第39話 やらしいことは、だめですよ

 長い黒髪がさらさらと風に揺れて靡いて、甘い香りが鼻腔を擽る。私がよく知る背中が、目の前を歩いている。


 大好きな、結衣さんの匂いがする。


——結衣さん、待って。


 後ろから声をかけて、足を進めて彼女を追いかける。


 でも、なぜかその距離は一向に縮まらなくて、走っても、走っても、後ろ姿はどんどん遠ざかっていく。


 足が取られるように重い。その背は目の前に見えているのに、伸ばした手は空を切るばかり。


 息が苦しくて、へとへとで、疲れ果てて足を止めた時、あぁ、そうか、これは夢なんだと気が付いた。


——結衣さん、お願い、待って。


 掠れた声で名前を呼んでも、振り返ってくれる気配すらない。



 その隣に私じゃない別の誰かがいる。姿は見えない。でも確かに、私じゃないその人に、結衣さんは愛おしそうに笑いかけていて——。








「かなた」


 肩を揺すられて目覚める。はっとして起き上がると、帰ってきたばかりなのかまだコートを羽織ったままの結衣さんがそこに立っていた。


「ん、あれ、私、寝ちゃってた……」


 結衣さんの帰りを待っていて、どうやらソファでうたた寝してしまっていたらしい。時計を見ると、午後八時を少し回ったところだった。


「どうしたの。怖い夢でも見た?」


 そう言って、結衣さんが屈んで私の顔を覗き込む。私の瞼の下を親指で擦るから、そこで初めて自分が泣いていたことに気が付いた。


「あれ……どうしたんだろ……」


 慌てて涙を拭う。


「大丈夫?」


「だいじょうぶです……。結衣さん、おかえりなさい」


 一度深く呼吸をしてからそう言うと、結衣さんが少し安心したように、「ただいま」と笑った。


 そっと、目の前に一輪の赤い薔薇を差し出される。


 状況を飲み込むことができず、差し出されたその鮮やかな赤を黙って見つめたあと、それからきょとんと、目の前に立つ彼女を見上げた。


 寝ぼけた頭がゆっくりと再起動する。そうだった、今日はバレンタインデー。愛する人に想いを伝える特別な日。

 そして私が結衣さんにチョコレートを渡す日で、私は彼女の帰りを、待っていたんだった。


 優しい黒い瞳が私を見下ろしていて、しゃがんで私と目線を合わせてくれる。


 美しいその一輪の薔薇を私の手にきゅっと握らせてから、結衣さんは微笑む。


「かなたに、あげる」


「私に……?」


「今日、バレンタインデーでしょ?」


 少し遅れて、じんわりと込み上げてくる感情。胸の奥に広がっていく、言葉にできない熱を自覚する。


 勝手に、結衣さんってバレンタインは貰う側なんだと思っていた。

 だから、私があげることばかり考えていて、自分が貰う側になるなんてこと、想像もしていなかった。


「……結衣さん」


 呟くように、名前を呼ぶ。


「チョコレートもあるよ」


 背に隠していた、チョコレートの箱。私の膝の上にそっと置いて、結衣さんは私のことを真っ直ぐに見た。


 あぁ、その瞳は苦手。まるで愛おしくてたまらないみたいに、私を見つめるその瞳。


 優しく手を握られて、トクトクと高鳴る鼓動。


「大好きだよ、かなた」


 その言葉が、酷く不安定な私の心の中に染み込んでいく。

 さっきまで見ていた夢では、彼女は私が何度名前を呼んでも答えてくれなかった。


 酷い悪夢だった。


 変なの。今まで一度だって彼女が私の呼びかけに答えてくれなかったことなんてないのに。

 結衣さんは、こうしてちゃんと私に気持ちを伝えてくれるのに。


 どうしてその言葉を、信じきれないんだろう。


 結衣さんの手を引いて、ギュッとその腕の中に飛び込むように抱きついた。


「結衣さん……私も、用意してます、チョコレート」


「えっ、本当に?」


 胸に押し当てた耳から、心底驚いたような結衣さんの声が聞こえた。


「ありがとう。……すごくうれしい」


 ぎゅーっと、苦しいくらい抱きしめ返される。心が、急速に満たされていくのを感じる。


 帰りが待ち遠しくて、ソファに置きっぱなしだった結衣さんのパーカーを抱きしめて眠っていたことを思い出す。だからきっとあんな夢を見たに違いない。





 結衣さんがバレンタイン当日までにもらってきたチョコレートは全部で十二個だった。


 全部食べるのは、はっきり言ってかなり苦労した。でも、一粒だって結衣さんには渡さなかった。


 気持ちのこもったものは、私のチョコレートだけでじゅうぶんだから。







 グラスに水を入れて、そっと薔薇の花をいつでも見えるようにカウンターの上に置いた。


 本当は一輪挿しの花瓶があればよかったけど、それは明日バイト帰りに買ってくるから、今日はこれで我慢。


 結衣さんが、私があげたチョコレートを嬉しそうに頬張るのを見て、自然と笑顔になる。


  隣に座って、ぴったりと肩をくっつける。それから結衣さんから貰ったチョコレートを、私もひとつ頬張った。


 口の中でとろけるチョコレートの味は、今まで結衣さんから横取りしたどんなチョコレートよりも美味しい。


「……かなたがチョコレートくれるなんて、思ってなかった」


「それを言うなら、結衣さんだって。貰う専門だと思ってました」


「……本命だと思っていい? 他に誰かにあげた?」


 意地悪く私の顔を覗き込むその瞳が笑ってる。わかってるくせに聞いてるでしょ、と言いたくなる。


 それがどうにも悔しくて、結衣さんの脇腹を肘で突いて、そっぽを向いた。


 だって私はあんな夢を見るくらい、あなたとの関係を不安に思っているのに、結衣さんは全然そんなそぶりも見せない。


「秘密です」


「なんで、教えてよ。本当に他の人にもあげたとか言わないよね?」


 結衣さんが、焦ったように私の肩を抱いて揺する。きっと私に男っ気がないせいだと思うけれど、いつもそうやって余裕そうにしてるから、たまには私の気持ちを探って欲しい。


「そう言う結衣さんは、どうなんです?」


 私以外にもあげた、なんて言った日には、渡したチョコレートを取り上げてやる。そんなつもりで彼女の目をじっと見つめる。


「かなた以外に、あげるわけないでしょ」


 ふーん、そっか。私以外にあげるわけ、ないんだ。笑ってしまいそうになる頬をなんとか誤魔化す。


「ほんとに?」


「もちろん。で? かなたはどうなの?」


「知りたいですか?」


 いつも意地悪されてるぶん、たまにはやり返さないと。結衣さんがむっと眉を寄せたのがわかったから、機嫌を損ねないようにと、肩に頭を預けた。


「……知りたい」


「じゃあ、目、瞑ってください」


「え、なんで?」


「目を見て話すの、恥ずかしいから」


 そう言えば、不思議そうに結衣さんがその黒い瞳を丸めた。はやく、と促せば、しぶしぶその長いまつげが言う通りに伏せられる。


 その真っ直ぐな瞳に見つめられると、どうしても愛おしさがこみ上げてきて、上手に話せるか自信がなくなってしまう。


 正面から向き直る。本当に、綺麗な顔立ち。ずっと、見ていられる。


「かなた……目、閉じたよ」


 急かすように言われて、ふふ、と私も思わず笑った。


「そんなに私が誰にチョコレートあげたか気になるんですか? 結衣さんだって、色んな女の子からチョコレート貰ってきてたじゃないですか。私は誰からもらったのか、聞きませんでしたよ」


「……貰うのと、あげるのは、違うでしょ」


「そうですね。……でも、私、結衣さんが他の子からチョコレート貰うの、すごく嫌でした」


「ねえ、かなた……目、瞑ってる意味ある? 開けてもいい?」


「だめ。そのまま聞いてください」


 その瞳は開かせない。見つめられたら、会話の主導権を握られてしまうことは今までの経験則で十分にわかっている。


「……わかった」


「答える前に、私も聞きたいことがあるんです」


「なぁに?」


「結衣さんの言う「好き」って、どんな好き、なんですか?」


 ぴくり、と伏せられたままのまつげが震えて、一瞬、動揺が見えた気がした。その瞳は伏せられているから、深い感情までは読み取れないけれど。


 一度聞いてみたかった。その言葉に、あなたがどのくらいの想いを乗せて私に伝えようとしているのかを。


「どんなって……そのままの意味だよ」


 深く息を吸う。


「それって……どのぐらいの、好き?」


 問いかけた声が、少しだけ震えてしまったことに気付いた。

 長いまつ毛が、ゆっくりと動く。深い黒が私を捉える。まだ、目を開けていいなんて言ってないのに。


「かなた」


 名前を呼ばれて視線を伏せる。そっと頬を撫でられて、俯いた。


「……目、開けないでって言ったのに」


「だって、そんな泣きそうな声で言うから」


 腕を引かれて、強く抱きしめられる。こんなに不安な気持ちになるのは、きっとあんな夢を見たせいだ。今もまだ胸の奥がずきずきと痛んでる。


「……さっき泣いてたの、私のせい?」


 左右に首を振る。結衣さんのせいじゃない。あなたを信じきれない、私自身のせいだ。


「怖い夢、見たんです。それだけ」


 半ば縋り付くように抱きしめ返す。優しい手のひらが私の背をあやすように撫でてくれて、少しずつ身体の力が抜けていく。


「……今日、一緒に寝る? もう怖い夢みないように、朝までずっと、抱きしめててあげる」


 こくりと頷く。今日は離れたくなかった。一人で寝るのが、怖くなってしまいそう。


「さっきの、答え、ですけど。あげてないです、結衣さん以外の誰にも」


「……うん、そうだと思ってた」


 嬉しそうに結衣さんが笑う。瞼に、頬に、順に口付けられて、それを受け入れる。


「今日一晩中かけて、私がどのくらいかなたのこと好きか、教えてあげる」


「…… やらしいことは、だめですよ……?」


 念の為にと釘を刺すように言えば、結衣さんが、声を出して笑った。







 恋人を作らない理由を尋ねた時、別れが確定している以上、相手を傷付けるだけだからと結衣さんは言った。


 きっと、この先の未来を信じられないのは結衣さんも同じなんだ。


 私は、待ってるのになあ。


 そんな理由も、何もかも全部投げ捨てて、私が欲しいと言ってくれるのを、ずっと。


 そうしたらもう二度と、あんな夢なんて見ないのに。

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