第26話 また来年も、その次の年も、同じお願いをするから
静まり返ったリビングに、ふたりきり。
「あの、結衣さん」
雪哉さんを見送ったその後ろ姿に声をかける。すると結衣さんは振り向いて、あからさまにきゅっと眉根を寄せた。
「かなた」
名前を呼ばれて、距離を詰められる。
「……なんで、鍵開けたの?」
「へ?」
「モニター、ちゃんと確認した? 知らない男の人を簡単に信用してドア開けちゃだめじゃん」
モニターは、確認しなかった。だって、寝起きだったし、結衣さんだと思ったから。確かに正論で、ぐうの音も出ない。
「……ごめんなさい。結衣さんが帰ってきたと思って」
そっと、胸元に抱き寄せられる。甘い結衣さんの匂いがする。私が安心する、大好きな香り。
「雪にぃが悪いんだけど、玄関に男の人の靴があったから、ちょっとびっくりした」
「次からは、ちゃんと確認します」
「ん、絶対だよ」
ぎゅーっと私を抱きしめて離さない結衣さんが、私の首筋にぐりぐりとすり寄ってくるから、ちょっとくすぐったい。
「結衣さん、もう、離してくださいよ。ケーキ買ってきたから、一緒に食べましょ?」
「それより先に、聞きたいことがあるんだけど」
「何ですか?」
「……雪にぃに会って、どうだった? 好きになった?」
拗ねるように言われて、ふふっと笑ってしまう。私がそう簡単に人を好きになれるような性格はしていないって、わかっているはずなのに。
「想像以上に、かっこよくて驚きましたけど……私はそんなに気が多いタイプじゃないですよ。さ、気を取り直してお祝いしましょう。律さんが、結衣さんのためにシャンパン買ってきてくれたんですよ」
安心したように結衣さんは笑うと、そっと私の顎をとる。あ、と思った瞬間には、唇にやわらかい感触がして、触れるだけの優しいキスを許してしまった。
最近、結衣さんは本当に遠慮がない。受け入れてしまっている私も私、だけど。
「あの……結衣さん?」
「……ずっと、帰りたいと思ってた。今日ぐらいは断ればよかったって、何度も思った。かなたに、会いたかった」
初めて聞いた彼女の弱音に、息が止まりそうになった。
まっすぐに見つめられてそう言われると、息もできないような深い海の底に突き落とされたような気持ちになる。
もがいても、もがいても、とてももう一人では浮かび上がってくることはできそうにない。
私だって、結衣さんが帰ってくるのをずっとずっと待ってた。会いたくて会いたくて、たまらなかった。
愛おしさに負けて、結衣さんをきつく抱きしめ返す。
大切な日を一緒に過ごせて嬉しい。どうか世界中のだれよりも幸せな一年を過ごしてくれますようにと、心から祈らずにはいられなかった。
コーヒーテーブルに二つ並べたシャンパングラスと、ショートケーキが二つ。もちろん私のグラスの中身はジンジャーエールだけど。来年は同じものを飲むことができるようになるから、今年は我慢。
「それで……結衣さんが欲しいものって何なんですか?」
当日に言う、と言っていた、結衣さんの欲しいものって、なんなんだろう。早く言ってほしくて、隣に座る結衣さんをじっと見つめると、優しい瞳が柔らかく細められた。
「せっかくだから、当ててみてよ」
「そういうのは、なしです。だってずっと考えてたけど、本当に見当もつかなかったんですよ」
おかげで何も用意できなかったことを不満に思っている。ちらりと視界の端に映る淡いブルーの紙袋に嫉妬したって仕方ないってわかっているけど、気に入らない。
むくれている私に気づいてか、結衣さんが笑う。そのまま手が伸びてきて、首の後ろに手が回って引き寄せられる。
何度か、結衣さんとキスして知った、彼女がキスするときの癖だ。私が逃げないように、身体を固定するその腕の強引さを感じて、胸の奥が熱くなる。
案の定、文句を言う私を黙らせるように唇をふさいでくる。
こんなにしてくるってことは、結衣さんはたぶんキスが好きなんだと思う。本当に手慣れていて経験が透けてみえるのが少しだけ腹が立つけど。
悔しいけど、結衣さんとするキスは気持ちがいい。だから、私は彼女を拒否できない。
今まで付き合ってきた人たちとは比べ物にならない。私はいつも、その唇に翻弄されてばかりいる。
唇が離れると、結衣さんがじっと私の瞳を見つめて、言った。
「私が欲しいもの、本当に知りたい?」
「……知りたい、です」
こくりと頷くと、結衣さんは優しく私の濡れた唇を親指で撫でた。
「……かなたの、全部が欲しい」
「え……っ?」
全部って、何、なんのこと?
顔が熱くなってくるのがわかる。言葉の意味が理解できない。それって、どういうこと。頭の中がぐるぐると混乱していく。
手を取られて、その甲にちゅっとキスをしながら、いたずらな瞳が私を見つめる。
「だめ?」
あっけなく身体を押し倒されてソファに沈む。
うそだ、ちょっとまって、本気? 最初からそのつもりだったってこと? わかんない。だってお風呂もまだ入ってないし、ってそうじゃなくて。
どうしよう、付き合ってないのに、こんなことしちゃいけないのに。もう、結衣さんのこと、ぜんぜんわかんない。
私の返事を待たず、彼女の唇が私の首筋に押し当てられたのがわかった。軽く歯を立てられた後、ちゅうと音を立てて吸われる。
「……結衣さん……ま、待って……!」
よわよわしく、蚊の鳴くような声で、絞り出せたのはこの言葉だけだった。きゅっと目をつむって、結衣さんから顔をそらす。
いつのまにか繋がれていた手を必死に押し返すと、ふふっと結衣さんが笑う声がしたから、恐る恐る目を開けた。
私にのしかかっている彼女が、面白そうに笑っている。
「……かなたの心の準備ができるまで、待って欲しいってこと? それなら、いくらでも待ってあげる」
そう指摘されて、ゆでだこみたいに顔が真っ赤に染まっていくのがわかった。私のバカ、「待って」じゃなくて、なんで「やめて」って言わなかったのか。
「……結衣さんの、バカ。こういうのは、だめ。ルール違反です……」
震える声でそういうと、結衣さんが吹き出すように笑った。
ごめんごめん、びっくりしたよね、と言って、繋いだ手を引いて起こしてくれる。
「意地悪ですよ、からかうなんて……」
あのまま、受け入れてしまったら、結衣さんはどうするつもりだったのか。
わからない。でも、確かにあのまなざしは冗談ではなかった、と思う。
私が怖気づいたから、結衣さんはそれを察して引いてくれただけな気がした……たぶん、だけど。
膨れた私の頬を、結衣さんが優しく撫でる。ごめんね、怖かった? ともう一度謝られて、そうじゃないと左右に首を振った。
「本当に、お祝いしたいんですよ、私は……。冗談じゃなくて、ちゃんと教えてください。何が欲しいのか」
「……じゃあ、改めて。私からの本当のお願い、聞いてくれる?」
そっと手を取られたと思ったら、優しく小指を絡ませられる。彼女のつるりと丸いボルドーの爪が、何とも色気があると思った。
「私に、できることなら」
まだ、ばくばくしている心臓を落ち着かせながら、真剣な彼女のその瞳を見つめ返した。
「約束してほしいの」
「約束? ものじゃないんですか?」
「うん」
なるほど、それでなにも準備しなくていい、と言ったのか。
「……来年も、私の誕生日を祝ってくれるって約束して。来年も、その次の年も、同じお願いをするから……その度に約束して。何があってもこの日だけは、一番におめでとうって言ってほしい」
あの結衣さんが、こんなに健気なお願いをするなんて思っていなかったから、面食らう。
「……そんな、簡単なことでいいんですか?」
「うん」
満足そうに笑う結衣さんに、なぜかものすごく胸が締め付けられるように切なくなった。どうしてこんな約束をしたがるんだろう。
――それじゃまるで、これから先、そんな約束をしなければこの関係が崩れていってしまうと思っているみたい。
「……約束します。来年も、結衣さんのお誕生日は、私が一番にお祝いするって」
不安を払拭するように、私も負けじと真っ直ぐにその瞳を見つめて言った。
結衣さんが本当に嬉しそうに笑って、繋いだ小指に唇を寄せた。
「……約束だよ、かなた」
小指を絡ませたこの時は、来年だって、再来年だって、そのまたずっと先だって、彼女が望み続けるならいつまでも、その約束を守り続けることができると、私は信じて疑わなかった。
ちゃんと、伝えておけばよかったな。
あの夜、あなたは私の全てが欲しいと言ったけど、ずっと前から、私の全ては、あなただけのものだったって。
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