第49話 好きになって、ごめんね
ドアを開けて、中に入る。家の中はしんと静まりかえっていて、ガチャン、というドアを閉めた音だけが響いた。
ここまで来てしまったら覚悟ができたのか、私の鼓動はやけに静まりかえっていて、冷静な自分に少し驚いている。
廊下を抜けて、リビングのドアを開ける。室内は、カーテンを閉め切ったままのようで薄暗かった。
ソファの上に座っていた結衣さんが、私に気付いてはっと顔を上げる。
「……帰りました」
気まずくて、視線を合わせられないままそう呟くと、結衣さんが立ち上がって私に駆け寄った。手を引かれて、がくんと身体が揺れる。そのまま抱き寄せられて、すっぽりとその腕の中に収まってしまう。
苦しくなるくらいの、抱擁だった。振りほどくことはせず、黙ってその腕に身をゆだねる。泣きたくなるほど、大好きな匂いがした。
「……かなた、帰ってきてくれて、ありがとう。傷付けて、本当に……ごめん」
抱きしめられているから、結衣さんがどんな表情をしているかはわからない。ただ、その声が少しだけ震えていた。たまらなくなって、そっと、その背を撫でる。
「私の方こそ、酷いことを言って……ごめんなさい」
結衣さんは、何も言わずに首を左右に振った。そっと腕が緩んだから、結衣さんを見上げる。今にも泣き出しそうに見えて、心臓が、痛いくらいに締め付けられた。
「全部、話してくれますか……?」
そう問いかければ、結衣さんはこくりと頷いた。知りたかった。結衣さんの口から、すべて。
締め切られていたままのカーテンを開けると、柔らかな春の日差しがリビングに差し込んだ。ソファの脇に、結衣さんが昨日着ていたアウターとバッグが乱雑に放り投げてあって、いつもきちんと整理整頓している結衣さんらしくない、と思った。
昨日、ちゃんと寝れたのかな。心配になる。
コーヒーテーブルに二つのアイスティーを置いた後、結衣さんは、私の隣に腰を落とした。
何から話すべきか考えるように、少しの間を開けた後、結衣さんはその重たい口を開いた。
「……慎二とは、十八の時に婚約したんだ。結婚は、社会人になってから、落ちついたタイミングでって話をしてて、明確には決まってない。私が会社を継ぐことになるから、ビジネスパートナーとしてっていう側面がすごく強いんだけどね……。だから、慎二は今お父さんの側近として、働いてる。将来的に経営のサポートができるように」
「そう、ですか……」
わかっていたことだけど、落胆する。想像していたよりも、北上さんはずっとずっと結衣さんの人生に必要な人だったということを知って、胃がキリキリと痛んだ。
恋人として、結婚相手としてだけの存在だったとしたらまだ、救いがあったのに。
「本当は雪にぃが会社を継ぐのが一番いいんだけど……。でも、かなたも知ってのとおり、お父さんとは和解できてないからそれは難しい。だから、婚約を断る選択肢がなかった。雪にぃもいなくなって、私までお父さんの意志を拒絶したら、きっと傷付くと思ったから。ずっとそうやって守ってきた会社だから、仕方ないって、自分に言い聞かせて……」
ぽつぽつと、雨のように降り注ぐ言葉にしんと心が静まり返って行くのを感じる。ギュッと組んだその両手を、白くなるほど強く握りしめているのを見つめながら、今までの結衣さんの苦しみや葛藤を思うと、胸が張り裂けそうになった。
「かなたに……言えなかったのは……伝えたら、離れて行っちゃうような気がして……。本当に、最低だった。黙ってて、ごめん……」
真っ直ぐに見つめ合う。その瞳には一点の曇りもない。
婚約したのは結衣さんが、十八歳……つまり高校三年生のとき。元カノと別れた時期と重なる。結衣さんが教えてくれなかった別れの原因って、多分これなんだろうな、となんとなく思った。
そうじゃなければ、こんなに優しくて素敵な人を、振ったりするわけがない。
その事があったから、きっと、結衣さんは私にその事実を、言えなかったのかもしれない。
「……もう、謝らなくて、いいですよ。黙っていたこと」
いつか、言おうとしてくれていたこと。それがどうしても言い出せなかったという気持ち。理解できないわけじゃない。葛藤していたことも、知ってる。だから、もういい。
私を愛してくれているという気持ちだけは嘘じゃないと、もうわかっているから。
ぎゅっと、結衣さんが私の手を強く握った。
「……ちゃんと、言おうと思ってる。慎二にも、お父さんにも。わかってくれるまで、時間は掛かるかもしれないけど……。もう逃げたりしない。だから……」
「結衣さん」
結衣さんが紡ごうとしていた言葉を遮って、その手を、そっと握り返した。私は、幸せものだな、と思う。大好きなあなたにここまで言って貰えるなんて、それだけでもう、十分すぎるほどだ。
伝えなきゃいけないことがある。ずっと言えなかったこと。言いたかったこと。ありったけの想いを込めて、伝えたいことがあった。
「私……結衣さんのことが好き」
大好きな、その黒い瞳を見つめる。今まで、ずっとずっと言えなかった。だってあなたが、恋人は作らないっていうから。だから、言えなかったのは、結衣さんのせい。
じわりと、その瞳に涙がたまる。ぽろりと頬を伝って落ちたから、そっとその涙を親指で拭った。今まであなたが私に、そうしてくれたように。
「……私も、好き。かなたのことが、大好きだよ」
結衣さんが、泣いたところなんて初めてみた。抱きしめたくなる衝動を懸命に堪えて、精一杯、微笑んだ。確かに今、気持ちが通じ合ってる。お互いを想い合っている。
だから、この恋は――決して間違いなんかじゃなかった。
私は後悔しない。結衣さんに恋したこと。これから先もずっと。絶対に忘れない。
「……私、両親の元に帰ります。結衣さんのこと、好きだから、大好きだから、もう一緒にはいられません」
ぽろぽろと、宝石みたいな涙の粒が、その頬を伝っていく。「なんで……」と、消え入りそうな声で、結衣さんが小さく、呟くように言った。
「……あなたの人生に必要なものを、私は与えてあげられない。それどころか、奪ってしまいかねない。それが……苦しいんです。結衣さんのこと、大好きだから……」
腕を掴まれて、強く抱きしめられる。首筋に、冷たいものが伝って、流れ落ちていく。
「やだ……。行かないで、お願い……。私の側に居て、かなた……」
私を抱きしめる腕が震えていた。昨晩、枯れるほど泣いたと思ったのに、いとも簡単に涙が滲み出して、視界が滲んでいく。
ぎゅっと、抱きしめ返す。私を選ぶことで結衣さんが捨てなければならないものの大きさを思えば、私が出さなければならない答えは、明白だった。
心のどこかで、きっと、優しいこの人は、そう言ってくれると思ってた。私のために全てを捨てると、そう選んでくれると思ってた。思った通り、そうだった。
とても愛情深い人だと、この一年でよくわかっていたから。
だから、そんなあなたのために私にできることは、たった一つしかない。
私は、あなたのこれからの人生に影を落とす存在でありたくない。
陽の当たる道を歩いて欲しい。もしも私に出会わなければ、きっとそうしてたはずだから。
全部、元に戻そう。時間は巻き戻せないけど、進むべき正しい道を歩むために、私はいない方がいい。
泣きたくなるほど辛いけど、苦しいけど、でも、結衣さんのことを想うなら、最善の選択はこれしか思いつかなかった。
でも……離れたくないなぁ。この腕の強さを、この甘い香りを、忘れたくない。
「……結衣さん、最後に、ひとつだけお願い、聞いてくれますか」
ぎゅうぎゅうに私を抱きしめて離さない彼女の背を撫でて、そう囁く。顔をあげた彼女の瞳から、大粒の涙が流れては、落ちていった。
真っ直ぐに、結衣さんを見つめた。その涙の一粒ですら、目に焼き付けたかった。
「……抱いてくれませんか。最後に、もう一度だけ」
その言葉を聞いて、結衣さんのその黒い瞳に絶望の色が灯ったのがわかった。もう私の気持ちが覆ることはないと、わかったのだろう。
この人は物分かりがいい。人の感情を掬い取ることが本当に上手な人だ。
私の性格もよく知ってる。だから、わかるはずだ。結衣さんが私を選ぶために何かを犠牲にすることを、私は絶対に許せないと言うことを。
一度、ゆっくりと瞬きをして、それからそっとその手で私の頬を撫でてから、優しく、唇が重なった。
涙で濡れた唇は、塩辛かった。
結衣さんの身体は、どこもかしこも熱かった。身体中を滑る指が、唇が、触れ合う肌が、私を好きだとあまりにもストレートに伝えてくる。
気持ちよくて、おかしくなりそうだ。息が上がって、全身が沸騰したように熱かった。
熱に浮かされた思考のまま、結衣さんを見つめてその身体をぎゅっと抱き寄せる。
今まで、セックスが嫌いだった。でも、結衣さんとするのは好き。ものすごく愛されていることを実感できる。胸の奥がふわふわするような多幸感が押し寄せてくる。
今まで言えなかった分、気持ちが濁流のように押し寄せてきて、何度も何度も、まるで壊れたように「好き」を繰り返した。そのたびに結衣さんは泣きそうな顔をして、私の唇にキスをくれた。
かなた、と私の名前を呼ぶあなたの声が好きだった。私を愛おしそうに見つめるその眼差しも、ぜんぶ。私だけのものだと思ってた。私だけのもので、あってほしかった。
なにひとつ忘れたくない。流れるような黒い髪も、陶器のように美しく滑らかな白い肌も、全部全部覚えていたい。この先あなたがいなくても、思い出だけを頼りに生きていけるように。
今まで言えなかった気持ちを伝え合うように、何度も好きと言う言葉を重ねて、抱きしめあった。
終わってほしくないのに、憎らしいほど女性慣れしているその結衣さんの長い指が、いとも簡単に私を追い詰めていく。
身体中が震えて、押し寄せてくる気持ちよさに、耐えられなかった。
噛みつきたい。
そう思ってしまったら、弾け飛んだ思考回路は正常に機能してくれなくて、欲求のままにその白い肩に思い切り歯を立てていた。
「い、っ……!」
耳元で、結衣さんが痛みに呻く。あぁ、またやってしまった。でも、許して。これで最後だから。
だって、私にこんな噛み癖を付けたのは、結衣さんなんだから。
どうか忘れないで。私を愛してくれたこと。
身体の力が抜けて、脱力する。視界がチカチカしていて、荒い呼吸のまま目を瞑った。
優しい右手が、私が流した涙を優しく拭ってくれる。とけていきそうな意識の中、結衣さんの声が聞こえた。
「……好きになって、ごめんね」
ギュッと私を抱きしめるその身体は熱い。汗ばむ身体できつく抱き合いながら、結衣さんは、何度も、ごめんと消え入りそうな声で繰り返していた。
全て終わった後、昨夜は満足に寝られていなかったのか結衣さんは私を抱きしめたまま泥のように眠っていた。
ぴったりとくっついて目を瞑る。
出会った日から今日までを一つひとつ忘れないように思い返しながら、私は、その身体をぎゅっと、抱きしめ続けていた。
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