に返らず。今更、どうにもならない。
婚約という言葉の重みを痛いくらいに知った。
あれだけ私を愛していると言ってくれたのに、こんなに簡単に去っていくなんてそんなに強い想いでもなかったのかも知れない。
もう少し、一緒に居られると思ってた。こんなに唐突に別れが訪れるなんて、思ってもみなかった。
碌に勉強もしていなかったのに、志望校にはあっさりと合格した。落ちたとしても内部進学すればいいやなんて思っていたから、特に喜びはしなかった。
彼女のいない大学に入学したところで何の意味があるのか。
虚しい気持ちのまま、合格祝いにと慎二に誘われて連れて行かれたジュエリーショップで、婚約指輪をプレゼントされた。
彼女を愛した左手の薬指に指輪を嵌められたとき、左利きの自分を初めて呪った。
多分私は、女性を愛することをやめられない。慎二だって悪い人じゃない。でも、男性を愛することはどうしてもできない。
理由なんて知らない。だって、生まれた時からそうだった。そういう風に生まれてきた。自分で選んだわけじゃない。
自分に贈られる婚約指輪を眺めている時でさえ、いつか誰かに買ってあげる未来を想像した。
してもらいたいと思うより、してあげたいと思う欲求の方がずっと強い。
指輪だって買ってもらうより買ってあげたいし、セックスだってそう。抱かれるよりも抱いてあげたい。
キスしようとしてきた彼を突き飛ばしたことも、結婚するまでは一切そういうことはしないで欲しいと苦し紛れに伝えたことも、罪悪感が全くないわけではなかった。
でも、ちょっとぐらいなら許されるんじゃないだろうか。
大学生活のたった四年間ぐらい、女性が好きな本当の私でいたって。
そのかわり、もう二度と恋人は作らないと固く誓う。
——慎二からもらったその淡いブルーの箱は、あれ以来一度も開けていない。
いつか、私も誰かに贈りたいと思った。でもきっと一生それは叶わないから、代わりに赤い箱のネックレスを自分で買った。いつだってそれは私の誓いだった。
大学生になって、同性愛者だということを隠すことをやめた。思っていたよりずっと、多くの女の子たちが寄ってきて驚いた。
面倒なことを言わなくて、可愛い子だったら誰でもよかった。繰り返すたびに、痛みはただの思い出になった。
もう、つらくはない。
恋とは呼べない恋が終わって、深い深い海の底にいた。
大学の四年間なんてあっという間に過ぎていくだろう。
女性の身体に触れることができるのも、あと少し。
大学三年になろうという時、お父さんから連絡があった。私が一人で住む家に、同居させたい子がいるという。
お父さんの友人の娘。同じ大学に春から入学することが決まっているそうだ。部屋は余っているし、別にいいよと答えた。
空港に迎えに行って、初めてかなたに会った時、冗談でしょ、と思った。
こんなに可愛い子が来るなんて聞いてない。
四年間この子と暮らすのは結構きついな、と思った。
いつか私の悪癖もバレるだろう。その時に彼女がどういう反応をするのか考えると少しだけ怖かった。
あれだけ固く「本気の恋はしない」と胸に誓ったのに。その誓いは呆気ないほどに崩れた。
笑顔が可愛い。ツンツンしてると見せかけて甘えたがりなところも、何かをねだる時の甘い声色も、ちょっと素直じゃないところも、愛おしくて愛おしくてたまらない。
真剣に私を知ろうとしてくれた。痛みに寄り添おうとしてくれた。
深い深い海の底にいた私を、かなたはいとも簡単に引っ張り上げた。
真面目で、誠実で、私とは正反対。
嘘と誤魔化しで固めた薄っぺらい私の心の奥を、一生懸命に覗き込もうとしてくれた。
そんなかなたに、恋をした。
行かないで、と一言彼女に言われただけで、私はここから一歩も動けなくなる。
この子がストレートでよかったと心から思った。ただの片想いで構わない。この恋が実ってしまったら、今度こそ私は立ち直れないだろうと思った。
幸せな想い出だけ作れたら、私はこの先、何があっても生きていける。
かなたは、神様がくれた可哀想な私への最後のプレゼントだと思った。
心まで欲しいなんて贅沢は言わない。私が彼女を愛していれば、彼女が私を愛していなくても構わない。
本当は、わかってた。かなたは他の子たちとは違うと。
手を出すべきじゃない。例え想いが通じ合ったとしても、いつかかなたを傷付ける日が来る。
今は、幸せでも。大好きなこの子を泣かせる日が来る。
だから、愛しているなら、こんなこと、しちゃいけない。
全部全部、わかっていたのに。
一度触れてしまったら、もう、だめだった。あとはもう崖から転げ落ちるかのように、想いは、痛みを伴いながら膨らんでいくばかり。
彼女を愛さずにはいられなかった。この私の不誠実さが、彼女を深く傷付けるとわかっていても。
今の私にあげられる全てを、かなたにあげたかった。
女性を愛することを後悔したことは一度もない。でも、生まれた境遇が違ったら、どんな未来が描けたのかなと何度も思った。
隣で眠る、その寝顔を見つめているだけで私はこんなにも満たされると言うのに。
明日目が覚めたとき、隣にあなたがいてくれるなら、私は他に何もいらない。
物分かりがいいタイプだったはずだった。
かなたが去った日。本当に引き留めなくて良いのかと律に言われて、引きずられるように連れてこられた空港で、足がすくんで、動けなかった。
物分かりがいいなんて嘘だ。愛してもらえなくてもいいなんて、大嘘だ。
これ以上、傷つくのも、傷つけるのも、怖かった。怖くて怖くて堪らなかった。
好きで好きで堪らないのに、追いかけて引き留めたところで今の私は、何もできない。
約束すらしてあげられない。
かなたは同性愛者じゃない。私のせいでこうなった。私がかなたに恋をしたから。純粋な彼女を、私が捻じ曲げた。
あまりにも自分勝手だった。私の勝手で彼女を深く傷付けた。
少しでも、幸せな時を願ってしまったから。
かなたは、私とは違う。
これ以上、追ってはいけない。彼女を傷付けるだけだから。
わかっているのに、どうして今私は、懲りもなく飛び去っていく飛行機を眺めているんだろう。
返されたネックレスを握りしめた手が痛い。
視界がぼやけているのは自分が泣いているからだと気付いた。
バカだな、と自分でも思う。泣いてしまったら、彼女の乗る飛行機が去っていくのを見送ることもできやしないのに。
ばん、と背中を強く叩かれる。
「……何泣いてんのよ、たった一度の失恋くらいで。今まで散々女を泣かせたバチが当たったのよ」
普段悪態をついてばかりのくせに、律の優しい声がする。崩れ落ちていきそうになる体を、なけなしのプライドで支えた。
わかっている。
覆水盆に返らず。今更、どうにもならない。
本当に伝えたい言葉は幾つもあった。
何度も、何度も、飲み込んで、飲み込んで、「好き」と言うたった一言に、ありったけの気持ちを乗せて伝えてきた。
この気持ちは、何一つ嘘じゃない。
情けなくて、涙が出た。どうすることもできなかった、無力な自分が憎くてたまらなかった。
もしも神様が、もう一度だけ私にチャンスをくれるなら。
私は、なんでもする。もう二度と、あの子を傷付けないと誓う。
いつかまた会えたら、その時は——きっと。
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