大学二年生、春。

第42話 なんだかすごく楽しそうですね、結衣さん

 四月。年度が変わって、私は大学二年生に、結衣さんは四年生になった。


 高校生活の一年よりもずっと早く時間がかけ抜けていったような気がする。結衣さんと出会ってからの一年は、今までで最も充実した一年だった。


 すっかり冬の厳しい寒さもどこかへ行って、心地よい風が吹き抜けるようになった、春の日。


 買い物カートを押す結衣さんの少し後ろをついて歩く。棚には、所狭しとお酒のボトルが並べられていて、結衣さんは迷うことなく、見覚えのあるウイスキーの瓶を籠の中に入れた。


 ここは家の近くにあるリカーショップ。結衣さんの行きつけだそうで、おつまみとか輸入食品とかいろいろ取り扱っているらしい。


 来たのは初めてだ。と言うのも、あと数日で二十歳になる私が飲むためのお酒を今日は一緒に買いに来たのだった。


 結衣さん曰く、自分がどのぐらいアルコールに強いのか最初はわからないはずだから、お店で飲むよりは、家で飲んで慣れたほうがいい、らしい。


「多分、最初からビールは飲めないと思うんだよね」


「そうなんですか?」


「かなた、苦いの嫌いでしょ」


「……嫌いです」


「やっぱり甘いほうがいいよね。初心者には缶チューハイかな?」


 ボトルが陳列されている通りを抜けて、壁面の缶チューハイが冷やされているコーナーに足を進める。


 今まで気にしたことなかったけど、お酒ってこんなに種類があるのか。結衣さんはいつも、基本的にはハイボールしか飲まないから、あまり缶チューハイなんて見たことがなかった。


「好きなの選んでいいよ。何が口に合うかわかんないから、何個か選んで」


 言われた通りに適当にチョイスする。桃、レモン、梅、グレープ。このぐらいあればいいだろう。そんなに最初から飲めないだろうし。


「冷蔵庫に入れておくけど、くれぐれも誕生日になるまでは飲まないように」


 結衣さんが、私の顔を覗き込んで笑った。あと数日なんて誤差の範囲内だと思うけど。


「わかってますよ」


「あー、かなたとお酒飲むの楽しみだなぁ」


 なんだか結衣さん、うれしそう。そういう私も内心ワクワクしていた。今まで一緒に映画を見るときは、私はお酒を飲めなかったけどこれからは違う。


 少しだけ、結衣さんに近づけたような気がしていた。


 買ってきたお酒を冷蔵庫にしまった後、ソファに座った結衣さんの足の間に割り込んで、プロジェクターの電源を入れる。


 その手がしっかりお腹に回ったのを確認してから、リモコンのNetflixのボタンを押した。


「今日は何観ます?」


「かなたは何が観たい?」


「たまには結衣さんが観たいものでいいですよ」


 そう言って、その左手にリモコンを握らせる。こうやって言わないと、いつだって、彼女は私を優先しようとする。


「本当? じゃあ……かなた、これ観たことある?」


 スクリーンに映し出されたタイトルに目を向ける。聞いた事はあるけど観た事はない。と言うのも、映画を好んで観るようになったのは、結衣さんと一緒に生活するようになってからだから。


 今まで私に映画を観る習慣はなかった。


「観たことありません」


 左右に首を振ってそう言うと、じゃあ、これにしようと結衣さんが再生ボタンを押した。


「主演の子がすごく可愛いんだよね」


「へー……」


 なにそれ。ちょっと面白くない。不満そうな声が出たことに気づいたのか、私を抱きしめる腕にぎゅっと力がこもったのがわかった。


「もちろん、かなたの方が可愛いけどね」


「……とってつけたように言われても嬉しくないです」


「本気で思ってるのに。かなたが世界で一番可愛いよ」


 そう言って、優しく頬に口付けられる。ご機嫌斜めだったのに、こんな風に言われるだけで、簡単に機嫌を持ち直してしまう私も大概だとは思うけど。


 映画が始まる。確かに、主演の子は可愛い。でも、結衣さんは私が一番だって。なんて、スクリーンの中の人にやきもち妬いたって仕方ないんだけど。


「もう少しで誕生日だね。プレゼント、何欲しい? 何でも好きなもの買ってあげるよ」


「なんでも? うーん、何がいいかなぁ」


 そう聞かれても、欲しいものなんて、たった一つしか思い浮かばない。結衣さんが欲しい。他には何もいらない。でも、そんなこと言えないから、ちゃんと真剣に考える。


 ネックレスはもうもらったし、ぬいぐるみは、これ以上増えたら、シンプルに統一されている結衣さんの部屋の景観を損ねてしまう。


「欲しいものないの? バッグでも、アクセサリーでも、何でもいいよ?」


 結衣さんって、金銭感覚が私とは全然違うからなぁ。ハイブランドのものを簡単に着こなせるのなんて、そもそも結衣さんに品があるからだと思う。


 ぼーっと映画を見ながら考えていると、主演の女優さんの耳元に光るピアスに目が行った。


 そういえば、結衣さんもいつもいろんなピアスをしてて、素敵だなと思ってた。空けるのって痛そうだなと思って、二の足を踏んでいたけれど、せっかくだし良い機会かもしれない。


「じゃあ、ピアス……」


「ピアス? かなた、穴空いてたっけ?」


 私の髪を耳にかけて、結衣さんが覗き込んでくる。指先が私の耳たぶを優しくつまむから、ちょっとだけくすぐったい。


「これから空けようかなって」


「そうなの? ちゃんと病院でやりなよ?」


「薬局で売ってるのじゃダメなんですか?」


「安全なほうがいいじゃん。麻酔もしてもらえるし、かなたの可愛い耳が腫れたりしたら大変」


 そうなんだ。知らなかった。でもそれならあんまり怖くないかも。少し気持ちが軽くなる。


 すりすりと耳たぶを撫でる指が離れたと思ったら、突然唇を寄せられて、びくりと体がはねる。


「ちょ、っと、結衣さん……! もう、くすぐったい」


「ピアスか〜。嬉しいような、複雑なような」


「なんでですか? 結衣さんもしてるのに」


「家に帰ってきたら外してね? こうやってキスしづらいから」


 結衣さんは、私が耳が敏感だってわかっててこういうことするんだからたちが悪い。別に嫌じゃないけど、ほんとにくすぐったいんだから。


「すぐそういうことばっかり言うんだから……。ちゃんと選んでくださいね、私のピアス」


「いいよー。そうだなぁ、アルハンブラとか似合うと思うけど」


「あるはん……?」


 なんだかよくわからない単語が聞こえて、首をかしげると、後ろでくすくすと結衣さんが笑った。


「ううん、なんでもない。プレゼントと美味しいディナー、予約しておくね」


「おうちでケーキ食べるだけでいいですよ?」


「だめだめ、せっかくの二十歳の誕生日なんだからちゃんとお祝いさせてよ」


 私を抱きしめる腕が強くなる。お祝いしてくれるなんて嬉しい。

 日本に帰国したての頃は、大学生活がこんなに楽しいものになるなんて思ってもいなかった。


 こうやって二人でくっついて過ごす日常がずっと続いていけばいいのに。


 すりすりと首筋にすり寄ってくるから、首を少しだけ後ろに傾けて結衣さんを見る。


 視線が合うと、優しく目を細めて結衣さんが笑った。


 そして優しく重なる唇。


 すごいよね、何も言わなくても、結衣さんは私がして欲しいこと、何でもわかっているみたい。


 大好きだなぁ、ずっと一緒にいたい。叶うなら、大学を卒業するまでじゃなくて、その先もずっと。








***







 子供の頃は、誕生日までの一日一日があまりに長く待ち遠しかった。でも、今は目まぐるしく毎日が過ぎ去っていくせいで、待ち遠しいなんて思う暇もない。


 明日、私は二十歳になる。


 何が変わるかと言えば、別に何も変わらない。強いて言うなら、お酒が飲めるようになることぐらいかな。


 この間久しぶりにお父さんと電話したら、一緒にお祝いできないことを残念がっていたけれど。




 今日最後の講義が終わったあと、悠里と別れて大学の中庭を駅に向かって歩く。

 桜の花が風に舞ってきれいだな、なんて思っていると、通りすがりに噴水の前のベンチに座っている見慣れた人影が見えた。


——あれ、結衣さん?


 足を組んで座っている結衣さんの隣に、やけに距離が近い女の子が一人。

 スマホを触っている結衣さんは彼女に目もくれていないようだけど、右腕の服の裾を引っ張って何やら訴えかけているみたい。


 嫌な予感がする。ちりちりと胸の奥が焼け焦げていくような不快感が広がっていく。


「ねぇ、結衣、いいじゃん。今からウチおいでよ」


「やだよ。今日は用事あるってば」


「いつもそうじゃん。もうずっと、全然遊んでくれない」


「めんどくさいこと言わないって約束したでしょ?」


 会話の流れから、その子が、ただの「友達」じゃない事はわかる。初めて見た、結衣さんの「遊び相手の女の子」。



 可愛い子だ。話してる雰囲気を見ると、結衣さんと同級生なのかな。だとしたら、先輩か。


 なんだか、この間観た映画の主演の女優さんに似てる気がする。って事は、結衣さんの好みの女の子……。


「なんかさー、後輩の女の子と同居するようになってから、付き合い悪くなったよね……」


「そう? 気のせいじゃない?」


「何か嫉妬しちゃうなぁ」


 立ち聞きなんて良くないってわかってる。でも、ここから足が動かなかった。


「嫉妬されても困るよ」


 どんどん腹が立ってくる。結衣さんが相手にしてないって事はなんとなくわかってきたけど、それならなんで一緒にいるわけ?


 明日は私の誕生日なのに。お祝いしてくれるって言ったのに。なんで今違う女の子と一緒にいるの?


 むかつく。結衣さんのバカ。すけべ。女たらし。



 頭に来て、スマホをポケットから引っ張り出して通話履歴をタップする。そして、一番真上にいる名前を選んだ。



 これで私の電話を無視したら、どうなるか、わかってますよね。



 コール音のあとに、少し遅れて結衣さんが手に持ったままのスマホが鳴った。


「あ」


「え、誰、電話? 他の女の子?」


 隣の彼女が不服そうに眉を寄せた。結衣さんは構わずに彼女を手のひらで制する。


「ごめん、ちょっと黙ってて」


 少し遅れて、コール音が止まった。


「もしもし、かなた?」


「なんだかすごく楽しそうですね、結衣さん」


「うわぁ!」


 電話を切って真横から声をかけると、結衣さんがびっくりしたように背筋を正した。


「か、かなた……!?」


 結衣さんは、慌てて彼女がすがりついていた右腕を振り払って立ち上がる。


「び、びっくりした。なんでここに? いつから?」


 まるで浮気現場を抑えられたみたいに、動揺を隠し切れない結衣さんが視線を泳がせる。


 私はそんな結衣さんを思いっきりにらみつけた。瞳だけで伝える。この——浮気者。



 すると、結衣さんに腕を振り払われた彼女が、面白くなさそうに私を一瞥した後、立ち上がって結衣さんの右腕をもう一度ぎゅっと掴んだ。


「もしかしてこの子が、結衣と一緒に暮らしてるって後輩? ふーん、付き合ってるわけ?」


 つま先から頭のてっぺんまで、値踏みするように私のことをジロジロと見てくるから面白くない。


「付き合ってないよ。かなたは私と違うから、変なこと言わないで」


 きっと、噂が立たないように、私をかばうために、そんなふうに言ったんだってわかってる。わかってるけど、腹が立つ。


「そうなんだ、もったいないね、一緒に暮らしてるのに結衣とセックスしないなんて。すっごい上手なのに」


 結衣さんが、めちゃくちゃ冷や汗をかいているのがわかる。私は、腹の奥底から感情が冷えていくのを感じていた。


 怒りとか、嫉妬とか、通り過ぎるとこんなに人って冷静になるんだ。


「最近、全然結衣が相手してくれないから、てっきり彼女でもできたのかと思ってた。そうじゃないなら、噛み付いたことまだ怒ってんの?」


 そう言って、彼女が結衣さんの肩をそっと撫でた。


 覚えがある。そっちの肩。くっきりついたあの噛み跡。あの時の傷、この人が——。


 頭の中で、プツンと音が鳴った。目の前が、真っ赤に染まる。


「ねえ、いい加減に……」


 たまらずに結衣さんが彼女を制そうとした瞬間、自然と体が動いていた。


 結衣さんの胸ぐらを思いきりつかんで、引き寄せる。身長の高い彼女に届くように、少し背伸びして、その唇に噛み付いた。


「いッ……!」


 ガシャン、と何かが落ちて割れた音がする。唇を離して、それから思いきりその胸を突き飛ばす。


「は……、え……?」


 二、三歩よろけた後、結衣さんが、何が起きたかわからないって顔して、呆然と私の顔を見つめた。


 私が噛み付いたその唇に触れて、それから、足元に落っこちたスマホに視線を落とす。

 びっくりして落としちゃったみたいだけど、さっき、割れるような嫌な音がした。


 でも知らない。だって、結衣さんが悪いから。


「……結衣さんの、バカ」


 あっけに取られている結衣さんを睨みつけた後に、私は踵を返して逃げ出すようにかけだした。



 腹立つ。頭に来る。知っていたけど、見たくなかった。


 あの子は、私の知らない結衣さんを知ってる。

 私よりも、もっと深く、結衣さんと繋がったことがある。


 負けた気がして、どうしようもないほど悔しかった。



 天国から地獄。十九歳最後の日は、最悪の一日になりそうだ。

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