第30話 もう少しだけ、このままでいさせて

 この旅館に来た時は、ベッドより布団がいいと言ったことを正解だったと思った。


 でも今になって、それは悪手だったかもしれないと思い直す。


 あんなことがあった後だって言うのに、結衣さんは和室に敷かれた布団の端っこを掴んで、ぴったりと二つをくっ付けたあと、にっこり笑って「一緒に寝ようよ」と言ってのけた。


 そうだ、この人はそういう人だった。


 湯上がりで、ほてった身体がまだ冷めないまま、腕を引かれて布団に引き摺り込まれる。


 部屋の隅にある照明が室内を薄ぼんやりと照らして、その暖色のあかりがなんとも言えない雰囲気だった。


「最近の結衣さん、ちょっと強引すぎませんか」


 そんなにニコニコしながら言われたら、毒気を抜かれてしまって断れない。


 断ったところで、「私はあなたを意識しています」と彼女に意志表示しているようなものだ。選択肢なんてひとつしかなかった。


「一緒に寝るの、嫌だった?」


 嫌がられていないのをわかって聞いてきているのはその表情を見れば明らかだ。そもそも結衣さんは基本的には私が嫌がるようなことはしない。


「寝るだけなら、別に……嫌じゃないです」


 布団の中に潜り込んで、仰向けに寝転がる。


 結衣さんは肘をついて私に向き直って、私の布団の端っこを持ち上げると躊躇いもなく身体を滑り込ませてきた。


 ぽんぽんと布団の上からお腹の辺りを撫でられると、なんだか寝かしつけをされているような気分になってくる。


「寝るんじゃないんですか……?」


「寝るよ。でも、もう少しかなたのこと見ていたい」


 同じ家に住んでるんだから、いつだって見れるのに。結衣さんってたまにこんな言い方をする。


 慌ただしく生きていると忘れがちだけど、いつでも当たり前に毎日がやってくるわけじゃないって、きっと結衣さんはわかっているんだと思う。


 そっと優しい手が私の頬を撫でて、それから指先が首筋を辿ると、ある一点を軽くなぞるようにする。


 何してるんだろう、結衣さんを見つめると、その瞳が私の首筋に注がれているのに気付いた。


「……どうしたんですか?」


「かなたって、色が白いからすぐに痕つくんだね」


 痕? なんのことですか——と言いかけた瞬間、二人で入浴していた時のことを思い出した。


 頭がバカになっていてその時は気付かなかったけれど、結構強めに首筋を吸われた気がする。


「ごめん、キスマークついちゃった」


 慌てて首筋をぱっと押さえる。そうしたところで内出血の痕がそう簡単に消えるわけないってわかってるけど。


 結衣さんがいたずらに笑う。思わず私は彼女の脇腹を軽く叩いていた。


「絶対わざとですよね……!」


「わざとじゃないよ。ごめんね、許して」


 そっと手を取られて、手のひらに口付けられる。本当にわざとじゃないんだろうか、そんな満足そうな顔してるくせに。


「……髪で、隠れるかな……」


「別に隠さなくていいじゃん。そんなに目立たないよ」


「本当ですか?」


「うん、本当」


 その嬉しそうな顔は絶対に嘘だ。誰に裸を見られるわけでもないし、困ることは何もないけど、明日になったら鏡でちゃんと確認しようと思った。




 とくとくと心臓が高鳴る。こんな状態で、眠れるかな、今夜。


 結衣さんと一緒に寝るのはこれで二回目だ。花火を見た夜は、ただ隣で眠っただけだった。


 それだけでも緊張してよく眠れなかったというのに。


 でも、緊張するし、ドキドキするけど、不思議と嫌じゃない。


 結衣さんの遊び相手の子たちは、私が知らないこういう結衣さんをたくさん知っているんだな、とぼんやりと思う。


 結衣さんが帰ってこなかった、あの夜も、あの夜も、知らない誰かがこうして彼女の腕の中で眠ったんだ。


 ギュッと結衣さんの浴衣の裾を握る。


「……他の子と寝る時も、いつもこんな風にしてあげてるんですか?」


 そう聞けば、私の髪を撫でていた結衣さんの手がぴたりと止まった。


「……どうしたの、急に」


 聞いたって結衣さんは答えない。そうだよ、なんて言ったら私がめんどくさいことを言い始めるって知ってるから、頭のいい彼女は私が不快にならない言い訳をくるくると考えているに違いない。


「何度も言ってるでしょ? かなたは、特別だよって。かなた以外にこんなことしないよ」


「……どうして、私は特別なんですか?」


「かなたのことが好きだからだよ」


「絶対、みんなに同じこと言ってる。結衣さんは誰にでも優しいもん。だからみんな、結衣さんのこと好きになっちゃうんですよ」


 信じきれない。結衣さんが他の子にどういう接し方をしているのかなんて、私は見たことがないから、全部想像の話でしかないけれど。


 でも、結衣さんはそれをあっさりと否定した。


「それは違うよ。かなたは勘違いしてる。みんな、私の指が好きなだけ」


 直接的な表現に、ズキンと心臓が痛む。


 結衣さんはめんどくさい子とは遊ばない。


 でもそれは、結衣さんが、暗に「私と遊びたいなら面倒は言うな」と圧をかけているだけで、彼女たちの本音がどうかなんて、知ろうとしていないだけじゃないんだろうか。


 そうじゃなかったら、結衣さんが持ち帰ってきたあの、大河ドラマのBlu-rayセットの山に説明がつかない。


——あの日、不思議そうに首を傾げていたところを見ると、多分、それが律さんの策略だということをまだ知らないんだと思うけど。


「……矛盾してませんか? 私のことが好きなのに、どうして他の子とセックスしてるの」


「いや、本当に最近はあんまり……」


 あんまり、ってことはやっぱり、ゼロではないんだ。


 そりゃあ私たちは恋人同士じゃないし、私は彼女の欲求に応えてないのだから、その欲が他に向いたところで私にそれを責める権利なんてない。


「結衣さんって、不誠実ですよね。もし……私が結衣さんのこと好きになっちゃったら、責任、取ってくれるんですか?」


 責めるように唇を尖らせて言えば、結衣さんがぱちぱちと何度か瞬きを繰り返した。


「責任……かぁ。どうかなぁ、結婚できるわけでもないし……子供だって作れないし……。うーん、難しいよね」


 結婚、子供、それが結衣さんにとっての「責任」なのか。そんなことを言ったら、今の日本では絶対に無理じゃないかと思う。


 異性間では紙切れ一枚で容易に成立する関係性を、同性間ではどう足掻いても手に入れることは難しい。


「……結婚とか、子供とか、そんな先のことまで考えるんですか、結衣さんは」


「そんなに先のことでもないよ。今のかなたにはわからないかもしれないけど」


「……結衣さんが恋人作らない理由って、それ?」


 恐る恐る聞くと、結衣さんがふっと笑った。正解とも不正解とも取れる笑み。


「まあ、それだけが理由ってわけじゃないんだけど……。どんなに好きでも、私には絶対にあげられないものもある。付き合ったって別れが確定してる以上、相手を傷付けるだけだから、恋人はつくらない」


 きっぱりと言い切った結衣さんの意志は私が思っていたよりもずっと固そうだ。


「だから……責任は取れないし、約束もできないけど……それでも私はかなたのことが好きだよ。それじゃだめ?」


 優しい手が私の頬を愛おしそうに撫でる。こんなに愛情深い人なのに、なぜそんなに頑ななんだろう。


 私のお父さんが、雪哉さんはお父さんに似て頑固だって言ってたけど、結衣さんも、負けず劣らず頑固だと思う。


「私は……好きってだけじゃ、やだ。足りない。好きな人なら全部独占したいし、ちゃんと約束したいです。他の子に目を向けないで私だけを好きでいて欲しい」


 ねえ、結衣さん。あなたに言っているんですよ。じっとその目を見つめて思いの丈をぶつける。


 わかっているんだかいないんだか、私を見つめていた瞳が優しく細められた。


「ふふ……」


 堪えきれずに結衣さんが笑う。


「……今、めんどくさいって思ったでしょ」


「んーん、かわいいよ。かなたの恋人になる人は、本当に幸せだね」


 どうして別の誰かと私の未来を想像するんだろう。私のこと好きなんじゃないの? それならどうして、結衣さんは私との未来を思い描けないんだろう。


「結衣さんは……私のこと好きだっていうくせに、恋人になりたいとは思わないんですね。別れるかどうかなんて、試してみないとわからないのに」


「……そうだなぁ、かなたが、恋人にしてっておねだりしてくれたら、考えてあげる」


「なんで私がお願いする方なんですか……」


 あなたが私を好きだと言うんだから、それは絶対にあなたから言うべきだ。


 腹が立って結衣さんのお腹に軽くパンチすると、結衣さんが笑った。


「ほら、もう寝よ。明日も早いから。黒たまご食べに行くんでしょ」


「そうやっていっつも誤魔化すんですね。結衣さんのそういうとこ、きらい」


「嫌いなんて言わないでよ。私はかなたのこと、大好きだよ」


 スルスルと、枕と首の間に差し込まれる腕。肩まで回ったと思ったら抱き寄せられて、その腕の中にすっぽりとおさまる。


 腕枕、してくれるんだ。図らずもキュンとする。いい匂いに包まれて、目を瞑った。


 もう、いいや。あったかくて気持ちいいし、今日は誤魔化されてあげよう。


 私を好きだと言うくせに、私のものにならないあなたが、本当に憎らしくて仕方ない。


「……ずるくて、ごめんね。いつかちゃんと話すから。もう少しだけ、このままでいさせて」


 耳元で囁く声はいつになく弱々しくて、いつもの結衣さんらしくなかった。


 結衣さんがまだ私に言えない何かがあるんだとしても、今はそれでもいいと思えた。


 そんな彼女の弱いところを知るたびに、私は何も言えなくなる。


 結衣さんは、本当は見かけよりも強くないって、知ってしまったから。



 私はきっと、あなたのそういうところに、恋をした。

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