第50話 大好き
段ボールに荷物を詰め終わると、私が使っていた部屋はすっかりもぬけの殻のようになった。
一年間住んでいたから、それなりに荷物も増えていて、荷造りが終わったのは、出発の前日の夜だった。
あの後、大学には休学届を出した。準備が整ったあと、イギリスの大学に留学という形で通うつもりだ。
バイト先に事情を説明したところ、マスターも早川くんも天崎さんも、すごく残念がってくれて、送別会まで執り行ってくれた。
あの喫茶店は私のお気に入り。留学を終え日本に戻ってきたとき、またバイトしにおいでとマスターは言ってくれたから、突然辞めることになったことに申し訳なく思いつつも、少し心が軽くなった。
自室の荷造りが終わった後、リビングに肩を並べて座っていた、シャチとアザラシのぬいぐるみを手に取る。結衣さんに買ってもらった大切なぬいぐるみ。
スーツケースにしまおうとしたところで、結衣さんの手が私の手を掴んでそれを阻んだ。
「……その子たち、ふたつとも持って行っちゃうの?」
不満そうにいう結衣さんを見上げる。私は思わずどっちのぬいぐるみもぎゅっと胸に抱き寄せて、結衣さんから距離を取った。
「だって、この子たち……私が貰ったやつですよ」
まさか置いていけなんて言うんじゃないでしょうね、と恨みがましい視線を送る。この子たちは、だめ。結衣さんとの思い出なんだから、絶対に手放さない。
「一個でいいでしょ? そのシャチ、置いてってよ」
「……やだ」
「お願い」
「だめ。この子達はお友達なんですよ。離ればなれにしたら可哀想だと思いませんか?」
「かなたと離ればなれになる私の方が可哀想だよ。お願い、この通りだから」
まるで親権を取り合う元夫婦みたいな押し問答の後に、結衣さんがひょいっと私の胸元からシャチを取り上げる。
「あっ!」
「かなただと思って抱きしめて眠るから。シャチはちょうだい」
「どっちかって言わなくても、結衣さんがシャチで、私がアザラシだと思うんですけど……」
捕食関係的に、と自分で言いかけて、恥ずかしくなる。すると結衣さんが笑って、じゃあ交換、と私の腕の中にいたアザラシを取り上げて、代わりにシャチを私の腕の中に戻してくれた。
もう、いいや。そんな風に、抱きしめて眠る、なんて言われたら取り上げることができなくなってしまった。シャチくん、アザラシくん、ごめんね。心の中で謝ってスーツケースの中に入れている間に、結衣さんはアザラシを自室に連れ帰ってしまった。
あれから、できる限りいつも通り過ごすように努めた。母親に電話で報告すると、事情も聞かずに、かなたの好きにしていいよと言ってくれた。
「結衣さん、あと、この荷物たち送っていただけると助かります」
「……うん、わかった」
自室から戻ってきた結衣さんにダンボールを指してそう告げると、寂しそうに結衣さんは笑った。
「ね、かなた、荷造り終わったんでしょ? まだ時間あるし、一緒に映画観ようよ」
切り替えるように結衣さんがそう言う。結衣さんは、私と違って元々さっぱりしてる。きっと前を向いて歩いていけるはずだ。
その申し出にうん、と頷くと、結衣さんは嬉しそうににっこり笑った。
いつもは何を観るか私に選ばせてくれるのに、今日の結衣さんは、「どうしても今日はこれが見たい」と言って、譲らなかった。
選んだ映画は、結衣さんが好きそうじゃないジャンルだったからおかしいな、と首を傾げる。
でも、すぐにその映画を選んだ理由がわかった。
「結衣さん、この映画、四時間近くありますよ……」
「たまにはいいじゃん。面白いと思うよ、たぶん」
そう言って、私のお腹にぎゅっと腕を回して、抱きしめる。もう、と言いながら、仕方なくその手を握って遊んだ。
少しの違和感があって、結衣さんの手をじっと見る。いつもつるりと丸く整えられていたはずの爪は、珍しく少し伸びていた。
映画の内容なんて、たぶん、なんでもよかった。二人とも、きっと同じことを考えている。
もっと一緒に居たい。明日なんてこなければいい。自分で選んだはずなのに、本当にこれでよかったのかと眠れなくなる夜もあった。
そんな夜は黙って結衣さんの部屋に忍び込むと、結衣さんは何も言わずに私を抱きしめて眠ってくれた。
暖かい腕の中にいると、愛おしさがこみ上げてきて、この選択は間違いじゃない、と自分を納得させることができる。
大好きな結衣さんのためなら何だって我慢できる。それがどんなに辛いことだとしても。
四時間近くある超大作の映画は、正直言って全然つまらなかった。たぶん、結衣さんも同じ感想だと思う。でも、私たちはエンドロールが始まっても映画を止めなかった。
すりすりと私の首筋に愛おしそうに結衣さんが擦り寄ってくる。すぐに冷たい感覚がして、彼女が泣いていることに気付いた。
「結衣さん、泣いてるんですか? ……そんなに感動するところ、ありました?」
からかうように言うと、私の瞳からも涙がこぼれ落ちて結衣さんのその手にぽたりと落ちた。
「……かなただって、泣いてるじゃん」
結衣さんが、少しだけ笑いながらそう指摘する。後ろを振り向いて見つめ合うと、二人して笑った。
優しい親指が私の涙を拭ってくれる。それから瞼に、頬に、順にキスをしてくれて、私は結衣さんのその首にぎゅっと抱きついた。
「……結衣さん」
「うん」
「大好き」
「……うん。私も……かなたのこと、大好きだよ」
ぎゅっと、腰を抱き寄せてくれて、ぴったりと身体が密着する。息も出来ないくらい強く私を抱きしめるその腕を、たまらなく愛おしく思った。
翌日。空港まで送っていく、という結衣さんの申し出を、「悠里が見送ってくれるから」と断った。
きっと名残惜しくなってしまうから。帰りたくなくなってしまうから、この家でお別れしようと決めていた。
「結衣さん、これ……」
そう言って、思い出したように私は首の後ろに手を回して、ネックレスを外す。結衣さんから貰った、それ。返さなければいけないと、思っていた。きっとこれは結衣さんの、大事なものだから。
その代わり私もそのネックレスに願いを込めた。どうかこれからの結衣さんの人生が幸せなものでありますように。ありったけの気持ちを込めて、返してあげようと思った。その胸に。
「大事なもの、ですよね? 結衣さんに、返します」
「……いいよ。それ、かなたにあげたものだから」
「じゃあ、私から……結衣さんに、あげる。ずっと、しててください。お願い」
そう言って、結衣さんの手にネックレスを握らせる。結衣さんは、手のひらに収まったそのネックレスを、黙ってじっと見下ろしていた。
「……結衣さん、一年間、お世話になりました。結衣さんに出会えてよかった。ありがとうございました」
少しだけ、声が震えてしまったけど、なんとかそう言い切って、頭を下げる。玄関を出ようとすると、後ろから突然ぎゅうっと強く抱きしめられた。
「……結衣さん?」
「……うん」
「もう、行かないと。飛行機、乗り遅れ、ちゃいます」
「……うん」
離したくない、って全身で訴える結衣さんに、心の奥がじんと熱くなっていくのを感じた。ゆっくりと、振り返る。
そっと背伸びをして、結衣さんの唇にキスをする。結衣さん、私に、恋を教えてくれてありがとう。
「……いつでも、気が向いたら、戻ってきて。かなたのことずっと、ずっと待ってるから」
本当に待っててくれるだろうか? モテてモテて仕方のないこの人が、アザラシのぬいぐるみを抱きしめながら、私のことだけを想って。
思わず、笑みが溢れる。なぜだか、嘘じゃないと思えた。
「……じゃあ、行ってきます」
意識せずにそう呟いていた。行ってきます、だって。私はもう覚悟を決めたのだから、戻ってくるつもりなんかないのに、一年間で身についた習慣って怖いな、と思った。
「うん……いってらっしゃい」
ふっと、結衣さんは笑って、そう見送ってくれた。玄関を出て、ドアを閉める。涙がこぼれ落ちそうになるのを懸命に堪えながら、スーツケースを引いた。
悠里とは駅で待ち合わせていて、他愛もない話をしながら空港へ向かった。留学と言えども結衣さんが卒業するまでの一年間だけのつもりだ。それ以降はまた日本に戻ってきて、一人暮らしをするつもり。そのことは、結衣さんには言わなかったけど。
「英国紳士の彼氏が出来たら教えてね? あ、彼女でもいいけど」
「出来ないよ、恋愛する気ないもん」
「失恋の痛みを忘れるには次の恋ってよく言わない?」
「忘れなくて良いの」
そう、忘れなくていい。寧ろ忘れたくない。この一年間で、私は自分が思っているよりずっと結衣さんのことが好きになってしまったみたいだった。
身は引くけど、心まで引くとは言ってない。好きで居続ける。たぶん、これから先もずっと。
「悠里も、お金と時間があったら遊びに来てね。ロンドン市内、案内するから」
「わかった。バイト代、頑張って貯めることにする」
「待ってるね。あー、寂しくなるなぁ。最後に律さんにも会いたかった」
「律さん、今日結衣さんのとこに行くって言ってたよ。心配だからって」
さすが律さん、アフターフォローもばっちりだ。本当に色んな人にお世話になった一年だった。
「じゃあ、見送ってくれて、ありがとう。元気でね」
「うん、かなたも、気をつけてね」
保安検査場の前で、悠里に手を振る。ゲートを潜ってしまったら、もう結衣さんには会えない。本当は少しだけ躊躇ったけれど、その気持ちを飲み込んで足を進めた。
大丈夫。スーツケースの中にはシャチくんもいるし、私の両耳には結衣さんから貰ったピアスもある。忘れたくない思い出は、ひとつ残らず持ってきた。
飛行機が離陸して、青空に向かって一直線に飛んでいく。真っ白な雲を突き抜けたところで、どうしようもなく結衣さんを恋しく思った。
へんだな、大丈夫だと思ったのに。どうしてこんなに悲しくなるんだろう。結衣さんのためなら何だって、我慢できると思ったのに。
溢れる涙は、止まらない。私は、気が済むまでずっと、人目も憚らずに泣き続けた。
こうして私と結衣さんの関係は、終わりを告げた。終わった、と言っていいのかもわからない。
だって、恋人同士だったわけじゃなかったから、もしかして始まってすらいなかったのかもしれない。
このことを笑って話せるようになるまで、どのくらいかかるかはわからない。数年後かもしれないし、数十年後かもしれない。
でも、もしいつかまた会えたときに、今日の選択は間違いじゃなかったと思えるくらい、あなたが幸せであればいいなと思った。
数年後、まさかもう一度結衣さんと運命的な再会を果たすなんてこと――このときの私はまだ、知る由もなかった。
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