第41話 いつ出会ったとしても

 スーパーで買ってきたレトルトのお粥を鍋で温めながら、りんごの側面に果物ナイフの刃を当てる。


 慣れないナイフにヒヤヒヤしながら、不格好ながらも何とかりんごをむくことができた。


 改めて思う。やってくれるから、なんて思ってるようではだめだ。一緒に暮らしているんだから、助け合うことができるように、私もしっかりしないといけない。


 そんな当たり前のこと、なんで今まで気付けなかったのか。


 一年もあったのに。挑戦する機会はいくらでもあったのに。


 


 ぐつぐつと沸騰して泡立つ鍋をぼーっと見つめていた。


 結衣さんって高校生の時からほぼ一人だったって言ってた。こんなふうに、体調不良になることだってあっただろう。


 そのたびに一人でなんとかしてたのかな。それとも、彼女が看病してくれてたのかな。結衣さんより、四つも年上の大人な彼女が。


 ピピピとタイマーが鳴る。熱湯から救出したレトルトのお粥をお椀にあける。


 上に梅干しをのせて、何とか見れる形になった。


 ごめんなさい、次は絶対にちゃんと作れるようになるから。そう胸に固く違う。


 お盆にのせて、結衣さんの自室へ向かう。少しでも食べれたらいいけど。


「結衣さん、入りますよ」


 そう声をかけて、ドアを開ける。ベッドサイドのルームランプだけつけていた彼女の部屋は少し暗い。


「明かりつけてもいいですか?」


「んー、うん」


 ちょっと苦しそうな声がする。体を起こして、それから結衣さんがきょとんとして、私を見つめた。


「どうしたの、それ……」


「お粥です。……食べられる分だけ食べてください」


 サイドテーブルにお盆を置いて、ベッドの端に腰掛けて結衣さんに向き直った。


「ありがとう……すごく嬉しい」


「レトルトですけどね」


「そんなの関係ないよ。私のためにしてくれたんでしょ?」


 そんなに喜んでくれると思っていなくて、照れ隠しにお粥をレンゲで掬う。さっき温度は見てきたから、熱すぎないと思う。


 


「はい、あーん」


 口元に差し出すと、結衣さんが照れたように笑う。


「じ、自分で食べられるよ」


「何照れてるんですか? 私が風邪ひいたときだって食べさせてくれたくせに」


「そうだっけ?」


「そうでした」


 恥ずかしがりながらも、口を開けて食べてくれる。結衣さんも照れたりするんだ。ちょっと可愛い。


「おいしい」


「既製品ですから、味は折り紙付きです。無理しないで、食べれる分だけでいいですよ。食後にりんごもあるので」


 そう言えば、結衣さんがサイドテーブルの上に乗った不格好なりんごに視線を向ける。


「りんごも剥いてくれたの? 怪我しなかった? 大丈夫?」


 私が包丁を握っているところなんて、あまり見たことがないからか、結衣さんは心配そうに、私の左手を見つめた。


 だから、私はどこも怪我していないと言うようにひらひらと左手を振ってみせた。


「大丈夫です。怪我はしませんでした。きれいには剥けなかったけど……」


 そう言うと、結衣さんが笑った。


「本当に嬉しいよ。ありがとう」


 無理していなかったらいいけど、結衣さんはお粥をペロリと平らげてくれた。


 私が剥いたりんごをニコニコとうれしそうに食べてくれるから、なんとなく、いつも私が食べているところをじっと見つめてくる結衣さんの気持ちが、少しだけわかったような気がした。


「カットフルーツと、アイスも買ってきましたから、食べたくなったらいつでも言ってくださいね。あと、はい。ちゃんと熱も測って」


 そう言って、体温計を手渡すと、しぶしぶ結衣さんが受け取った。


「かなたって気が利くね。もしかして彼氏の看病とかした事ある?」


「そんなわけないじゃないですか。……本当は、律さんに電話してどうしたらいいか聞きました」


 観念してネタばらしすると、結衣さんが安心したように笑う。


「律かぁ、確かに、聞くなら適任かも」


「首にネギ巻けばいいって言われましたよ。どうします? 巻いてみますか?」


「……いや、遠慮しとく。絶対、においで寝られなくなる」


「確かに、部屋中に充満しそうですね」


 二人で目を見合わせて笑う。律さんって本当に面白い人だよなぁ。面倒見が良くて気が利いて、優しい。


 律さんが完全な異性愛者でよかった。ライバルだったら正直、全然勝てる気がしない。


「でも、よかった。ちょっと嫉妬しちゃいそうだった」


「そういう結衣さんこそ、今までは誰に看病してもらってたんですか? 元カノ?」


 年上だし、私よりもずっと気が利くだろうし、きっとりんごだってきれいに剥ける人だったんだろうな。そう思うと、劣等感を刺激される。


「まさか。一緒に暮らしてたわけじゃないし、ずっと一人だったよ」


「ふーん……」


「あれ、信じてない?」


「だって、三年も付き合ってたんでしょ」


 だめだなぁ。こんな私は良くない。結衣さんは今具合が悪いのに。嫉妬して責めるようなこと言っちゃいけないってわかってるのに。


 ピピピと体温計が鳴る。覗き込めば、三十八度を超えていた。これはしんどいだろう。


「熱は出し切ったほうがいいって言いますけど、大丈夫ですか? 解熱剤飲みますか?」


 そう尋ねれば、結衣さんは左右に首を振った。


「大丈夫、もうちょっと耐えられる」


 横になるように促して、布団をかけてあげる。すると、結衣さんがじっと、私のことを見つめた。


「……かなたさ、私の元カノのこと、よく気にするけど……」


 手を取られる。その手のひらは明らかにいつもよりも熱くなっている。


「三年間付き合ってたって言ったって、会うのは週に二回だけだった。でも、かなたとは、この一年間、毎日一緒だったでしょ」


「……そうですね」


「だから、そんな三年間なんて、とっくに超えてるんだよ」


「顔を合わせた回数は確かにそうかもしれないですけど……結衣さんは、彼女のこと大好きだったんでしょ」


 日常を共に過ごした数なら、もしかして私の方が勝っているのかもしれない。でも、それとこれとは別問題だ。私が言いたいのは、気持ちの話。


 だって、結衣さんは彼女と「付き合ってた」んだから。私には「付き合って欲しい」なんて言ってくれないのに。


 元カノの方が、本当は好きだったんじゃないの。私より。


 だって私は結衣さんの彼女にすらなれない。その時点で、同じ土俵に立ててない。


「大好きだったよ。ずっと一緒にいたいと思ってた。別れるなんて、思ってなかった」


 心臓が張り裂けそうに痛む。過去形だったとしても、あなたが愛した別の人の話を聞きたくはなかった。


 熱で弱っているからなのか、いつもだったら、ごまかして答えてくれないくせに。今日はいつになく饒舌に話してくれる。


 聞きたいような聞きたくないようなごちゃまぜの感情が、胸の中でぐるぐると渦巻いてている。


「彼女以上に好きになれる人なんて出会えるわけないと思ってた。子供だったから」


 熱い手のひらが伸びて、私の頬を撫でる。泣きそうな私の瞳を、じっとその黒い瞳が見つめていた。


「でもね……思春期の恋と、大人になってからの恋って全然違うみたい。元カノの事なんて今はもう一ミリだって思い出さない。かなたに夢中だから」


 私の頬を撫でていた手のひらが、そっと首筋を通って胸元のネックレスに触れる。


「結衣さん……」


「……私、かなたに言わなきゃいけないことがあるんだ。ごめんね。伝える覚悟ができなくて、かなたが優しいから、聞かずにいてくれるから、それにずっとずっと甘えてて」


「……そんなに、言いづらいことなんですか?」


「できるなら言いたくない。ずっとそばにいて欲しいから」


 どうしてそんな言い方をするんだろう。まるでそれを伝えてしまったら、私が離れていくと思っているみたい。


 そう言われてしまったら、私だって聞くのが怖くなる。


「……いいですよ。結衣さんが伝えたいと思った時で。ずっと待ってますから」


 いつになく弱々しい、彼女を見つめる。愛おしさが募る。私の胸元のネックレスに押し当てられた手のひらに、そっと自分の手を重ねた。


 結衣さんが安心したように笑う。でも、その笑顔は、どこか切なくて、胸が締め付けられるようだった。


「大学、卒業したくないなぁ。留年しようかな」


「留年? 学費がもったいないですよ」


「もっと早く出会いたかった。父親同士が友人なのに、なんで今まで会えなかったんだろうね」


「そうですね。でも、彼女持ちの結衣さんには会いたくないかも」


 だってあなたは一途なんでしょ。きっと彼女がいたら、私には目もくれてなかったはずだから。


 あなたが他の女性に優しくするところなんて見たくない。


「私は……いつ出会ったとしても、かなたのこと好きになってたと思う。そう思うとこのタイミングで良かったのかな? かなたに彼氏がいない時で……」


 眠そうにそっとその瞳を閉じるから、私は結衣さんの手をぎゅっと握ってお布団の上に戻した。


 言わないけど、私も同じだ。


 いつ出会ったとしても、きっと私は、あなたに恋をしたと思う。


 この恋が、例え叶わない恋だったとしても、結衣さんに恋をしたこと、私はきっと後悔しない。


 ほどなくして、規則正しい寝息が聞こえてきたから、そっとその手を離した。


 そして、彼女が起きないように、その唇に、唇を寄せる。


「……おやすみなさい、結衣さん」


 触れるだけのキスをした後に、物音を立てないように部屋を出た。


 風邪移っちゃうかもしれないけど、そうだとしても大丈夫。結衣さんが手厚く看病してくれること、知ってるから。









 今になって思えば、この時から——いや、これよりもずっと前から、結衣さんは葛藤して、苦しんでいたんだと思う。


 考えても考えても答えは出ないけど、彼女に愛されていたという事は嘘じゃないと思える。


 私に言い出せなかったのは、隠し続けることに罪悪感を感じてでも、私と一緒にいたいと思ってくれていたってことだったのかな。


 今となってはもう、わからない。


 本気の恋は、初めてだった。彼女のすべてを受け止めるには、私はまだ、幼すぎたのかもしれない。


 胸の奥に突き刺さった思い出は、色褪せないままずっと、今もまだ血を流し続けている。




 冬が終われば、二回目の春が来る。



 私が彼女と過ごした、最後の季節が。

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