第43話 これ以上はもう待たない
リビングにたどり着いて、むしゃくしゃした気持ちのまま乱暴にソファにバッグを投げつける。
「……結衣さんのバカ」
あの子の、勝ち誇ったような顔が忘れられない。顔は可愛いかもしれないけど、性格、すごく悪そうだった。
あれが本当にめんどくさくない女? 結衣さんは、可愛ければ誰でもいいの?
「あー……むかつく」
私が急に公衆の面前でキスをしたからか、呆然としていた結衣さんの顔を思い出す。
でも、見せつけてやりたかった。この人は私のものだって。あの子になんか絶対に、渡さない。
ため息をつく。あの後、結衣さんは追ってはこなかった。それに、スマホ……すっごい嫌な音したし。
でも、手を離したのは結衣さんなんだから、私のせいじゃない。結衣さんが全部悪い。
考えれば考えるほど泥沼だ。どんどん澱んだ感情が膨らんでいくばかり。
結衣さんが女遊びばかりしてたこと、私は最初から知っていた。でも、それを目の当たりにした時に、自分がこんなに動揺するなんて思ってもいなかった。
今までは想像だけの世界だったのに、現実にそういう子の存在を知ってしまっただけで、どうしようもないくらい胸が締め付けられる思いだった。
考えたくもないのに、考えてしまう。
結衣さんのあの白い指が、唇が——あの子の身体に触れるところを。あの肩に歯を立てたのであろう、彼女の姿を。
リアルに想像できてしまう。頭から、全然離れない。
結衣さんの腕の中は、私だけの特等席のはずなのに。
「だめだ……。何か飲んで、一旦、落ち着こ……」
今結衣さんが帰ってきたとしたら、きっと私は怒りに任せて色んな言葉を投げかけてしまいそうだった。
キッチンに向かって、冷蔵庫を開ける。ふと、目についたそれ。普段だったらそこにない、レモンの絵柄が乗った缶。
今の私のむしゃくしゃした気持ちを、どうにかしてくれそうな魔法の飲み物。
時計を見る。誕生日まで、あと少し。
——たったの数時間なんて、誤差の範囲内でしょ。
手を伸ばしてその缶を引っ掴むと、冷蔵庫のドアを音が鳴るほど乱暴に閉めた。
***
「ただいま……」
いつになく暗い声が聞こえて、視線をあげる。リビングのドアを開けた結衣さんが、私の存在に気付いて、気まずそうに視線を泳がせた。
「……遅かったですね、結衣さん。あの子のお家にでも行ってきたんですか?」
「そんなわけないでしょ。スマホの画面割れちゃったから、新しいの買ってきただけ。それで時間かかったの。かなたがあんなことするからだよ」
結衣さんが、コートを脱いでラックに掛ける。
「……私のせいですか」
「びっくりするでしょ、普通、あんなことされたら」
「結衣さんだって、いつも私にキスするのに?」
「人前ではしないよ」
「人前で私とキスしたら、何か困るんですか」
「私じゃなくて、かなたが困るんだよ。変な噂広められたらどうするの?」
困ったように、結衣さんが眉尻を下げる。それから、私の隣に腰を下ろした。
「……別にいいです。誰にどう思われたって」
手を取られて、ぎゅっと握られる。結衣さんは私と話をしたいとき、いつもこうして私の手を握る。
「……私はあと一年で卒業するけど、かなたは違うでしょ」
諭すようなその声色も、視線も、面白くない。あの子のことは、こんな目で見ないんでしょ。もっと熱がこもった瞳で、口説いてたんじゃないの?
「私とそういうことしてるって、他の女の子に知られるのが嫌なだけでしょ。一緒に暮らしてるってだけで、嫉妬されちゃいますもんね」
コーヒーテーブルの上の缶を引っ掴んで、ごくりと胃の中に流し込む。さっきから、ずっと体が熱い。心臓がどくどくして、頭もやけにぼうっとする。
「……かなた、何飲んでるの? まさかお酒?」
結衣さんが、ぎょっとしたように私が手に持つ缶チューハイに視線を向けた。
「べつに、いいじゃないですか。どうせあと数時間で、はたちになるんだし」
「かなた……」
嗜めるように、結衣さんが眉を寄せる。なんでそんな顔するの。だって、結衣さんが悪いのに。
付き合ってもらえないのは、あの子も同じ。でも、私は結衣さんとセックスしたことはない。
負けてる。わたしのほうが。結衣さんから、遠い。
身体の関係を持つことを何度か迫られたことはあったけど、付き合ってないからって断れば、いつだって、結衣さんは簡単に引き下がった。
そりゃそうだよね、だってあんなに可愛い子と、いつだって好きな時にセックスできるんだもん。
むかつく。腹立つ。私が知らない結衣さんを、あの子が知っていることが。
「……ごめん、嫌な気持ちにさせたよね」
謝られたところで気分は晴れない。だって、過去は変えられないんだから。
缶チューハイをもう一口飲んで、立ち上がる。テーブルに飲み残しの缶を叩きつけて、その勢いのまま、結衣さんの肩を思い切りおした。
お腹の奥がむかむかする。誰でも良いんなら、別にあの人じゃなくたっていいはずだ。
セックスがしたいだけなら、わざわざ不特定多数と関係を結ぶ必要はないと思う。
恋人じゃなくたって、たった一人、相手を決めればいいだけの話でしょ?
そう、たとえば、私とか。
肩を押されて、後ろに倒れそうになった結衣さんがとっさに腕を後ろについて、こちらをみた。構わず膝の上に乗り上げると、今までみたこともないような驚いた表情をしたから少しだけ気分がいい。
そのまま、着ていたカットソーを脱ぎ捨てようと服をまくり上げると、慌てて結衣さんの手がそれを制した。
「かなた、ちょっとストップ!」
私の腕を握る結衣さんの手はひんやりしていて冷たい。いや、私が熱いだけなのか。なんだかもうよくわからないけど、確かに彼女は私を見ていて、その黒い瞳に熱が灯る瞬間を、わたしもみたい、と思った。
セックスなんて、よくよく考えてみればたいしたことじゃない。
処女でもあるまいし、ましてや相手は女の人だ。失うものなんてはじめから何もなかった。考えすぎだったんだ、付き合っていなきゃいけないとか、そういうの。
初めてそういうことをしたとき、相手のことを好きだったのかなんて今はもう自分でもわからない。
ただ、付き合っているというその言葉だけが、彼がわたしの身体を好きにできる許可証のようなものだった。
その許可証があったからこそ、わたしは彼に身体を差し出さなければなかったし、それがどんなに苦痛であっても耐えなければならないとわたしが自分を納得させることができた唯一の理由だった。
「ちょっと、落ち着いて、急にどうしたの?」
「言わなきゃ、わかりませんか。こういうこと、色んな女の人といっぱいしてるくせに。さっきの子とだって、したんでしょ」
棘のある言い方をしてしまったせいで、結衣さんが少しだけ眉を寄せた。そのまま、視線はテーブルの上に流れる。
面白くない。彼女がわたしを見てくれないのは、面白くない。
白い腕が伸びて、レモンの絵柄が乗った缶を引っつかんだ。中の液体が音を立てる。
「これ……度数高いやつじゃん。かなた、飲み過ぎ。水持ってきてあげるから、降りて」
ちょっとだけ不機嫌そうに言うから、わからなくなる。女の人が大好きなくせに。キスは平気でするくせに。
どうしてわたしの誘いには、乗ってくれないの。
どうしようもなく腹が立った。結衣さんの手を掴んで、思い切り私の胸に押し当てる。
大きくも小さくもない、なんの変哲もないサイズの胸。今日見たあの子みたいなグラマラスな女性と比べると、今はこの胸が心許なく感じる。
面食らったように、結衣さんが石像みたいに固まった。胸に押し当てた手も、ぴくりとも動かない。
「……結衣さんは、わたしには興味ないんですか? 今まで迫ってきたのも、全部冗談だったってこと?」
「……本当に今日、どうしちゃったの?」
「キスはするのに、セックスは躊躇うんですか。それとも、わたしが不感症だから、嫌なんですか」
何の反応もしない女なんて抱いたってつまらないだけ、それはわかってる。だって、前の彼がまさにそうだったから。セックスなんて、痛くて苦しくて、気持ちいいなんて思ったことは一度もなかった。
わたしのからだは、きっと不完全だ。男の人としたってだめなんだから、女の人としたって結果は変わらない。
「そうじゃなくて……。付き合ってない人と、こういうことはしないって言ったのかなたでしょ?」
「……そう思うなら、キスだってしないで」
そんなわたしの意志を最初から尊重する気があったのだとしたら、キスするのだっておかしい。スキンシップの範囲を超えている。
自分だって知らなかった。結衣さんが悪い。結衣さんに出会わなかったら、女の人にときめくことなんてたぶん一生なかったし、こうして女性に迫るようなこともなかった。
「わたしでいいじゃないですか。いつも、家にいるんだし」
「それ、どういう意味?」
「……女遊びは、もうやめてください」
結衣さんと一緒にいると、苦しくなる。夜、彼女がいないとさみしくて、朝、知らない匂いがする彼女とすれ違うと泣きたくなる。
そんな日々を、ずっとずっと耐えてきた。
やっと、毎日家に帰ってきてくれるようになって、安心できるようになったはずだったのに。
結衣さんが、おおきく息を吸って、ため息と共に吐き出した。夜の海みたいに真っ黒な瞳が、じっとわたしを見つめる。
ちがう。そんな目で見て欲しいわけじゃないのに、真剣すぎて息が止まりそうになる。
「かなたは……私のこと、好き?」
そんなわかりきったこと聞かないで。好きでもない人とセックスしようなんて、わたしが言い出すわけ、ないじゃないですか。
「……浮気性の人は、嫌い」
「言ってることめちゃくちゃだよ。好きじゃないなら、なんで私とセックスしたいの?」
「好きじゃない人とセックスしてる結衣さんに言われたくない」
反射で言い返すと、結衣さんが苦笑いした。そのとおりだから、返す言葉もないだろう。この人は、きれいだ。笑ってても、怒ってても、あきれてても。
だからむかつく。他の人なら、いとも簡単に手に入るこの人の体温を、わたしだけが手に入れられないのは腹が立つ。
「……本当に、後悔しない?」
そんなこと、聞かれたってもうわからない。
こみ上げてくる感情を上手く処理しきれなくて、視界が滲んで頬を伝った。こんな気持ちしらない。わからない。答えなんて誰も用意してくれない。
「……他の子に、キスしないで。抱きしめたりするのもいや」
答えになってない、支離滅裂でめちゃくちゃなことを言ってるのはわかってる。しぼりだすようにそう伝えると、いつの間にか胸から離されていた手が、私の目尻を優しく撫でた。
視界がクリアになって、見つめた先の結衣さんは、おかしそうに笑っている。
「……なんで、笑うんですか。真剣にいってるのに」
「かなたって、酔うと結構めんどくさいね」
「……また、めんどくさいって言った」
「ごめんごめん。かわいいよ、すっごく」
そう言って、結衣さんは手にしていた缶チューハイの残りを一気にあおった。
白い喉がごくりと動いて、飲み干した空き缶をテーブルの上に放り投げたと思ったら、肩を掴まれて世界が反転する。
背中が柔らかなソファの布地に押し当てられると、不穏な音を立てて軋む。
「……いいよ、セックスしよ」
上にのしかかってきた結衣さんが、妖艶に微笑んだ。
今まで、見たことのない表情。
急に怖くなってきて、ぎゅっと胸元の服を握りしめると、その手の上に、優しい手のひらが重ねられる。
「怯えないでよ……自分から誘ってきたくせに」
「あの、結衣さん、ちょっとまって」
ぐっと腕を掴まれて、ソファに縫い付けられる。身を守る術を取り上げられたような気がして、心臓が、どくどくとうるさい。
「もう十分待った。これ以上はもう待たない」
首筋に唇を押し当てられて、軽く噛まれる。そういえば、とふと思う。女同士のセックスのおわり、ってなんなんだろう。
わからない。あたまがばかになったみたいに、何も考えられない。
ただ、あなたに願うことはひとつ。
「セックス、したら……女遊び、やめてくれますか……?」
そう言えば、結衣さんがふっと優しく微笑んだ。
慣れた手が、カットソーに忍び込んでお腹から肋骨をなぞって上にあがってくる。さっきまで、冷たいと思っていた結衣さんの手のひらが何故か温かく感じて、少しだけ息があがった。
耳たぶに、押し当てられる唇。
「心配しなくても……もうとっくに、やめてるよ」
優しくそう囁かれたあと、甘い甘い大好きな結衣さんの香りがして、わたしは——たまらなくなって、ぎゅっと、その背を抱きしめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます