第44話 好きな子とセックスするのに、がっかりする人なんているの?

「手、あげて」


 私のカットソーをたくし上げながら、結衣さんが優しくそう囁く。頭がばかになったみたいに何も考えられないまま、言われた通りにすると、あっという間に着ていたカットソーを脱がされてしまう。


 ブラだけじゃ心許なくて、両手でぎゅっと胸元を隠すようにする。結衣さんの視線が、じっと私の身体を見つめる。


 熱の籠もった視線に、あぁ、今からこのひととセックスするんだ、と噛みしめるように思った。


 ドクドクと心臓がうるさくて、これがアルコールのせいなのか、結衣さんのせいなのかはわからない。


「……下着、可愛いね」


「洗濯するとき、いつも、みてるじゃないですか」


「うん、でも、着てるところは初めて見た」


 カップに覆われていないところを、結衣さんの指先がそっとなぞる。羞恥心をあおられてギュッと目を瞑ると、いつの間にか下肢に伸びていた手のひらが太ももを撫でて、それから私のショートパンツのボタンを外す。


「腰、浮かせて」


 私の首筋に唇を押し当てながらそう呟く結衣さんの、言うとおりにする。どうしよう、すごく恥ずかしい。

 足からショートパンツを抜かれて、文字通り上も下も下着姿になった私を、深い黒の瞳がじっと見つめていた。


 指先がそっと、布に覆われていない私のお腹を辿る。そして、背に腕を通されて、ぎゅっと抱きしめられた。


「……身体、熱いね。赤くなってる。かわいい」


 私、あんまりアルコール強くないのかもしれない。身体中熱いし、頭はぼうっとするし、結衣さんのことしか考えられなくなっている。


 額に、瞼に、唇に、何度もキスを繰り返されて、たまらなくなってその首を抱き寄せた。こぼれ落ちてくるさらさらの黒髪をそっと耳にかけてあげれば結衣さんが笑って、もう一度キスされる。


 さっきまでの優しいキスじゃない。今度は、深く、呼吸も奪い尽くすような、熱の籠もった口づけだった。


 ふしぎだ。舌を絡め取られて吸われるだけで、感じたことのないような熱がお腹の奥にたまっていくのがわかる。そういう、欲をあおるようなキスをしながら、結衣さんの手が背に回った。


 一度唇を離して、結衣さんが、「かなた、背中浮かせて」と私の目を見て優しく言った。


 抱かれ慣れている女性なら、たぶん、こんな風に教えて貰えなくてもわかるんだろうけど、こんなところにも経験不足を透かし見られそうで少し恥ずかしい。私が、自分から、抱いて欲しいと迫ったくせに。


 言われた通りにすると、急に胸元にあった圧迫感がなくなって、ブラのホックを外されたと気付いた。


 あ、と思ったうちに、悪戯なその手が下着の隙間から忍び込んで胸をすくい上げるように優しく包み込んできて、心臓を掴まれたような気持ちになる。


 あぁ、女性の手だ。男性とは違う。なめらかな肌の質感も、香水の甘い香りも、どこをどうとっても同じ女性のものなのに、わたしの心臓はずっと速く鼓動を打ち続けて、鳴り止まない。


 急にものすごく恥ずかしくなってきて、上体を起こそうとした結衣さんの首にぎゅっと抱きついたまま、離さなかった。


「……かなた、くっつきすぎ。これじゃ見えない」


「見なくて、いいです。はずかしいから」


 消え入りそうな声でそう言うと、結衣さんが、手探りでコーヒーテーブルの上に手を伸ばした。


 照明のリモコンを手に取ると、ピッと言う音と同時に室内がぐっと暗くなる。オレンジ色の保安灯は、暗いけれど消してお互いの顔が見えなくもない絶妙な明るさで室内を包み込む。


「これでいい?」


 ぽい、とリモコンをソファの下に投げ捨てて、結衣さんが私に向き直る。


「こっち向いて、かなた」


 顎を持ち上げられて、唇が優しく重なる。角度を変えて何度も、唇を擦り合わせる度に、身体中の力が抜けていく。きもちいい、と思う。結衣さんとするキスは、すき。


 唇が離れると同時に、結衣さんがそっと上体を起こした。今度こそ、私はその身体が離れていくのを引き留めなかった。そっと腕からブラを抜かれて、視線が身体に注がれる。


 顔から火を噴いてしまいそうなほど恥ずかしくてたまらなくて、目を瞑った。どうしよう、これからもっとすごいこと、するのに。もう、限界かも。


 あれだけ大見得切ったのに、怯えてしまう情けない自分に泣いてしまいそうになる。かなた、と名前を呼ばれて、目を開ければ結衣さんが優しく私の頬を撫でた。


「……怖い?」


 この人は、なんでこんなに――優しいんだろう。待たない、と言っておきながら、結局はいつだって私を最優先してくれる。結衣さんのそういうところが、私はたまらなく好きだった。


 左右に首を振る。怖くはない。結衣さんを怖いと思ったことは、一度だって、ない。


「わ、たし……不感症、だから。結衣さん、がっかりするかも……」


 不安な気持ちを吐き出すように告げると、結衣さんは優しく微笑んだ。


「……好きな子とセックスするのに、がっかりする人なんているの? だいじょうぶ。痛かったり、気持ちよくなかったりしたら、遠慮しないで言っていいから」


 アルコールで吹っ飛んだ思考回路は上手く機能してくれなくて、ただこの人を離したくないという思いのまま、結衣さんに手を伸ばした。


 ぎゅっと、結衣さんの首に手を回して引き寄せて、その瞳を見つめる。


「続き、してもいい?」


 うん、と頷くと、結衣さんが嬉しそうに笑った。そっと、降りてくる優しい唇。


 大丈夫、結衣さんとなら、きっと。たとえ痛くても、苦しくても、あなたが私だけを見てくれるなら、それだけで幸せだと思うから。






***






 私にとってセックスは、「相手が満足するまで耐えるもの」、だった。そこに自身の快楽が伴ったことなんて一度もなかったから。


 そういうものだと思ってた。それは私の身体の問題だから、私が悪い。ずっと、ずっと、そう思ってた。


 そう、思ってた――はずなのに。



 待って、待って、待って。おかしい。ぜったいに、おかしい。


 こんなはずじゃ、なかった。だって私は不感症で、今まで、一度だって気持ちが良いなんて思ったことがなくて。


 こんな感覚、しらない。


 身体中に響く甘い痺れをどうにかしたくて、もがくように身を捩っても、身体の奥を深く貫く彼女の長い指から逃れられない。


 かなた、と耳元で熱っぽく名前を呼ばれて、胸の奥が熱くなる。荒い呼吸の合間に、あ、とか、う、とか、言葉にならないような、甘えたような声しか出なかった。


 なにこれ、こんなの知らない。わからない。こわい。じわじわと涙が溢れて止まらなくて、耳元で何度も、かわいい、かわいいと私に囁く彼女の肩を必死に押したけど、そんな弱々しい抵抗に意味なんてなかった。


「かなた、腕、こっち。掴まってていいよ」


 首に腕を回すように促されて、怖くて、しがみつくように引き寄せる。キスされて、勝手にあふれ出す声が、彼女の唇に吸いこまれていく。


 抱きついて密着しているせいで、いい匂いがする。結衣さんの、大好きな匂い。胸の奥が熱くなる。今、結衣さんが、私だけを見てる。


 急に顔が見たくなって、少しだけ抱き寄せていた腕の力を抜く。涙で滲んだ視界の中で、ぼんやりと結衣さんが見えた。夜の海みたいな深い黒の瞳と目が合う。


 射貫かれるような、熱の籠もった瞳。私に欲情してくれていると知って、よくわからない感情がこみ上げてくる。


「ゆ、い、さん……」


 腰から下が、とけてしまいそうなほど熱い。きこえてくる音が、私がどれほど彼女を求めているのかを知らしめる。


「……気持ちいい?」


 そう言われて、やっと、理解した。そうか、これが、気持ちいいって感覚なんだ。理解してしまったら、頭の中がすべて気持ちいいって感覚だけに埋め尽くされていく。


 はじめてだった。こわくないし、いたくない。ただ、ひたすらに、愛されていることがきもちいい。


 こくこくと頷くと、結衣さんが安心したように笑った。


「もっと声、聞かせて。私の名前呼んで」


 言われたとおりに、なんども彼女の名前を呼んだ。触れられている全てが熱い。


 迫り上がってくる未知の感覚に、目の前がちかちかしてくる。


「まって、結衣さん、なんか、や、こわい……!」


 身体が震える。知識としては、知っていた。この行為が快楽を伴うことも、それには終わりがあることも。一生、私が知ることのない感覚だと、思ってた。


 戸惑う私を宥めるように、結衣さんが私の頬に口付ける。


「……大丈夫、怖くないよ。もう少し我慢してね。そしたら、もっと気持ちよくなるから」


 そんなの嘘だ。おかしい、そんなはずない。そう思うのに、悩ましいような甘い疼きが背筋を這い上がって、全身を震わせる。逃げたいのに、逃げられない。


 彼女がセックスのときに使うのは、その左手の、中指と、薬指。言ったとおりそうだった。でも、親指まで使うなんて、聞いてない。


「かなた。好きだよ……大好きだよ」


 耳元で、一際優しい声で囁かれて、ぶるりと身体が震えた。


 あ、もうだめだ。そう思った瞬間から、あっという間だった。


 ドクドクと耳元で自分の心臓の音がうるさくて、頭の中がまっしろになる。


 突き上げる衝動を処理しきれなくて、気付いた時には、そのTシャツから覗いた白い肩に、思い切り噛み付いていた。


「い、っ――!」


 耳元で、うめく声がきこえる。それでも、その指は、止まらなかった。

 全身に電流が走ったように何度も駆け抜ける気持ちよさに意識が持って行かれてしまって、自分が彼女に何をしているのかも理解できていなかった。


 まるで宙に浮かんだみたいな感覚がして、身体中の力が抜けて、結衣さんの首に回していた腕がずるりとソファの上に落ちた。荒い呼吸に、何度も胸が上下する。


 どうしよう、すごい、きもちいい。噛み付きたくなる理由――わかってしまった。


 そっと身体を離した結衣さんが、さっきまで私が噛み付いていた肩を押さえる。よっぽど痛かったのか、ふーと息を吐いて、苦笑いした。


「ごめん、なさい……」


 荒い呼吸の合間にそう告げると、結衣さんがふっと笑って左右に首を振った。


「んーん、いいよ」


 この人の、こういうところが世の女性を虜にする要因かもしれないと思った。なんでも許して、受け入れてくれる。セックスしてるときに限った話ではないけど。


 まだ身体中が甘く痺れていて、呼吸もままならなくて、ソファに沈み込んで行くような気さえする。ぎゅっと抱きしめられて、何度もキスをされて、ぽやぽやと胸の奥に幸せな気持ちがこみ上げてくる。


「……落ち着いた?」


 うん、と頷く。すると結衣さんが、私の首筋にすりすりと擦り寄って、嬉しそうに笑った。


「……かなた、立てる? ベッド、行こう」


「ベッド……?」


 ベッドに行って、なにするのかな。いっしょに寝たいってことかな。アルコールと、与えられた快楽のおかげですっかりばかになってしまった私は、結衣さんに促されるままに、頷いた。


 だって、知らなかったから。女性同士のセックスは、一回では終わらない、なんてこと。







***






「かなた、ねえ、いつまでそっち向いてるの? こっち向いてよ」


 後ろから、結衣さんの拗ねるような声がする。


 ギュッと後ろから抱き寄せられて、しぶしぶ私は結衣さんに向き直る。


 

 ベッドに引きずり込まれてから、私が解放されたのはしばらく経ってからだった。最後の方は、正直もうほとんど覚えてない。


 アルコールがすっかり抜けてしまったせいで、私はさっきまで恥ずかしくて顔も見れなかった。



 自分から迫ってしまった事実に頭を抱えたくなる。



 おずおずと結衣さんを見つめると、嬉しそうに彼女は笑う。


「頭、あげて」


 腕枕をしてくれてぎゅっと抱きしめられる。裸で抱き合うと、ぴったりと密着する身体が心地よかった。


「やっと機嫌、直してくれた」


「……別に、拗ねてたわけじゃないです」


 ただ、恥ずかしかっただけ。結衣さんの鎖骨に唇を押し当てると、くすぐったいと笑う声が聞こえた。


「結衣さん、お風呂入りたい」


「うん、いいよ。もうちょっとしたら、一緒に入ろっか」


 そう言って、結衣さんが視線を壁掛けの時計に向けた。と思ったら、あ、と何かに気付いたように声をあげた。


「かなた、誕生日おめでとう。夢中になってて十二時回ってたの気付かなかった。ごめんね」


 私も日付が変わってたことにも気付かなかった。結衣さんのせいで。


「……ありがとうございます」


 髪を優しく撫でられて、幸せな気持ちが込み上げてくる。そっと、赤く腫れあがっている結衣さんの肩を撫でた。自覚はなかったけど結構な力で噛んでしまったらしく、くっきりとその噛み跡が残されている。


 ふと、結衣さんの鎖骨の下らへんに、一直線に、古い傷跡があることに気付いた。縫った跡? そっと、その傷を指先で撫でてみる。


「結衣さん、この傷……どうしたんですか?」


「ん? あ、これ? これはね、昔事故にあって……その時の傷」


 事故――? 一瞬、聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がした。踏み込んではいけない話題だったかもしれない。結衣さんは、あまり過去のことを話したがらないから。


 はっとしてその瞳を見上げると、その瞳がすっと優しく細められた。聞いていいよ、と言われたような、気がした。


「……私が小学一年生の時だよ。病院に向かう途中で事故にあったの」


「病院……?」


「うん。雪にぃが流行の風邪にかかっちゃって、高熱出したんだよね。お父さんは大事な会議があるから風邪がうつらないようにって、しばらくホテルに寝泊まりしてたけど、看病してたお母さんはうつっちゃって」


 とく、とく、と規則正しい結衣さんの、心臓の音がきこえる。私は、彼女の言葉を一字一句聞き逃さないように、息を飲んで真剣にその言葉を追う。


「お母さんがお父さんに、帰ってきて欲しいって電話してたの覚えてる。でも、お父さんは、帰ってこれなかった。だから、お母さんが車を運転するしかなくて……たぶん、体調、悪かったんだろうね。病院に行く途中で、事故にあった」


 ごくり、と息を飲む。もしかして、結衣さんのお母さんは、その事故で——?


「気付いたら病院のベッドの上にいて、目を真っ赤にしたお父さんが側に立ってた。雪にぃも、私も、後部座席に乗ってたから怪我だけで済んだけど……お母さんは、だめだった」


「雪哉さんと、お父さんが不仲になったのって……」


「うん。それが原因。……雪にぃは、熱を出した自分のせいだと思ってて、お父さんは、帰って来れなかった自分のせいだと思ってる。お父さんは私たちに泣きながら何度も謝ったけど、それが逆効果だったのかもね。雪にぃ、それ以来、お父さんと口を聞かなくなっちゃった」


 そうか、だから、結衣さんは、無理に仲直りさせようとしないんだ。きっと、雪哉さんと、お父さんの自責の念はまだ癒えていなくて。顔を合わせると、辛いから。だから。


 でも、きっと、家族だから分かり合える。時が経てば。だって、親子だから。


 そっと、結衣さんのその古い傷に唇を寄せる。


「そうだったんですね。……話してくれて、ありがとうございます」


「ううん、聞いてくれてありがとう。このこと、初めて誰かに喋った。ピロートークでするような話じゃないよね」


 そう言って結衣さんは笑う。でも、私は。


「ううん、知りたい。結衣さんが話してくれることなら、ぜんぶ」


 拾い集めたピースを、ひとつずつ当てはめて。完成したパズルに描かれていたのは、優しくて、繊細な、ありのままの彼女の姿だった。


 初めて、その心の奥底に、踏み込むことを許されたような気がした。


 できることなら、タイムマシーンに乗って、絶望の最中にいたであろう小学一年生の彼女を、抱きしめてあげたい。


 結衣さんが、私の身体をぎゅっと抱きしめる。


「かなたに会えて本当によかった。今が、一番幸せ」


 私もその背に腕を回して強く抱きしめ返した。ぴったりと、隙間なんてないくらい身体を寄せあって温もりを分かち合う。




 最悪の一日だったはずの十九歳最後の日を終えて迎えた、二十歳最初の日——私は初めて、心の底から人を愛するということを、知った。

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