第29話 得意なのはキスだけじゃないんだけどな

 静まり返った脱衣所で、ひとり。


 綺麗に結んでもらった浴衣の帯を解く自分の手が、微かに震えていることに気が付いた。


 緊張——している。それも、ものすごく。


 結衣さんは、先に外のお風呂で待っていると言って、私を置いて早々に行ってしまった。


 数分前のやりとりを思い出す。


「絶対、何もしないでくださいね」


 念を押すようにそう言うと、結衣さんは笑って頷いた。


「わかってるって。大丈夫だよ」


 そうは言ってくれたけど、本当だろうか。


 花火を観た時だって、何もしないという約束をあっさり破って私にキスしてきたくせに、本当に何もしないって約束を守ってくれるんだろうか。


 面白いくらい脈打つ心臓に、問いかける。


 どうしてこんなにドキドキしてるの。嫌ならやめればいいだけの話なのに。


 結衣さんは、絶対に強制したりはしない。私の意見を尊重してくれる。


 わかっているのに、なぜ受け入れたの。自分で自分がわからなくなる。


 浴衣を脱いで、下着になるといよいよ鼓動が激しさを増した。


 深く呼吸をして、腕を後ろに回してブラのホックを外す。腕から抜いて、それからカゴにそっと置いた。


 隣のカゴに彼女が脱いだ服が整然と畳まれて置いてあるのがやけに生々しい。


 どうしよう、本当にドキドキする。これじゃあ、何かされることを期待してるみたいだ。




 とにかく、平然とした顔をしていればいいんだ。意識するから、結衣さんは面白がって私をからかってくるんだから。


 両足から下着を抜く。素肌に何も纏わないままでいると、心許なくてそわそわする。


 意を決して、足を進めて露天風呂に続くドアに手をかけた。少し開けた隙間から、顔を出す。


 薄暗い中に、長い黒髪を上に纏め上げた後ろ姿が、湯気の向こうにぼんやりと見えた。


「結衣さん、今から行きますから、目、瞑っててください」


「え、目瞑るの? ずっと?」


「私がいいって言うまで、です」


 不満そうな彼女の言葉を遮るようにそう言うと、わかった、と返事が返ってきたので安心してドアの向こうに体を滑らせた。


 湯煙の向こうに、結衣さんの白い背中が見えて、そろりそろりと足を進めた。


 外は少し肌寒いから、もうさっさと入っちゃおう。


 乳白色の湯でよかった。胸元まで浸かっている結衣さんの身体が見えずに済んで、ほっとする。


 掛け湯をした後、爪先を湯船に差し込む。包み込むようなちょうどいい暖かさに、思わずため息が出た。


「ねえ、もういい?」


 結衣さんが痺れを切らしたように言うから、急いで肩まで浸かって背を向ける。


「……もう、いいですよ」


 目を開けたら視線が絶対にこちらに向くことがわかっているから、小さくなるように膝を抱えると、ぱしゃ、と水が跳ねる音が聞こえて、それと同時に後ろから白い腕がにゅっと伸びてきた。


 え、と思った瞬間、後ろからギュッと抱き寄せられた。私よりも少し長湯しているせいで温まった結衣さんの、滑らかな身体が密着する。


 背中に柔らかいものが触れて、ぐわっと身体中の血が沸騰するみたいに熱くなる。


 ちょっと、待って。いきなりすぎて、フリーズしそう。


「ねぇ、なんで背中向けてるの? こっち向いてよ」


 耳元に寄せられた唇に、息を飲む。


 ねえ、結衣さん、当たってます、背中。


 言いたいけど、言ったら意識してるってバレバレだ。言えない。絶対に言えない。ハグなんていつもしてることだし、布一枚ないだけなのに、なんでこんなに、鼓動が速まって仕方ないんだろう。


「なんでって、恥ずかしいんですよ」


「お湯濁ってるから、見えないよ。だから顔見せて、お願い」


 肩をそっと掴まれて、身体を反転するように促される。


 呆気なく促されるままに振り向くと、視界に飛び込んできた首筋から鎖骨までのラインがあまりにも綺麗すぎて、どこに視線を向けていいか躊躇った結果、結局その瞳を見つめ返した。


 結衣さんが優しく微笑む。


 なんだか、私ばっかりドキドキして緊張しているみたい。結衣さんは余裕そうで、それがちょっと腹が立つ。


 そんなことを思っていると、結衣さんの腕が私の身体を正面から、そっと抱き寄せた。


「顔赤いね、かわいい」


「結衣さん、ちょっと……」


 裸で抱き合うなんて、明らかに先輩後輩の範疇を超えていませんかと苦言を呈そうとして、言葉を飲み込む。


 ぴったり隙間なくくっついた素肌が、あまりにも気持ちがよくて言葉を失ってしまう。


 女性特有の滑らかで、柔らかな肌がこんなにも心地いいなんて知らなかった。


 こんなこと考えたくないけど、結衣さんが女の子とセックスしたがる理由が、少しだけわかった気がした。





 もう、多分抵抗しても無駄だ。諦めて大人しく、その肩に頭を乗せる。腕を彼女の背に回してギュッと抱きついた。


 どうしよう、あったかくてすごく、きもちいい。ずっとこうしていたい。


 ずっと心臓がドキドキしてる。緊張してるのに、どうしてか結衣さんに抱きしめられるだけで、身体の力が抜けていく。


「ふふ……」


 すると耳元で笑う声がした。


「なんで、笑うんですか」


「だって、いつもより大人しいから。緊張してるの? かわいいね」


 こんな状況で緊張するなと言う方が無理でしょう。誰のせいだと思っているんだか。


 優しく頬を撫でられて、その指先が気持ちよくって目を瞑る。


「結衣さん、なんでそんなに余裕なの……。やっぱり、魅力ないですか、私。そんなに、胸も大きくないし」


 客観的に見ても、私の身体は普通だと思う。結衣さんがどんな体つきが好みなのかは知らないけど、自分の身体に自信なんてない。


 実際、前の彼氏に浮気されてフラれた理由も私の身体に原因がある。セックスしても気持ちよくなれない不感症な身体なんて、魅力があるわけはない。


「……かなた。手、貸して」


 背に回していた腕を取られて、ぱしゃ、と湯船から持ち上げられる手。引き寄せられた先は、結衣さんの真っ白い胸元だった。


 ぎょっとした私を横目に、心臓あたりに押し当てられる手のひら。


 伝わってきた鼓動は、私と同じ少し速いリズム。思わず結衣さんの目を見つめた。


「私だって緊張してる。すごくドキドキするよ」


「アルコールの、せいじゃなくて?」


 さっき、お酒飲んでたから、それで心拍が上がっているんじゃないの?


 女の人の裸なんて見慣れているくせに、本当に私の裸なんかにドキドキしたりするのかな。


「疑り深いなぁ」


 結衣さんはそう言って笑うけど、そう思わせる結衣さんが悪いと思う。割と本気で。


「それじゃあ、もっとドキドキさせてよ」


 ぐい、と顔が近付くから、慌ててその唇を手のひらで押し留めた。


「……かなた、手、邪魔」


「な、なんでキスしようとするんですか」


「手、心臓に当ててたらわかるよ。私がどれだけかなたにドキドキするか。知りたいんでしょ?」


 唇を押し留めた手のひらを外されて、そっと心臓のあたりに戻される。


「あの、結衣さん……」


 名前を呼んだ声が少し震えた。これ以上キスを拒む言い訳が出てくる前に、その唇で言葉を奪われると、結衣さんの瞳に火が灯ったのがわかった。


 その眼差しに、ぞくっと背が震える。


 何度か触れるだけのキスをした後に、ぺろりと唇を舐められた。それがなんの合図かわかっているけれど、せめてもの抵抗で、口を開かずに抗っていると。


「……口、開けて」


 はっきりとそう言われて、気付けば、その言葉に従っていた。そうすることがまるで当然かのように、私の身体は彼女の思うがままだ。


 どうしよう、とんでもないことに気付いてしまった。私、結衣さんに、今みたいに命令されたら何を言われても抗えない、かも。


 口の中に柔らかな舌が忍び込んでくる。逃げようとする身体をギュッと抱きしめられて、舌を絡めとられたら、いよいよ呼吸が苦しくなった。


「ん、ん……」


 クラクラして、頭がぼうっとしてくる。擦れ合う舌が甘くて、気持ちがいい。身体の力がふにゃふにゃと抜けていく。


 キスの艶かしい音が響いて、私の頭をよりいっそうバカにする。


 イタズラな指先が、背骨の一つ一つをゆっくりと辿って、背中を撫で下ろしていくからたまらずに、身体がぴくぴくと震えた。


 自分の心臓の音がうるさすぎて、結衣さんの心臓の音を気にしている余裕なんか、ない。


 どうしよう、気持ちいい、かも。今まで、キスをしてこんな風に思うことなんてなかった。


 初めてだ、もっとして欲しい、と思うなんて。


 指先が背を辿った後、脇腹を通って、腰から太ももを撫でられた瞬間、身体が震えてしまって、思わず弾けるように唇を離した。


 結衣さんの胸元から手を離して肩を押そうとしても、腰に回った腕が私の身体を引き寄せる。身体を離すことは、許されなかった。


 


 首筋を優しく舐められて、かと思ったら強く吸われて、変な声がでそうになって思わず手で口を塞ぐ。


「……ドキドキしてるの、伝わった?」


 密着する身体から、微かにドクドクと鼓動が伝わる。でも、私の鼓動の方がおかしいくらい激しいせいで、もうどっちがどっちの鼓動なんだかわからない。


 腰が抜けそう。もう、無理、降参。白旗を振って、体重を結衣さんに預ける。


「もう、よくわかんないです、ドキドキして死んじゃう……」


 肩に頬を乗せる。もう許して。疑ったりしないから。結衣さんが笑ったのが触れた肌から伝わってくる。


「……結衣さんって、ぜったいキスするの好きでしょ」


 指摘すると、結衣さんはおかしそうに笑った。


「なんでそう思ったの?」


「キスするの、上手だから……。おかしいです、こんなに気持ちいいの、へん」


 ポロリと本音がこぼれ落ちてしまって、結衣さんがあはは、と吹き出すように笑ったから失言だと気づいた。けどもう遅い。一度言ってしまった言葉は取り返せない。


「気持ちよかった? かなたもキス好きなんだね」


 そっと唇を親指でなぞって、結衣さんが不敵に笑う。


「……得意なのはキスだけじゃないんだけどな。かなたが許してくれるなら、もっと気持ちいいこと、教えてあげるよ」


 悪魔のような囁きが聴こえる。って言うか、もう悪魔だ、このひとは。

 裸で抱き合って、キスをして、こんな誘い文句を言われて、それで落ちない女性なんているんだろうか。


「……結衣さんって、こうやって女の子を口説いて、遊んでるんですね」


「まさか、遊びならこんな回りくどいことしないよ」


 遊びじゃないなら、なんなんですか。そう問いかける前に、いたずらな指先が太ももをそっとなぞり上げて行くから、慌てて彼女の肩を押した。


 だめ、だめ、流されない。絶対に。


「結衣さん、私、もう、のぼせそう……」


 言えば、ぴたりとその指が止まる。


「……だめ?」


 深い黒の瞳が、じっと私を見つめる。


 あぁ、この人の腕の中で眠れたら幸せだろうな。いっそ流されてしまえたらいいのに。


 でも、そうしてしまったらきっと、地獄を見ることになる。


 きっと私は、一度でも抱かれてしまったら、彼女が他の女性を抱くことを絶対に許せない。


 そうしたら結衣さんが好まない「めんどくさい女」の出来上がりだ。


 それだけは、避けないと。


 だって、身体を許したからといって結衣さんが私だけのものになるわけじゃない。


「……だめ」


 なんとか絞り出した言葉は、みっともなく震えてしまったかもしれない。


 ちょっとがっかりしたように、ふう、と息を吐いて、結衣さんは残念、と呟いた。


「わかった……。続きは、また今度ね」


 優しい唇が私の頬に押し当てられる。


 

 きっともう、私が彼女を受け入れてしまうのも時間の問題かもしれない。


 だって結衣さんがそうやって、まるで恋人みたいに私に優しくするから。


 そんなに愛おしそうな目で私を見ないで。


 恋人にするつもりも、ないくせに。


 振り向いてくれないとわかっている相手に恋をするのは、つらすぎる。だから私は、いつまで経ってもあなたに好きだと言えない。


 ずるい。私のことを好きだと言うのに、身体は求めてくるくせに、なぜ私の心が欲しいとは思わないのだろう。



 あなたがそんなふうに曖昧な態度ばかり取るから。何もかも私に選ばせようとするから。



 だから私は、いっそあなたに何もかも、奪われてしまいたいと思ってしまうんですよ。

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