第38話 私と結婚してくれる?

 バレンタインデーが目前に近づく、とある晴れの日。


 私は悠里と一緒に、百貨店のバレンタインフェアに来ていた。誘ったのは、もちろん私。目的は、結衣さんにあげるチョコレートを選ぶためだ。


 出店しているチョコレートの専門店を、一店一店見て回る。結衣さんはそんなに甘いのが好きってわけではないと思うから、ちょっと大人向けのチョコレートなんていいかもしれない。


「随分、悩むねぇ」


 試食のチョコレートを頬張りながら、悠里がにんまりと笑う。冬になって、トレードマークだった彼女の金髪は、いつの間にかシルバーに変わっていた。なんでも、「推し」の髪色に合わせたんだとか。


「悠里は、誰にもあげないの?」


 私に付き合ってくれた彼女は、自分では買うつもりがないように見える。試食をつまんではいるものの、真剣に選んでいるという感じには見えない。


「だって、別に好きな人いないし、誰かにあげる予定はないかな」


「え、じゃあ、なんで今日一緒に来てくれたの?」


「そりゃーもちろん、かなたに誘われたからだよ。で? かなたは、先輩にあげるチョコレート、なんでそんなに迷ってるの?」


 あっさりと言われて、言葉に詰まる。誰にあげるチョコレートを選ぶのか、までは言っていなかったのに、まさか最初からバレていたとは。


 照れ隠しに、ごほん、と咳払いをする。


「……結衣さんってほら、色んな人からチョコレート貰うから」


「噂には聞いてたけど、春休みなのにチョコレート貰ってくるなんて相当だね」


 そう、結衣さんは、噂で聞く以上にモテる人だ。春休みだし、あまり他の子と会う機会もないだろうと、私も最初は思っていた。


「……結衣さんって、結構飲みに行ったりするでしょ。そこで貰ってくるんだと思う。まだバレンタイン前なのに、もう五つも持って帰ってきてたもん」


 外泊の悪癖がなりを潜めたとは言え、夜遊びに関しては完全になくなったわけじゃない。もちろん、前に比べたらがくっと回数は減ったし、飲みの場には律さんもいるから別にいいのだけど。


 さすがだね、と悠里が笑う。でも、本当に笑いごとじゃない。結衣さんが貰ってきたチョコレートは全部私が食べてしまったけど、問題は、その全てが名の知れた高級チョコレートだったってことだ。


 だから、困ってる。その他大勢の中にひとまとめにされるのは、ものすごく嫌だから。


「いっそ、手作りしたらいいんじゃないの?」


「……そういうの、私、苦手だから」


 市販のチョコレートの方が、絶対美味しいし。第一に、同居しているのにチョコレートなんて作ってたら一瞬でバレると思う。


 だって、私がキッチンに立つことなんて滅多にないんだから。


「大丈夫だよ。何をあげても、喜んでくれるって」


 そんなの、わかってる。結衣さんならたぶん、チロルチョコだって喜んでくれる。でも、だからって、適当に選んで渡すのは違う気がする。一応、バレンタインデーは、好きな人にチョコレートを渡す日、なわけだから。


 想いの籠もった手作りチョコは用意できないから、せめて真剣に選びたい。


「うーん……そうなんだけど」


 悩ましくて、唸るように言うと、そんな私を悠里が笑って、ぽんと肩を叩いた。


「ま、大いに悩んで決めたまえ。ほら、もう一周しよ。恋する乙女に今日は一日付き合ってあげるから」


 そうやってからかうけど、悠里だっていつか好きな人ができたら、きっと私の気持ちがわかると思う。


 わざわざチョコレート選びに付き合ってもらってる手前、何も文句は言えないけれど。


 結局、この後売り場を二周して、赤く可愛い箱にラッピングされたチョコレートに決めた。


 これは当日に渡すから、結衣さんの目のつかないところに隠しておかないといけない。





***





 飲みに行っていた結衣さんから、今から帰るよ、と言うメッセージを受信したのは夜の九時で、彼女がドアを開けたのは、十時を少し回った頃だった。


 おかえりなさい、と駆け寄ると、ただいまと言って、私を片手で抱きしめてくれる。首筋に擦り寄って、結衣さんの香水の匂いを確かめるように吸いこむ。これは確認作業。よかった、香水の匂いは消えていないし、他の匂いは混じっていない。


 結衣さんは、片手に見慣れない紙袋を二つほど持っていて、目ざとい私はすぐにそれがどちらもチョコレートであることに気が付いた。


 そんな私の視線に気付かないまま、結衣さんはコーヒーテーブルの上にチョコレートを置いて、いつもの特等席に腰を落ち着ける。


 私も続いて、その隣に座った。


 今日、バレンタインフェアに行ってきたから、わかる。これ、すごく高いやつだ。


「……今日、遅かったですね」


「あー、帰りにちょっとつかまっちゃってさ、思ったより遅くなっちゃった」


 ピアスを外しながらそういう結衣さんをじとっと見つめる。


 つかまっちゃった、って。何に? どうせ誘われたんでしょ。ホテル? それとも女の子の家? そんな風に責めたくなる衝動を、ぐっと飲み込む。


 誘われたんだとしても、ちゃんと断って帰ってきてくれたんだから。でも、やっぱりちょっと面白くない。


「……これで、七つ目ですね」


「え?」


 テーブルの上に鎮座するそれを指さす。結衣さんが、あぁ、と納得したようにチョコレートに視線を向けた。


「本当に、結衣さんってモテますね」


「そんなことないよ。全部義理チョコだから」


「ふーん……?」


「食べても良いよ?」


 結衣さんが今まで貰ってきたチョコレートを、私が全部平らげたのを、たぶん結衣さんは私がチョコ好きだからだと思ってる。


 そんな風に言うなら。紙袋から、ラッピングされたそのピンクの箱を取り出した。茶色のリボンに挟まれていた小さいメッセージカードを手に取って、開く。


「あ」


「“結衣さんへ、大好きです。また遊んでくださいね。いつでも待ってます”……だって」


 ひらひらと、そのカードを結衣さんの眼前にさらした。ハートがいっぱい書き込まれたそのメッセージカードは、とても義理チョコに付けるようなものではない。


 カードが挟まれていることに気付いていなかったのか、結衣さんがばつが悪そうに視線を泳がせたのがわかった。


「これが義理なんですか? ふーん……。私の知ってる義理チョコとはだいぶ違うみたいなんですけど」


「いや、あの……かなた、これは……」


「ホワイトデー、大変ですね」


 にっこり笑って嫌味を言ってやると、結衣さんが、私が手に持ったままのメッセージカードを取り上げて、ぽいとテーブルの上に放り投げた。それからそっと私の手を取って、機嫌を伺うように私を見つめる黒い瞳。


「返さないよ、ホワイトデーは。最初からそう言ってるから」


「……ふーん。本当に?」


「本当。気持ちには応えられないって、ちゃんと言ってる」


 そう言われて、もし私が結衣さんにチョコレートをあげて、そう言われたらショックだな、なんてちょっとだけ思った。


 少しだけ怖くなる。結衣さんにとって私もその子たちと同じだったらどうしようって、思ってしまう瞬間がある。


 じゃあ、それじゃあ、結衣さんは、一体チョコレート誰にあげるんですか。


 そんなことを言いかけて、ある名前が脳裏に過ぎった。顔も見たこともない、その人の想像だけの姿が脳裏に浮かんで、消えてくれない。


「……結衣さんは、チョコレート、北上さんに、あげるんですか?」


 耐えきれずにその名前を出した瞬間、結衣さんが少しだけ驚いたように目を見開いた。


「え? なんで?」


「なんとなく。だって結衣さん、いつもプレゼント貰ってるじゃないですか。こういうときって、異性だし、お返しするものなのかなって思っただけです」


 誕生日に、クリスマスに、毎回高価なプレゼントを結衣さんに贈っている、顔も知らないその人。


 バレンタインデーって、どうしても男女のイベントってイメージがあるからかもしれないけれど……あげるのかな。だとしたら、嫌だ。ものすごく。


「あげないよ」


 そんな私の心配を否定するように結衣さんが左右に首を振る。よかった。少しほっとする。あげる、なんて言われたらどうしようかと思った。


「……最近、慎二のことすごく気にするよね。なんで?」


「え、気にしてるように、見えます?」


「うん、見える」


 繋いだ手を優しく撫でられて、私の心を見透かそうとその瞳が私を見つめる。結衣さんの、この瞳が好きだ。夜の海みたいな、凪いだ深い黒の瞳。私の心を知ろうとしてくれる、この瞳がたまらなく好き。


 気にしていないと言ったら嘘になる。なぜ気になるのか、なんてわからない。たぶん、女の勘。直感でしかない。だから、その理由は説明できない。でもそれは、確かな違和感だった。


「ねぇ、なんで? 教えて、かなた」


 答えを急かすように名前を呼ばれたけれど、言わない、絶対。理由もないけど気になるなんて。


「……結衣さん」


「ん?」


「……お腹減った、何か作って」


 突拍子もない言葉に、結衣さんが、驚いたように目を丸めた。


「えぇ? なにそれ。かなた、誤魔化すの下手すぎない?」


 あはは、と声を出して笑う彼女の手を引っ張る。誤魔化そうとしているのに気付いているのなら、意地悪しないでこのまま黙って誤魔化されてくれればいいのに。


「いいから早く、夜食、作って」


「だってもう十時だよ? 本当にお腹すいてるの?」


 私の顔をのぞき込む、悪戯な瞳。絶対に、嫉妬している私の気持ちに気付いてるくせに。


「すいてるの。焼きおにぎりがいい。前に作ってくれたやつ」


「もー……しょうがないないなぁ。じゃあ、その代わり、ハイボール作ってよ。今からまた飲み直すから」


 嬉しそうに結衣さんが笑う。だから私も立ち上がって、キッチンへ向かう結衣さんの後に続いた。






 言ったことはないけど、私は結衣さんがこうしてキッチンでハイボールを飲みながら夜食を作っているのを眺めているのが好きだったりする。


 そんな姿が見たいから、わざわざ夜食をリクエストすることだってあるくらいには、私だけが知るあなたの姿を、私は心から愛おしく思っている。


「すぐできるから、座ってていいよ?」


「……ここで待ってます」


「そんなにお腹すいてたんだ」


 それもあるけど。ずっと見ていたい。だって、きっとこれは私だけにしか見せない姿だと思うから。


「……結衣さんと結婚する人は幸せですね」


 ぽろりと、唇から本音がこぼれ落ちた。おにぎりをひっくり返そうとしていた結衣さんの手が、一瞬だけぴたりと止まる。


「……なんで?」


 少しの間を置いて、でも、フライパンから視線を逸らさないまま結衣さんがそう言った。


「家事も料理も、完璧だし、美人だし、優しいし、理想のお嫁さんですよね」


「結婚ねぇ。したいと思ったことないなぁ」


「え、どうしてですか?」


「……だって私、男の人好きになれないし」


 その横顔が、あまりにも寂しそうで、胸がぎゅうっと切なくなる。そんなつもりで言ったわけじゃなかった。確かに、今の日本では同性同士で結婚することはできないけど、でも。


「……どうして、男性と結婚するって決めつけるんですか? 将来的には女性同士で結婚できるようになるかもしれないじゃないですか」


 そう言えば、結衣さんが、声を出して笑った。


「あはは、なにそれ。本気で言ってる?」


「冗談じゃなくて……本当に。いつか、そんな未来がくるかもしれないじゃないですか」


 焼けた醤油の、香ばしい香りがする。ひっくり返ったおにぎりは、こんがりおいしそうなきつね色をしていた。


 本当に、結衣さんと結婚する人は幸せだと思ったから、言った。決して彼女が男性の隣にいるところを想像して言ったわけじゃない。


 そんな、寂しそうな顔をしてほしかったわけじゃ、なくて。


「……そうだね、そうなるといいよね。じゃあ、もしそんな未来が来たら、私と結婚してくれる?」


「えっ……?」


 驚いて、結衣さんを見つめる。優しい瞳が私を見つめていた。


「だって、私と結婚する人は幸せなんでしょ? だったら、私がかなたのこと幸せにしてあげる」


 どっくどっくと心臓が高鳴る。これって、もはやプロポーズじゃないの。顔が、熱くなっていく。好きな人にこんなこと言われて、嬉しくない人なんているんだろうか。


「私、は、いいお嫁さんにはなれないと思いますよ。家事とか全然、できないし」


「いいよ、しなくて。側にいてくれるだけで、じゅうぶん」


「それなら……考えて……おきます……」


 絞り出すようにそう言うと、結衣さんがまた、声を出して笑った。






 表面がぱりぱりで香ばしい焼きおにぎりを頬張る。そんな私を結衣さんがダイニングテーブルの向こうで、ハイボールを飲みながらにこにこと見つめていた。


「政治家にでもなろっかなぁ」


「え、急に、どうしたんですか」


 政治家? なんで? 頭の上にはてなマークが飛ぶ。


「日本の法律を変える。かなたと結婚するために」


 にっこり笑ってそう言うけど、冗談なんだか本気なんだか、結衣さんってやっぱりよくわからない。


「……一度でも浮気したら、慰謝料取って離婚しますからね」


 照れ隠しにそう言えば、結衣さんが嬉しそうに笑った。


「浮気なんてしないよ。私、こう見えてすごく一途だから。ずっと大事にするよ」


 どの口が言うんだか。でも、そんな未来が本当に来たらいいな。


 そしたら、クリスマスに約束した通り、新婚旅行は絶対に星が綺麗に見えるところに行くんだ。


 インド洋に浮かぶ、エメラルドグリーンに囲まれた美しいリゾートの島へ。

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