第37話 別のことしたいんじゃないの?
ソファの上、彼女の足の間は私だけの特等席。映画を見ている結衣さんの腕の中で、手持ち無沙汰に彼女の左手を握ったり撫でたりして弄ぶ。
百貨店の催事場が、チョコレートで賑わう季節。バレンタインデーまで、もう少し。
楽しみのようでいて、最近の私の悩みの種でもある冬の一大イベントが近づいてくる。
モテてモテて仕方がないこの人は、きっと大量のチョコレートを貰ってくるに違いない。
そしてそれを私は、心の底から面白くない、と思っていた。
白くて長い指。色の乗った短い爪。なめらかな手の甲にまで、確かめるように順に指を這わす。
恋人は作らないと公言する結衣さんの、「特別」を手に入れたはいいものの、こういうイベントが続く度に、思い知らさせるような気持ちになる。
今は、結衣さんにとっての「特別」かもしれない。でも、それがいつまで続くかは、わからない。
恋人になったからと言って、その関係が永遠に続くわけじゃないということはわかっている。
別れはいつでも予期せず訪れるものだし、今の日本では同性婚が許されていないから、その関係はどこまで行っても平行線だ。
このままでも幸せだと言えたらいいけど、結衣さんが気移りしない保証なんてどこにもない。
あーあ。バレンタインなんてなければいいのに。
私からあげたところで、きっと他の子たちからのチョコレートの山に埋もれてしまうだろう。
私以外のチョコレートなんて……受け取って欲しくないな。
恋人だったら、言えるのに。「断ってください」って。
そうしたら私だけがあなたにチョコレートを渡すことができる。その他大勢の中のひとつとしてじゃなくって。
そんなこと、口が裂けても言えないけれど、そんな私のわがままを、いつだって結衣さんにはわかって欲しいのに。
恋人じゃないと言えないわがままだって、言ってみたい。そして笑ってそれを許してほしい。いつもみたいに優しい笑顔で。
きゅっと、握り返される手。かなた、と優しい声が耳元で聞こえて、身体ごと振り返った。
私の頬を撫でる結衣さんの手のひら。まっすぐに私を見つめる瞳。首の後ろに手が回って引き寄せられるから、キスされるとわかって目を瞑った。
一度優しく触れてから、何度も角度を変えて重なる唇。キスを受け入れることも、いつからか当たり前のようになっていた。
映画はたぶん、重要な局面だったと思うのに。繰り返される熱の入った口付けに、腰に回った腕にいよいよ力がこもったのがわかって、たまらずに肩を押して距離を取る。
「……結衣さん、長い、です……」
呆気なく唇は離れたけれど、腰を抱き寄せる腕は私を離すつもりはないらしい。どこまでも深く、黒い瞳が私をじっと見つめる。
「映画、観ないんですか……?」
なんで突然キスしてきたんだろう。さっきまで結衣さん、集中して映画を観ているみたいだったのに。
「んー、だって、退屈そうだったから。別のことしたほうがいいかなって」
そう言われて、ぎくりとする。
退屈だったわけじゃない。映画は、ところどころでちゃんと観ていた。話もなんとなくだけど理解できてる。
ときどき、考え事に気を取られていただけだ。
私が結衣さんの手で遊びだしたから、興味がないと思ったんだろうか。
結衣さんって、本当に察しがいい。私が集中できていないって、すぐに見抜いてしまう。
でも、だからって、「別のこと」としてキスしてくるところが結衣さんらしいと言えば、らしいんだけど。
「退屈ってわけじゃ……ないです」
「そう? じゃあ違うの観る?」
結衣さんの左手が、リモコンに伸びた。それを捕まえて、ぎゅっと握って阻止する。
別に、違うのを観なくてもいい。何を見ても、たぶん今日の私はずっと同じだから。
手を握ったまま真っ直ぐにその瞳を見つめると、長いまつげがぱちぱち、と瞬きを繰り返した。
きょとんとしている結衣さんの手を引いて、もう一度私の腰に固定する。
なんとかして結衣さんをバレンタインデーから遠ざけたい。いっそこの家に閉じ込めて、女の子たちから、隔離してしまえたらいいのに。
そのためにはもっと私を好きになって貰わないと。他の子に目を向ける余裕もなくなるくらい、もっと私に夢中になってほしい。
「……やっぱり、別のこと、します」
「え?」
自分で言ったくせに。私がそんなこと言うなんて思ってなかったのか、結衣さんが一瞬固まった。
言葉の意味を探るような視線。もっと直接的に言わないと、だめだったかもしれない。
部屋着の白いパーカーの胸元をぎゅっと掴んで引っ張る。
「……キスしてって、言ってるの」
はっきりとそう言えば、やっと意味を理解したのか、結衣さんが驚いたように少しだけ目を見開いた。
それから間を置かず、身体をひっくり返されてソファに背が沈む。
噛み付くように口付けられて、私もその首を引き寄せるように抱きついた。
私だけを見ていて欲しい。ちゃんと約束してほしい。私以外の誰も愛さないって、お願いだから神様に誓って。
結衣さんが遊んでいる子たちみたいに、私はそう簡単に割り切れない。
呼吸も奪われるような口付けに、身体中がぞくぞくして意識がぼうっとして来た頃、お腹にひんやりした感触がして、驚いて唇を離した。
「ちょ、っと、結衣さん……!」
悪戯な手が、部屋着の中に忍び込んできている。胸まで辿り着きそうになって慌ててその手を押しとどめた。
「何ですか、この手……!」
「……だめ?」
押さえる手の力を抜いてしまったら、さらに上まで侵入を許してしまいそうで、ぎゅっと服の上からその手を掴む。
「だめ、です」
「映画、退屈なんでしょ? 別のことしたいんじゃないの?」
映画が退屈だからって、どうしてセックスしようって話にまで発展するんだか。
キスは、いい。そこまでは許してしまったんだから、もう仕方がない。
だけど、セックスはだめ。これは最後の砦。付き合ってないのに、そういうのは……よくない気がする。
「キスしてとは言いましたけど、そこまでして欲しいとは、言ってません……」
そう言えば、結衣さんがむっと不満そうに眉を寄せた。
「……かなたは、こんな風にキスしてたら、セックスしたくなったりしないの?」
へっ? と素っ頓狂な声をあげて、固まる。したくなったりするか、なんてそんなこと聞かれて答えられるわけがない。
結衣さんとするキスは、気持ちいいと思ってる。お腹の奥が熱くなったりも、する。
私だって、あなたのことが好きで好きでたまらないんだから、そういうのは生理現象だし仕方がないことだと思うけれど、それを結衣さんに言うのはあまりにも恥ずかしい。
したくなります、なんて言ったら、それこそもう本当にやめてくれない気がした。
「結衣さんは、どう、なんですか」
苦し紛れに、質問で返す。だってなんて返せばいいかわからなかった。
「私は、したくなるよ。かなたにもっと触りたい」
あっさりとそう言い返されて、私の上にのしかかっている彼女をまっすぐ見ることができなかった。全身が熱くなる。火を噴いてしまいそうだ。
「……それってどういう、感情なんですか。私に触ったって、結衣さんが気持ちよくなるわけじゃ、ないですよね」
「女の子の身体って、触ってるだけで気持ちいいんだよ。それが好きな子なら尚更」
好きな子なら、ね。なるほど、「好きな子」を抱いたことがある人の発言だ。さすがにむっとする。過去の人に嫉妬したところで、どうしようもないってわかっているけど。
「ふーん……」
さらさらの黒髪を撫でて、こぼれてくる髪を耳にかけてあげるついでに耳の縁を指先でなぞる。
ピアスを撫でたあと、それからぎゅっと首に抱きついて引き寄せて、耳元に唇を寄せた。
「……女の子なら、誰でもいいくせに。結衣さんのバカ。すけべ。女たらし」
そう言って、少し強めに耳朶にガブ、と噛み付く。痛っ、と声が聞こえた気がしたけれど、そのままぱっと抱き寄せていた腕を放して結衣さんの肩を押し返した。
「だめ。付き合ってない人と、そういうことはしません」
はっきりとそう告げると、結衣さんがしゅんと項垂れる。しぶしぶ、私の上から退いてくれたけれど、あまり納得できてない様子。
「……誰でも良いなんて、思ってないんだけどなぁ」
私が噛みついた耳を撫でながら、結衣さんが溜め息をこぼす。
「……じゃあ、今まで結衣さんが抱いてきた子たちは、みんな特別ってことですか?」
それはそれで面白くない。私もむくりと起き上がって、唇を尖らせてそう言えば、結衣さんが左右に首を振った。
「まさか。私、好きな子以外抱かせてなんて迫ったことないよ」
「本当に?」
「嘘ついて、どうするの」
確かにそうだけど、でも。
やっぱりムカつくなぁ、可愛い女の子のお誘いには、その気になってしまうのであろうこの人が。
「……バレンタインデー、結衣さんって毎年何個ぐらい貰うんですか?」
突拍子もない質問に、結衣さんが目を丸める。
「え、バレンタイン?」
「結衣さん、去年はチョコレート、何個貰ったの」
もう一度尋ねると、考えるように視線を泳がせたから、ぱっと思いつかないくらいの数を貰っているんだと容易に想像が付く。
そのチョコレートの数が、多分あなたが抱いたことのある女性の数、なんでしょ。
「……そんなに、たくさんは貰ってなかったと思うけど」
白々しく嘘をつくから、手を伸ばしてその頬をぎゅっと摘んでやる。
痛いよ、と結衣さんが抗議したけどそんなの知らない。
「嘘つき。たくさん貰ってるから、何個貰ったか答えられないんでしょ」
バレンタインデーまで、もう少し。
結衣さんが貰ってきたチョコレートは、私が全部食べてしまおうと胸に固く誓う。
結衣さんはそんなに甘いものが好きってわけじゃないから、私からのチョコレートだけで、十分だ。
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