第31話 結衣さんの、好きにして
結衣さんとの初めての旅行は、色んな意味で忘れられない経験になった。
今回の旅で、わかったことがある。
特別な人と共有する景色はとても素敵で強く印象に残るということ。
抱擁一つで天にも昇る気持ちになれるということ。
そして、そう思うのは、私が彼女を好きだから、ということ。
本当は気付いてた。ずっと知らないふりをしていただけで。
一度認めてしまったら、肩の荷が降りたように楽になった。
モヤモヤするのも、ムカムカするのも、全部全部、私が結衣さんを好きだから。
甘くてほろ苦い、ビターチョコみたいな恋だと思った。
***
旅行から帰ってきた翌日のこと。お土産買ってきましたよと律さんに連絡を入れたら、彼女はバイト先に受け取りに来てくれた。
「はい、これ、お土産です」
ケーキを頬張る彼女に、他のお客さんに気付かれないようこっそりとカウンターの下に忍ばせておいた例の箱根のお土産を手渡す。
「おっ、ありがとー! やっぱり結衣じゃなくてかなたちゃんに頼んで正解だったわぁ」
「日持ちしないので、食べ切れる量しか買ってきませんでした。食べ過ぎもよくないですよ」
「ご利益があるものは、いくらいただいたっていいのよ。田舎のばーちゃんが言ってたから、間違いない」
にかっと笑ってそういう律さんに、私も自然に笑顔になる。
律さんはすっかり私のバイト先の喫茶店を気に入ってくれて、よく顔を出してくれるようになった。
多分、私の知り合いの中では一番の常連さんなんじゃないかな。結衣さんはほぼお迎えに来てもらってばかりで、店の中には入らないし。
「それで? どうだった、箱根は」
「すごく楽しかったですよ。温泉もよかったし、大涌谷もすごかったです。登山鉄道って、山の斜面を登るために、こんな風に何度もスイッチバックするんですよ」
ハンドジェスチャーで、行ったり来たりを説明するも、律さんはきょとんと首を傾げた。
「スイッチバック? なにそれ」
律さんは、どうやらあまり鉄道に興味はないらしい。
もちろん私も詳しいわけじゃなくて、結衣さんが教えてくれたから覚えただけなんだけど。
「……とにかく、今度、悠里と行ってきてください。すごくよかったので」
説明を放棄すると、それいいかも、と律さんが笑った。
「それでさ。ずっと気になってたんだけど、夜はどうだった?」
「へっ……? 夜、ですか?」
唐突にそんなことを聞かれて、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「やっぱり噂通り、上手かった? あいつ」
「い、一応聞きますけど、上手いって何が……」
「いやだから、セック……」
「り、律さんっ! 何言ってるんですか、そんなの、知りませんよ!」
顔を真っ赤にして首を左右に振る。すると律さんが、にんまりと笑って自分の首らへんを指差した。
「嘘だぁ。だって、見えてるよ」
「嘘っ!」
キスマークを指摘されたと勘付いて慌てて首元を押さえる。コンシーラーで隠したはずなのに、襟に擦れて取れてしまったんだろうか。どうしよう。
すると律さんがケタケタと笑った。
「やっぱりしてんじゃん。付けられちゃったの? キスマーク」
そこで初めてカマをかけられたということに気付く。
「違うんですよ、これは結衣さんの悪戯で、本当に何も……何もしてないですって……!」
「嘘ぉ……え、本当に何もされなかったの? 一晩同じ部屋にいたのに? あの結衣が手を出さないってこと、あり得るの?」
何もされなかったわけではない。何なら色々とされかけた。あの時、私が明確にダメだと言わなければ多分、違った夜を迎えることになっていたかもしれない。
でも、今ちょっと聞き捨てならないことを聞いた。
「あの、ところで、噂通り上手い、って……女の子たちがそう言ってたんですか?」
メラメラと胸の奥に燃え上がる嫉妬の炎を悟られないように、じっと律さんを見つめる。
「あー……、いや、ごめん。失言だった、今の忘れて」
わかりやすく視線を泳がせる律さんに、少しだけムッとする。どこまで行ってもこの人は、なんだかんだ言って結衣さんの味方なんだよなあ。
「いいですよ、別に。結衣さんがそういう人だって、知ってますから。恋人も作らないで、女の子誑かして遊んでる、女癖最悪な人だって」
その欠点を有り余る魅力で補ってるのが結衣さんのすごいところなんだけど。
「あー……まあ、そうだけどさ。最近の結衣って結構、頑張ってると思うよ? 前に比べたら本当に落ち着いたもん。全部、かなたちゃんのためなんじゃないかなって思うんだよね」
「でも、たまにつまみ食いしてません?」
指摘すると、律さんが気まずそうに頬を掻いた。ほら、やっぱりね。一緒に飲み歩いてる律さんが、そのことを知らないわけがない。
「んー……でも、嫌ならはっきり言った方がいいと思うよ。今の結衣なら多分、かなたちゃんの言うことなら聞いてくれるんじゃない?」
「別に、嫌だとは……言ってません」
嫌だけど。言いたいけど。それを言う権利なんてないってことぐらいわかってる。
そういうところまで丸ごと愛せるくらい心の広い人ならいいのかもしれないけど、私はまだそこまで人間が出来上がっていない。
いつか話す、と言ってくれたその言葉に嘘はないと信じたい。
だから、結衣さんがそう言う以上、私からプレッシャーをかけることだけはしたくなかった。
めんどくさいな、と思われたくない。せっかく好きだと自覚したのに、嫌われたくない。
ただ、我慢できない私の性格上、もし次に他の女性の影に勘付いてしまったら、結衣さんを思い切り責めない自信なんてないけど。
「健気ねぇ、ほんと」
ため息と共に、律さんが言う。健気かどうかはわからないけど、これが今の私にできる精一杯だと思った。
閉店業務を終えて、裏口から店を出る。だいぶ肌寒くなってきた。もう冬は目前に迫っている。
こうやって四季は巡って、季節なんてあっという間に過ぎ去っていく。
今日は結衣さんがお迎えに来れないから、一人で帰らないと。コートの襟を寄せて、駅まで歩き出す。
「青澤!」
後ろから声をかけられて振り向くと、早川くんが私の手を掴んだ。
「今日、先輩お迎え来ないの? 家まで送るよ」
嬉しそうに笑う早川くんに、ずきんと胸が痛んだ。こんなことなら、結衣さんに言われた通り早く断ればよかったな。
もう冬になろうとしている。こうして曖昧にして彼の時間を奪い続けるのは、きっと本当の優しさではない。
「……駅までで、いいですよ」
何かを察したのか、早川くんの表情がこわばった。
好意を拒絶されるのは怖い、その気持ちは今ならわかる。そして私が彼に今までどれだけ残酷なことをしてきたのかも、今だったら理解できる。
「早川くんに、言わないといけないことがあって」
「え、うん……なに?」
二人連れ立って駅まで歩く道のり。行き交う車のライトが不安そうな彼の横顔を何度も照らしては消えていく。
「早川くんは……まだ私のこと、好きですか?」
ストレートに聞けば、彼がごくりと息を呑んだのがわかった。
「……うん、好きだよ」
「……そうですか」
返ってきた言葉に落胆する。もう好きじゃないと言ってくれたらどれだけよかったか。
「告白の返事、まだいいって言ってましたよね。でも、黙っているのもよくないと思って」
駅の明かりが見えてきたところで、早川くんの足が止まった。私も彼を振り返る。
「それ、聞かなきゃダメかな」
「聞いてください」
「そっか……。そうだよな、青澤、可愛いもん。彼氏ぐらい、すぐに……」
そう言われて左右に首を振る。
「彼氏はいません。でも……好きな人がいるんです。だから、早川くんの気持ちには応えられません」
あぁ、つらいな、と思う。小さくなる早川くんの姿が自分に重なって苦しくなる。
恋ってつらい。想いが通じ合えば幸せだけど、そうじゃなければこんなにも心を抉る刃になる。
「……青澤の好きな人って、どんな人?」
「すごく優しくて、でもちょっとずるい人、です」
言えば、早川くんが自嘲気味に笑った。
「なんで、付き合わないの?」
「……相手が恋人を作る気がないからです」
「何で、そんな人が好きなの。俺の方がずっと、大事にするのに……」
私に向き直って、責めるように彼は言う。
どうかな、早川くんも確かに大事にしてくれるだろうけど、結衣さんを超えるのってなかなか難しいと思うけど。
「何ででしょうね。……でも好きなんです。どうしようもないくらい。理屈じゃないんです」
はっきり言い切れば、早川くんが悔しそうに唇を噛み締めた。
「……そっか、わかった。伝えてくれて、ありがとう」
早川くんはいい人だ。もしも結衣さんに出会わなければきっと、彼と付き合う未来もあったかもしれない。
でも、私は結衣さんに出会ってしまった。
今まで私が恋だと思っていたものは偽物だったと思うくらい、胸を焦がす強い感情を知ってしまったから。
もう、後には戻れない。
泥沼だって構わない。たとえそれが泣いて喚いて傷だらけになるような恋だとしても。
早川くんとは駅で別れた。電車に揺られて二駅、家に向かう。
なぜかすごく結衣さんに会いたくなった。好きだと口にしたせいか気持ちがどんどん加速していく。
まだ帰ってきていないだろうけど、それでも確かに家に帰ってきてくれるなら、私はいつまでだって彼女を待っていられる。
ソファでごろごろしながら結衣さんの帰りを待っていると、玄関の扉が開く音が聞こえた。
リビングのドアを開けた彼女に飛びつくように抱きつくと、大好きな甘い香水の香りが胸を擽った。
「結衣さん、おかえりなさい」
「ただいま、かなた。どうしたの、今日はお出迎えしてくれるんだ」
嬉しそうに結衣さんが笑う。瞼に、頬に、順に唇を寄せられて私は彼女にギュッと抱きついた。
「お迎えに行けなくてごめんね」
ううん、と首を振る。キスして欲しくてじっとその唇を見つめると、結衣さんがふっと笑って私の顔を覗き込む。
「……なんか今日、甘えん坊だね。何かあった?」
「……何もないのに甘えたら、だめですか?」
私だって、色々あったら甘えたくなる夜だってある。
あなたが甘やかしてくれるから、私はその優しさの中毒になってしまったみたい。
「……ううん、だめじゃない。いっぱい甘えていいよ。何か飲みたい? 何でも作ってあげる」
「……ホットミルクがいい。はちみつ入りの。でも、その前に……キスして」
結衣さんが、ちょっとだけびっくりしたように目を見開く。甘えていいって言ったのに、だめだったかなと見つめると、結衣さんが笑って私の顎をとって私の視線を持ち上げた。
深い黒の瞳に真っ直ぐに捉えられる。
「……いいよ。どんなキスがお望み?」
そんなこと、言わせるなんて。視線を彷徨わせると、結衣さんがふふ、と笑った。
「なんで、そんなこと聞くんですか。いつも、聞かないで好き勝手にするくせに」
「んー、だって、かなたがしてほしいことをしてあげたいから。教えて欲しいな」
結衣さんって、結構、意地悪だ。優しく唇をなぞる親指。そうされるだけでその先を想像してしまう。彼女とするキスがどれほど気持ちがいいか、私はもう知ってしまったから。
「……結衣さんの、好きにして」
小さな声でそういえば、結衣さんが吹き出すように笑った。
「わかった、私の好きにする。でも、文句は言わないでね」
ぐいと身体を押されて、ソファに押し倒される。のしかかってきた結衣さんがコートを脱いで床にぽいと放り投げるから、心臓がぎゅーっと締め付けられるようだった。
「キスだけ、ですよ?」
「わかってる」
嬉しそうに笑う彼女に、噛み付くように唇を奪われて、私は目を瞑った。首に回した腕を引き寄せると、結衣さんがふっと笑ったのがわかる。
もういいです、これ以上は死んじゃう、と息も絶え絶えに白旗をあげて、私がホットミルクにありつけたのは、それからしばらくしてからのことだった。
秋が終わって冬になれば、きっとまだ知らない結衣さんに会える。
ねえ結衣さん、知らなかったでしょ。
あなたが私だけを想ってくれるなら、私の全てをあげてもいい。
私は本気でそう、思っていたんですよ。
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