第35話 かなたとキスすることの方が、私にとっては大事

 クリスマスが終わったら、年越しまでは本当にあっという間だった。気付けば今日は、一月一日の、朝。


 戻ってきたらと両親には言われたけれど、テストが終わっていないということを言い訳にして、今年の年越しは、日本に留まることにした。


 おかげで結衣さんと新年を迎えることができたし、今日は初詣に一緒に行く約束をしている。


 朝ご飯にと、結衣さんがキッチンで切り餅の大きな袋を開けてくれたときから、わくわくが止まらなかった。なんでも、お餅はトースターで焼けるんだとか。


 砂糖と醤油の甘塩っぱい味付けの、切り餅を食べたのは初めてだった。焼けた海苔と醤油の香ばしい香りに、笑顔になる。


「おいしい?」


「おいしいです。もう一個食べたい」


 何個食べる? と聞かれたときに一個でいいです、と数分前に答えたのは私だった。忘れたふりしてそう言うと、結衣さんが笑って、いいよ、と立ち上がった。


 クリスマスが過ぎてから、一度だけ結衣さんが食事会があると言って家を空けた日があった。翌日には、アクセサリートレーの脇に置いてあった淡いブルーの紙袋の傍に、もう一つ紙袋が増えていた。


 あの人か、となんとなく嫌な気持ちになる。


 北上さんから、クリスマスプレゼントを毎年貰っているのか聞いた時、覚えていないと言っていた結衣さんだったけど、たぶん、この感じだと誕生日やクリスマスは毎年欠かさずプレゼントを贈られているのだろう。


 結衣さんは何も言わない。だから、私も、何も聞かない。


 男性なんだから、大丈夫。何も心配はいらない。自分に言い聞かせるように、その言葉を胸の中で繰り返す。


「かなた、お餅焼けたよ」


 どうぞ、と差し出された美味しそうなお餅と、優しい眼差し。


 結衣さんって、私がお願いすればなんでもしてくれる。それがたまらなく嬉しい。甘やかされて、どんどんわがままになっていく自分がいる。


 これは、きっと私だけに許された特権。だから、大丈夫。


「ありがとうございます」


 かぶりついたお餅はやっぱり美味しくて、頬が綻んだ。そんな私を結衣さんが、テーブルの向こうでにこにこと見つめている。


 結衣さんって私が何か美味しいものを食べてるとき、いつもすごく嬉しそうに私を見てる。


 私は、そんな結衣さんが好きだった。好かれているんじゃないかって。愛されているんじゃないかって、そんな気持ちにさせてくれるその眼差しが、私の胸の奥をいつだって熱くする。






 朝食を食べたら、着替えを済ませて出かける準備を終わらせる。


 首の後ろに通したネックレスを留めるのにもたついていると、結衣さんがそっと手伝ってくれる。


「かなたって、意外と不器用だね。外すときもいつももたもたしてる」


 そう言って、結衣さんがくすくす笑うから、むっとして振り返った。だって、アクセサリーなんてあまりしたことがないから、仕方ないと思う。


「……今は、慣れてないだけで、そのうち一人でできるようになります」


「私が毎日やってあげるから、別にできなくたっていいよ」


 さらりとそう言ってのけるから、息が詰まった。あぁ、今、思わずきゅんとしてしまった。毎日っていつまでなんですか、なんて、聞いてしまいそうになる。


 そうやって、結衣さんは私ができないことをなんでも許してしまう。そんなあなたのそばにいると、私はダメになっていってしまいそうになって怖くなる。


 もう、結衣さんがいないと生きていけなくなってしまいそうな、そんな錯覚に陥る。


「はい、じゃあかなたも私にやって」


 そう言って、結衣さんは笑って私にマフラーを手渡した。クリスマスに、「サンタさん」こと私が結衣さんにプレゼントしたそれ。


 にこにこ笑って私を見下ろす結衣さんに、何を言おうとしているのか理解して少しだけ頬が熱くなった。


「……自分で、巻けますよね?」


 照れてしまって、ぎゅっとマフラーを握りしめたまま軽口を叩く。そんな私の可愛くない態度にも慣れっこな彼女は、少しだけ首を傾げて私をじっと見つめた。


「私もやってあげたでしょ。かなたも私にしてよ」


「……結衣さんって、ネクタイとか結んでほしいタイプですか?」


「ネクタイすることないもん」


「……高校の制服、ネクタイでしたよね。元カノに結んで貰ったこと、あるでしょ、絶対」


 自分で言っておきながら、想像してムカついてきた。私はネクタイなんて結べないけど。お父さんのだってやったことない。


「そんな昔のこと覚えてないよ。ね、はやく。出かけるの遅くなっちゃうよ」


 昔って言っても、数年前のことを忘れているわけがないくせに。でも、こんなことで不機嫌になっていても仕方ないから、にこにこ笑う結衣さんに、今は押し負けてあげる。


「……しょうがないなあ。じゃあ、ちょっと屈んでください」


 結衣さんは、私より十センチぐらい身長が高いから、屈んでくれないと届かない。


 マフラーを広げて、結衣さんの首にかけようと手を上げると、結衣さんがそっと屈んで、そのまま私の腰を抱き寄せた。


 あれ、と思った瞬間には、結衣さんの整った顔がすぐそこにあって、優しく唇が重なる。最近結衣さんはこうして不意打ちでキスしてくる。リップ、塗ったばっかりなのに、取れちゃう。


 そう思いながらも、角度を変えて何度も触れる唇が擦れ合うたびに、何とも言えない気持ちよさが私の頭をバカにする。


 唇が離れて、至近距離で目が合う。すっと悪戯に細められた瞳に、してやられた気がして恥ずかしくて視線をそらした。


「マフラー、巻いてほしいんじゃなかったんですか……」


「うん、早く巻いて」


 優しい声が、私の心をくすぐる。私の機嫌が悪くなりそうになったときの、結衣さんの危機察知能力は恐ろしく高い。こうやってキスされるだけで、簡単に機嫌を持ち直してしまう私も私、なんだけど。


 マフラーを巻いてあげると、結衣さんが嬉しそうに笑った。


「かなた、リップ塗り直してあげる」


 そう言って、取れてしまった私の口紅を拭って、手に取ったのは結衣さんが愛用している口紅だった。


「なんで、結衣さんの……?」


「ん? 同じ色ならキスしてもいいかなと思って」


 あっさり言うから、顔が火照りそうになる。


「初詣行くのに……あんまりえっちなことばっかり考えてると、神様がお願い事きいてくれなくなりますよ」


 そう言えば、結衣さんが笑った。私の顎を優しく持ち上げて、そっと唇に押し当てられる結衣さんの、色。結衣さんの唇の、味。なんでだろう。心臓が、どきどきする。


「別に良いよ。神様が私のお願いきいてくれたことなんて一度もないもん。かなたとキスすることの方が、私にとっては大事」


 願いが叶ったことないなんて、なんて寂しいことを言うんだろう。ぎゅっと心臓が締め付けられるような気がした。


 今まで、どれだけの願いがあったのかはわからない。聞き届けられなかった結衣さんの願いって、一体、なんだったのかな。



 何を願ったんだろう、こんなに、無欲な人が。



 手を繋いで、他愛もない話をしながら初詣へ向かう道中で、私はずっとそんなことを考えていた。





***





 あぁ、そういえば日本のお正月って、初詣って、こんな感じだった。結構人がごった返していて、屋台もあって、着物を着ている人もちらほら見かける。


「……結衣さん、あとで屋台行きたい」


「うん、いいよ」


 人の波に引きはがされてしまわないように、結衣さんの手をぎゅっと握る。


「今日、律も来てるらしいんだけど、会えるかな」


「律さん、帰省しなかったんですね」


「かなたと同じ理由。勉強するから帰らなかったんだって」


 私が帰らなかった理由は、結衣さんと一緒に居たかったからで、本当は勉強することが理由ではないけど。


 初詣、誰と来ているんだろう。そういえば、ずっと気になっていたことがある。


「……律さんって、恋人いるんですか?」


「あー、今はいないね。律ってあんまり長続きするタイプじゃないから」


「そうなんですか。なんか、面倒見良いからそういう風に見えないですけど」


「その面倒見の良さがよくないんだよね。みんなに平等に接するでしょ、律って。彼氏にとっては、寂しいみたい」


「……なるほど」


 たぶん、付き合っても律さんって、あのままなんだろうな、と思う。確かに、それは寂しいかもしれない。


 私も、好きな人には自分を一番に想ってほしいと思うタイプだから気持ちはわかる。そう思うようになったのは、間違いなく結衣さんのせいだけど。


「会いたいですね、律さん」


「初詣終わったら、電話してみよっか」







 お財布に入っていたありったけの小銭を掴んで、お賽銭箱に投げ込む。がらがらと鈴を鳴らして、願いが聞き届けられるように、しっかりと手を鳴らした。


 目を瞑る。今年一年、結衣さんが幸せでありますように。


 そんなことを、真剣に願う。自分以外の幸せを祈ったのなんて、たぶん初めてだ。


 お願いが終わってから、そっと隣の結衣さんを見た。伏せられた瞳。


 何を願っているんだろう。結衣さんが望むものを知りたい。それは神頼みしないと叶えられないことなのかな。


 もしそうなのだとしたら、どうかその願いが今年こそは聞き届けられますように。



 もう一度目を瞑って、心から祈った。

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